「幽谷!」


 階段を上がっている時、趙雲に呼び止められた。

 忌々しそうに顔を歪めた彼女は、それでも足を止めて振り返る。視線を落とせば書類を数枚持った彼が息を切らせて踊場に立っていた。

 体育の授業中、彼に今朝の練習時にいなかったことをしつこく問われたのは記憶に新しい。
 嫌でも嫌悪感が胸を占める。


「何かご用ですか」


 けんもほろろに言っても趙雲は「丁度良かった」と笑顔で階段を上ってくる。


「放課後、少し手伝ってもらえないか。関羽に頼んでいたんだが、彼女に急用が出来てしまってな」


 関羽からも、趙雲を手伝って欲しいと言伝を頼まれていたようで、幽谷は目を細めて舌を打った。

 たまに関羽は卑怯だと思う。
 関羽からの頼みごとには絶対に逆らえないことを逆手にとって、そんな言伝を趙雲に持たせるなんて。
 自分がどれだけ趙雲に苦手意識――――いいや、嫌悪を抱いているか知らない筈もあるまいに。

 幽谷はつかの間沈黙した後、嫌そうに頷いた。


「……不本意ですが、関羽様のお言葉があるならば従いましょう。何を手伝えばよろしいのです?」


 直後の、彼の嬉しそうな笑顔に拳を叩きつけたかった。


「では、放課後体育倉庫に来てくれるか」

「分かりました」


 体育館倉庫……ああ、そう言えば壁に穴が開いていたんだったか。
 去年誰かが道具をぶつけて開けたらしいその穴は、間に合わせ程度に板を打ち付けて補修したままだった。
 その板が外れたのかもしれない。業者を雇って直せば良いのに、どうもこの学校はままにぞんざいなところがあった。

 頭を下げて歩き出すと、趙雲がまた幽谷を呼んだ。
 今度は何だと肩越しに振り返ると、


「馬超という男が昨日、この学校にお前を訪ねて来たんだが、心当たりはあるか?」

「……いいえ、名も知りませんね」


 心当たりなんてありまくりだ。
 しかし知り合いとも言いたくなかった幽谷は、さらりと嘯(うそぶ)く。

 けれども、


「生徒が、お前とバイクに乗るのを見ていたようだが?」

「……さあ、人違いでは」


 随分と前のことを持ち出してくる。
 幽谷は吐息を漏らしてなおも誤魔化した。

 趙雲は承伏しかねるように、渋々と引き下がった。追求されないのは、正直楽だ。これが曹操だと蛇のようにしつこいのだ。
 幽谷は足早に階段を上がっていった。

 その後ろで、趙雲がどんな顔をしていたかなど、彼女には知る由(よし)も無い。



‡‡‡




「よお、姉ちゃん」

「……」


 幽谷は天を仰いで遠い目をした。
 タイミングが悪い。
 本当にこの男はタイミングが悪い!

 幽谷の前に立って真っ白な歯を見せて笑う青年――――馬超は、勿論この学校の生徒ではも卒業者でもない。この校舎に入ることすら出来ない筈なのだ。
 だのにこの男は平然と、体育館前にいる。

 彼は幽谷を校門から目敏く見つけて付いてきたのだった。厚顔にも程がある。


「ここは関係者以外立ち入り禁止ですが」

「そうだな。けど、俺はお前の関係者だろ?」

「誰が私の関係者以外と申しましたか」

「ん、違ぇのか?」

「……」


 ……頭が痛い。
 この男は馬鹿なのかそうでないのか――――いや、そうでないところが無い。この男は馬鹿だ。絶対に馬鹿だ。
 こめかみを押さえていると、馬超は幽谷に近寄って腰を抱いてくる。スキンシップが激しいのもどうにかならないものか。

 吐息を漏らしながら手を抓りあげると、彼は小さく声を上げつつ苦笑混じりに離れた。


「気安く触らないでいただきたい」

「本当お高ぇ女なことで」


 にやにやと言う馬超は楽しげだ。
 幽谷は彼から距離を取りつつ、どうしたものかと頭を働かせた。

 じきに趙雲もここに来るだろう。二人が鉢合わせでもすれば厄介だ。校舎に侵入した部外者を、趙雲が放っておく筈もない。
 彼が来る前に馬超を学校から追い出さなければ――――。


「幽谷!!」


――――ならなかったのに。
 幽谷は頭を抱えたくなった。彼も彼でタイミングが悪い。もっと遅く来いと心の中で漏らした。

 趙雲は幽谷の肩を掴んで己の背後に隠すと、馬超をキツく睨んだ。

 馬超の目が好戦的に煌めいたのを、幽谷は見逃さなかった。

 たちまちに剣呑な空気が取り巻いた二人に、幽谷は本日何度目か分からない嘆息を漏らした。
 取り敢えず、つまらない諍いを起こす前にどうにかしておこう。


「……馬超殿」

「んー?」

「…………今週の日曜なら、用事はありませんので」


 嫌々言えば馬超は容易く食いついた。
 上機嫌になって勝手に予定を入れてくる彼に、遠い目もしたくなる。

 片手で顔を覆い、


「ですから学校から出て行って下さいまし」


 厄介なことになる前に。
 何処か不穏な様子の趙雲の腕を掴んで牽制する。殴りかかったりはしないだろうが、馬超に挑発されたら非常に面倒なことになるかもしれない。真面目な趙雲に限って、そんなことは無いと思いたいが。


「……野郎と一緒にいんのに何もしねえのは癪だが、まあ、約束も取り付けられたしな。ここは姉ちゃんの言葉に従うことにするか」

「最初からそうして下さい。そもそもあなたがここに来なければこうはならなかったんです」

「そりゃ無理だな。電話かけても出ちゃくれねえじゃねえか」

「最近の見慣れない番号はあなたでしたか……」


 何処でそんな情報を仕入れたのかは、訊かないでおこう。
 番号を変えようと、こっそりと思った。

 馬超はそんな幽谷の手を取って甲に口付けると、趙雲を挑発的に見やってくるりときびすを返した。幽谷に片手を振って大股に校門へと歩いていく。
 ……これで、休日が潰れた。

 趙雲から手を離して内に溜まったものを吐き出すように長々と息を吐き出すと、趙雲が堅い声音で幽谷を呼んだ。


「……何です?」

「確か、知らないと言っていなかったか?」

「……知らない人でいたいんです、私は」


 さすがに、馬超の所為で機嫌の悪い趙雲と同じくらい嫌いだとは言わなかった。
 幽谷は髪を掻き上げると足早に体育館に入った。


「体育館倉庫に向かうのでしょう? 用事は早く済ませたいのです」

「……ああ」


 頷いた趙雲の表情は、暗かった。



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