関羽
生まれたのは闇の中。光なんて無く、黒一色に染め上げられた世界に彼は生まれた。
彼は闇の中でも浮かび上がる程の、目の覚めるような赤をまとい、ただただ澱んだ重苦しい中を漂っていた。
このまま永久に死なずして彷徨(ほうこう)するのだと、自分でも分かっていた。それが正しいのも、分かる。消えぬままただただ孤独の中浮遊するだけで永遠の時間を生きていくのだ。
――――だのに。
引き上げたのは、魔性の女。正しい眠りから彼を呼び覚ましたのは、己の欲望に忠実な女仙。
彼女の狂気の滲んだ顔を見て、生まれて初めての恐怖を抱いた。
秘めたる力を全て奪われた彼は美しい赤を気に入られて愛玩の為の家畜となる。……いや、家畜以下か。観賞用以外に何の役にも立たないのだから。
死ぬことも許されず、ただただ女仙の一時の興味の為に飼い殺しにされるだけ。
声の出し方も分からず、恐怖以外の感情も知らず、自分の存在価値を見出せない生活は、約三百年間続いた。
きっと、それ以上も続く。延々と続く。
彼にとっての解放は、女仙が飽きて殺されるその時だけなのだ。
‡‡‡
『あなたの髪と目、とても綺麗な色をしているのね』
女仙に連れてこられた少女は、彼の姿を見るなりそう言った。
血のようだと喜んだ女仙とは違い、彼女は彼の髪を自分の大好きな花の色だと笑顔を見せた。頭に二つの三角を持って、嬉々と語る女仙に時折承伏しかねるような顔をしながら、それでも彼にだけは女仙に隠れて柔らかい表情を向けた。
笑顔だけでこちらへ何かを言っているように見えるけれど、分からない。
剰(あま)りに凝視しすぎた為に女仙に蹴り上げられると、少女は彼を庇って女仙を非難した。
労るように抱き締められ、初めて人間という生き物の温もりを知った。人間という生き物の身体の柔らかさを知った。
彼が生まれて初めて知った人間が、少女――――関羽なのである。
後に知ったことではあるが、彼女は猫族という種族であって厳密に言えば人間ではないらしい。されどそんなことはどうでも良かった。
関羽の温かさがとても優しくて、心地よくて、彼は恐怖以外の感情を彼女に教えてもらった。
だから、女仙が死んだ時、力を取り戻した時、本当は彼女のもとへ行きたかった
でも、駄目だった。
力を取り戻して本来の姿、澱んだ龍脈から生まれた妖《赤兎馬》は曹操の目に留まり、力が馴染まず身動きが取れぬ隙に捕らえられて無理矢理に連れて行かれてしまった。
妖と知らぬ曹操は、彼の体躯に魅入られた。己の愛馬とし飼育した。
彼は曹操のところになどいたくはなかった。ここでも結局は家畜扱い。自分に笑いかけてくれる関羽の傍に行きたかった。
彼は切に願った。彼女が、己を傍に置いてくれることを。どれだけの時間が経っても良い、それまで耐えるから、いつか彼女が迎えに来ることを。
己の存在を決して許さぬであろう尊き天帝に、願い続けた。
‡‡‡
人の下らぬ怨念欲念から生まれた獣の願いは、果たして叶えられる。
関羽が曹操に連れられ、彼の部下として兌州に現れたのだ。
曹操はまず彼を自慢せんと披露した。
歓喜した彼は嘶(いなな)き、はたと気付く。
彼は、馬だ。女仙に飼われていた時の人型の姿ではない。
関羽に、彼だと分かる筈がない。
ならば人型の姿になれば良い――――そう思った、まさにその時である。
『あなた……何処かで見たことがあるわね。でも、何処だったかしら……』 関羽は、彼の首を撫でながら笑いかけてくれた。
完全には気付いてはいないけれど、彼は狂喜乱舞した。関羽に頬ずりせずにはいられなかった。
彼に訪れた僥倖(ぎょうこう)は、それだけに留まらなかった。
誰にも懐かなかった彼が関羽に頬ずりしたのを見、関羽が彼を気に入ったのを見、彼を専用の馬として関羽に与えたのだ。
これ以上の幸せは無かった。
それから関羽は、ことあるごとに彼のもとを訪れるようになった。
関羽は元々、曹操の下に来たくはなかったらしい。女仙が殺された後、曹操に無理矢理連れてこられた彼女は、どうしても曹操軍に馴染めないようで悩みを彼へと打ち明ける。
彼はそれを静かに聞いた。そうする以外に、何も出来なかった。
けれど――――。
「――――ごめんなさいね。いつも愚痴ばかりで」
ふとした時、関羽は謝罪する。
彼の頭を優しい手付きで撫でて、弱々しく微笑む。
関羽は、日を追うごとに窶(やつ)れていった。笑顔も、どんどん力が失われていく。
精神的に疲れ果てている関羽は、今ではもう毎日のように彼のいる厩(うまや)を訪れていた。
彼女のこれまでの話によると曹操は彼女を『つま』にしたいらしい。その為に強引な手段で毎日関羽に迫っていると言う。
逃げたいと、彼女はままに本音を吐露する。
曹操の『つま』になりたくはない。でも、『なかま』が殺されるかもしれないと思うと逃げることも出来ない。
助けてあげたいと、何度思ったことだろう。
「あなたに話しても解決しないことは分かっているの。でもね、あなたはここではわたしの唯一の味方だから。どうしても話したくて。いつもいつも何かお詫びをしなければいけないと思うのだけれど、何をしたら良いのか思い付かなくて……」
ごめんなさい。
もう一度、彼女は謝罪した。悲しげに長い睫毛が震え、目元に影を落とす。
彼は、関羽の姿に耐えられなかった。
関羽に鼻を寄せ、彼は目を伏せる。
刹那であった。
「え……?」
不意に、彼の身体は赤い靄に包まれる。
ややあって晴れた靄の向こうに立つのは、人型の姿。
関羽はぎょっとして一歩後退した。顎を落とし、端が裂けんばかりに目を剥く。
「あ、あなた……呂布のところで会った……」
「……」
「どうして、いえ、どういうこと? どうしてあなたが馬に、」
関羽は混乱していた。馬が人間になったのだ、無理もない。
彼は柵を越えて関羽に駆け寄り、その身体を抱き締めた。久方振りの彼女の身体は見違える程細く、そしてあの時よりも冷えているように感じられた。
馬の嘶き以外に声の出し方を知らぬ彼は、強く強く彼女を抱き締める。
その腕が震えているのに気付いたのは、彼ではない。抱き締められる関羽だ。
それに関羽は何を思ったか、背中に手を伸ばしてそうっと撫でてやる。
「……呂布が死んでから、馬になって、ずっとここで飼われていたのね。どうして馬になれるのかは分からないけれど」
でも、無事で良かったわ。
彼が身を離すと、関羽は顔を覗き込み、微笑んでみせる。
「呂布が死んでから皆で小沛を捜したのよ。でも城の中には見つからなくて、殺されたんじゃないのかって心配していたの」
確かめるように、彼女のかさかさした手が頬を撫でる。
「あなただから、何処かで見たような気がしたのね。納得が行ったわ」
また、ぎゅうと抱き締める。首筋に擦り寄ると擽(くすぐ)ったいと身を捩った。
それを受けて彼は関羽を解放する。
関羽はほんの少しだけ頬を赤らめていた。首を傾げて頬に触れると、慌てた様子で首を横に振られた。誤魔化すように笑い、彼女はそう言えばと何かを思い出した。
「名前を聞いていないわ。呂布は必要無いから付けていないって聞いていたけれど、親から貰った名前くらいあるわよね?」
「……」
彼はまた首を傾けた。
理解出来ていない彼の様子に、関羽の顔が凍り付く。
「まさか……本当に名前が無いの?」
「……」
「……なんてこと、」
信じられない。そう言いたげに、彼の頭を撫でる。
名前とは、何なのだろう。
……《赤兎馬》?
それを伝えようにも、彼は声の出し方が分からない。どのように発音すれば人の言葉が出せるか知らない。
彼の態度から少々勘違いした関羽は、眦を下げて彼を見上げ、何かに思い至り表情を明るくした。
「じゃあ、わたしがあなたに名前を付けてあげる。それがお詫びよ」
関羽は微笑んで、彼を上から下まで観察し始めた。彼に相応しい名前を考えようと唸って思案に耽る。
彼は瞬きしながら関羽の様子を眺めた。
やがて、
「●●。うん。あなたにぴったりだわ」
あなたは●●。
関羽の嬉しげに弾んだ声は、彼――――否、●●の耳に浸透していった。
●●。
●●。
●●。
それが、自分の名前。関羽が与えてくれた名前。
胸の内からぶわりと噴き出す感情、そこから全身が熱くなる。心地よい感覚に、思わず関羽をまた抱き締める。
「良かった。喜んでくれたのね」
頬を両手で挟み込み、関羽は目を細める。
●●は目を伏せ彼女の額に己のそれを付けた。頭を撫でられた。
温かい。けど、前はもっと温かかった。
……助けたい。
助けなければ。
彼女は名前をくれた。
大切な、人間(ひと)。
●●は数歩後退して関羽から離れるとまた馬の姿に戻った。首を振り関羽の前に横向きに立つ。
関羽は緩く瞬きした。
「……どうしたの?」
●●は城の門の方へと首を向け、前足で地面を蹴って見せた。
その仕種だけで、関羽には伝わったらしい。
「……逃がしてくれるの? ここから」
嘶く。
関羽は目を丸くし、けれども眦を下げて首を左右に振る。
「駄目よ。わたしがここから逃げれば曹操は猫族を殺すわ。皆が今何処にいるかも分からないのに……」
●●は強く嘶く。場所なら分かると、力を使えば必ず分かると懸命に訴える。関羽の服を噛んで乗せようと彼は必死に働きかけた。
関羽は渋面を作り、●●の首を撫でる。
「ごめんなさい。わたしには皆を見殺しにすることなんて出来ないわ。皆、わたしの家族なの。●●。あなたの気持ちはとても嬉しいけど……」
●●は痺れを切らして力を使った。風を巻き起こし関羽の身体を強引に浮かして無理矢理に乗せる。
関羽は悲鳴を上げ真っ赤な体躯とは違い漆黒の鬣(たてがみ)にしがみつく。
彼女が逃げる前に●●は駆け出した。制止の声は黙殺した。絶対に聞き入れまいと、彼女が落馬を選べぬよう出来る限りの速度で疾駆する。
必ず、関羽を『かぞく』のもとへ送り届ける。
そしてずっと一緒にいたい。彼女の傍で生き続けていきたい。
胸で沸き上がる熱がどんな感情であるのか知らず、ひたに強い願いを抱き、●●は曹操軍の巡回の兵を蹴散らして城を、城下を――――兌州を駆け抜けた。
小沛に幽閉された猫族が行方を眩ますのは、関羽と曹操が彼女に与えた美しい赤馬が兌州を逃げ出した、その翌日の早朝のことである。
以後、彼らの消息は完全に途絶えてしまう。
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