エリク





『下らない野心があるなら、棄てた方が良い』


 有間を政戦に巻き込ませたくはないし、有間自身それを嫌がってる。
 ティアナに付き添ってファザーンに向かった狩間は、エリク達が一足先にザルディーネに戻る前日にそう告げた。

 有間は邪眼一族だ。
 本来の姿に戻ったエリクに、ティアナと同様英雄扱いを受ける彼女が恋仲であると知ればマルトリッツ家は黙っていない筈だ。それに、エリクの母エディトはまた怯える日々を送ることになる。身体の弱い彼女がまた伏せがちになってしまうことは予想に難くなかった。

 エリク自身、己のうちに残る野心がもう何の意味も成さないことを分かっている。今更野心を燃やしてマティアスを王位から退けようとすれば、大恩あるティアナも不幸にしてしまう。有間も、きっとエリクを軽蔑するだろう。

 だから――――ザルディーネに発つ前にと、マティアスに一つだけ頼み事をした。長兄に借りを作るのは気が進まないが、それでも有間を取り巻く環境を少しでも悪くさせない為には必要なことだった。
 ファザーンに戻った時、有間と、長年エリクを産んだ為に怯え苦しんできた母の為に、これを果たす。
 ザルディーネにいる間は有間の傍にいてやれないのが悔しいが、ティアナと共に行動させるとマティアスに約束させたし、それに山茶花やヒノモトの件もある。有間を一人にはさせないだろう。……アルフレートは絶対に傍に置くなと釘は深々と刺しておいたけれども。

 有間のことはマティアス達に任せることとし、自分は《頑張ろう》。
 ようやっと《頑張れる》。遠慮すること無く。

 頑張って、

 頑張って、

 マティアス達に頼らずとも有間を守れるように――――。



‡‡‡




 母が心労で体調を崩し、倒れた。
 その知らせは鯨がもたらした。王立学園の警備などものともしない彼は、エリクが一人でいる時を見計らって接触し、事態を静かに伝えた。

 更には、やはり邪眼一族の娘とエリクとの仲を認めなかったエディトが、有間に毒を盛ったとも。勿論脅す程度で致死量には全く足りていなかった。数日寝込んだだけで今は回復しているとのことだ。
 エディトが倒れたのは十中八九有間のことが原因だ。彼女を利用して王位争いが勃発するのではないかと怯えたのだろう。まさか毒を盛ろうとまで考えるまでに追い詰められていたとは思わなかったけれど、もしかするとザルディーネでの自分のことも人伝に聞いたのかもしれない。

 エリクはファザーンに戻ることを即決した。鯨が乗ってきた闇馬に相乗りして一日足らずで故郷へと舞い戻る。ティアナから話は聞いていたが、闇馬の乗り心地は最悪だった。乗りこなす有間と鯨を心から尊敬する。
 少しふらつきながらも鯨に支えられてマルトリッツ家の館に入れば、突然の王子の帰還に使用人達が驚く。彼らの様子に構わずに母の容態を訊ねると、今は安定し眠りに就いているとのこと。
 ならばと、エリクは有間のもとへ向かうこととした。今は回復していると鯨は言っていたが、やはり心配だ。彼女の顔を見て安心したい。

 鯨の案内でバルテルス家の館の一室へ赴く。いつでもティアナが立ち寄れるようにとのマティアスの配慮だろう。鯨の話によればティアナにあてがわれた部屋からさほど離れていないらしかった。

 ノックをしても応えは無い。
 鯨が扉を開けて中を確認すると、呆れた風情で嘆息した。無言で扉を全開しエリクを促す。訝りながら中に入れば鯨はそのまま「また後で参ります」と扉を閉めた。

 彼の言動の理由は、すぐに分かった。

 有間のことを気遣って豪奢ではない調度品で簡素に整えられた部屋の中、その中央に置かれた長椅子に有間は横たわっていた。頭に読みかけの本を被せ、爆睡している様子である。
 一応はまだ療養中らしくヒノモトの寝衣一枚の彼女の姿は剰(あま)りに無防備に過ぎた。

 襟が乱れて鎖骨の下が覗き、裾の打ち合わせから足が太腿から露出しているのは目に毒だ。ヒノモト育ちで破廉恥なことは苦手なくせに、こういうところで男を誘うも同じであるようなことは止めて欲しい。勿論、可愛らしいと思いもするけれども。
 エリクは嘆息して長椅子に近付いた。本を持ち上げ、中身を見てみる。紐で束ねられただけの粗末なそれはヒノモトの書物のようだ。所々に図形のような物が見受けられる。呪術書か何かだろうか。


「療養中なのにこんな本を読んで……」


 これで休んでいるとでも思っているのだろうか。
 ちょっとした悪戯心が芽生え、エリクは有間に覆い被さる。それでも起きない彼女の襟を開いて鎖骨にキスを落とす。

 するとぴくりと彼女の身体が震えた。
 掠れた声を漏らして目を開けた有間はぼんやりと空を見つめ、視線を動かした。

 そして、エリクを捉える。

 ……。

 ……。

 ……。


「ぁあ゛っ!?」


 状況を理解し、野太い声を上げて有間は身を起こそうとした彼女は、呆気なくエリクに肩を押さえつけられて青ざめた。泡を食ったように尋常でない狼狽振りにがエリクの嗜虐心を刺激する。

 有間ににこりと笑いかけ、エリクは鎖骨を指でなぞった。ひきつった悲鳴。


「ちょ、なん、何でここに、ってか、はいっ? 君ちょっと何しようとしてるのさ!」

「だって剰りに無防備だったのだもの。襲って下さいって言われているんだって思って」

「言ってない! 誰も言ってない! 昼寝してただけだから!!」


 所々が裏返る。
 必死にエリクから逃れようとする様が愛らしくて、エリクは笑声が堪えきれなかった。頬にキスを落とし、有間の上から退いてやる。

 衣服の乱れを正して座り直す有間の隣に座ると警戒するように距離を開けられる。その顔はさながら真っ赤に熟れた林檎だ。


「良かった。元気みたいだね」

「え? ……ああ」


 途端に有間は落ち着きを取り戻す。後頭部を掻いてエリクから視線を逸らし、母音を伸ばした。視線をさまよわせるのはエリクにどう話せば良いか迷っているのだ。


「イサさんから聞いた。僕の母さまが君に毒を盛ったって。……ごめんね。ここまであの人が追い詰められるなんて、予想出来ていなかった」

「……いや、別に構いやしないけど……っていうかこっちが謝るべきだろ、そこは」

「ううん。君は何も悪くないよ。……こんなことなら、もっと早く動いておくべきだったかな」


 先手に回ったつもりが、これじゃあ後手よりも酷い。
 苦笑混じりに有間を抱き寄せ、背中を撫でる。ぎくりと身体を強ばらせた有間も、暫く背中を撫で続ければ次第に力が抜けていった。


「今日、マティアスに話をするよ」

「話?」

「うん。君にこれ以上の負担をかけないように、母さまを苦しめない為に」


 そっと口付けると、いつもは恥ずかしがる有間も怪訝そうだった。
 問いたげな視線に答えずにエリクは有間を放す。長椅子に横たわって彼女の膝に頭を乗せた。


「……ちょっと、すいませんけどエリクさん。何を、」

「ここに来るまでに闇馬に乗ったんだ。あれ、乗り心地最悪だね。乗りこなせる邪眼一族を尊敬するよ」

「あー……どんまい」

「だから、母さまが起きる頃までちょっとここで休ませて」

「え、えぇ〜……」


 困惑した風情で渋りつつ無理に降ろそうとはしない辺り、有間は優しい。
 有間の手を握って手の甲にキスをし、指を絡ませた。それも、剥がされはしない。

 エリクは握った手を胸に載せて目を閉じた。


「アリマ」

「……ん?」

「すぐに分かると思うけど、今は僕を信じていて欲しいんだ」


 本当は、ヒノモトに関しても僕がどうにかしたいのだけれど。
 ザルディーネの王立学園に通わなければならないと言う鎖がエリクを引き留めてしまう。


「僕には、これくらいしか出来ないけれど……」

「……」


 有間は無言でエリクの頭を撫でた。ぎこちない動きだが、手つきはとても優しい。

 エリクは身体から力を抜き、握った手を握り締めた。
 ややあって、握り返してくれる。


「別に、何でもかんでもして欲しいとは思ってないよ」


 エリクがいれば、それで良い。
 眠ったと勘違いした有間が囁くように言うのに、胸に熱いものがこみ上げた。

 嗚呼、ヒノモトのことも解決してあげたいのに、今の自分ではどうすることも出来ない。遠くから彼女の安全を祈るのみ。
 無力な自分がとても歯痒い。



‡‡‡




「……本当に良いのか?」


 試すように、マティアスは問う。

 エリクは大きく頷いた。


「議会に通れば、お前はマルトリッツ家から勘当されるかもしれないんだぞ。それに、王立学園にも……」

「構わないよ。もう母さまを苦しめたくないし、アリマを利用されるよりずっと良い。……それにティアナにも幸せでいてもらいたいからね」


 エリクは、マティアスを真っ直ぐに見据えてはっきりと告げた。


「エリク・マルトリッツ・ファザーンは、王位継承権を放棄する。この意志を変えることは無い」



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