安倍晴明





 源信が澪に訊ねられても絶対に答えられないことがある。


――――親、という存在だ。


 澪は両親を知らない。いや、そもそも存在がどう言ったものなのかを知らない。
 だから問われても孤児の娘を哀れに思い、他人に情け深い源信は誤魔化して口を閉ざしてしまうのだった。和泉やライコウ達も全く同じだ。
 教えてしまえば、じゃあ自分の親は何処の誰なのかという問題になる。その答えは、漣以外持っていないし、彼も誰にも教えるつもりは無いようだった。澪のいぬ間に弐号に訊ねさせたが、漣は頑なに口を割ろうとはしない。

 澪自身も分からなくて知りたいと思う反面、彼らの気まずい空気を察しているのだろう。一度問うて以降、二度とその話題を出すことは無かった。

 しかし、それでも一緒に遊んだ子供達が穏やか微笑みを浮かべる両親に手を引かれてそれぞれの家へ帰って行くのを独り見送っているのはさぞ寂しく寒いことだろう。
 それでも何も問わずに、彼女はその様を毎度毎度独り、漣の慰めを受けながら見送るのだ。

 晴明とて、そんな彼女に何も思わない訳ではない。何も出来はしないが、夕暮れ時無表情に独りで石を蹴り飛ばす彼女の姿は、さすがに見逃せなかった。


 故に、こんなことになっているのだけれども。


「何だか、すみません。わたくしまでご一緒させていただいて……」

「構わん。ただの気まぐれだ」


 安倍晴明邸――――。
 源信は晴明に丁寧に頭を下げた。

 横では澪が弐号とひいな遊びに興じている。ようやっと覚えた単語を使うように、弐号が思いついた遊びだ。拙い言葉が行き交う度、源信は嬉しげに相好を崩す。言葉を覚えたのを喜ぶ辺り、もうすっかり澪の父親だ。

 ……だが、実父ではない。
 血の繋がりが無くても親子という美談は、その実見栄を張っているだけに過ぎない場合がほとんどだ。実際そう上手く軋轢(あつれき)の無い関係が築ける筈がない。お互い遠慮ばかりが先に立ち、ぎすぎすした関係になるのが関の山だ。それに、仮に上手い関係が構築出来たとしても柱は弱い。些細なことで壊れてしまうだろう。
 人間、そんな寛容な者は少ないのだ。

 源信の人徳は十分理解している。彼ならば、と思わないでもない。
 だが彼は、彼の、《目》は――――。


「……、」


 不意に膝に重み。
 視線を落とせば漣が猿頭を載せて物言いたげにこちらを見上げていた。晴明の思案を察してのことだろうか。彼の目は何かを諫めるような色を揺らめかせる。

 晴明は溜息をつき、漣の頭を撫でた。
 その仕種に、源信が「おや」と目を軽く瞠る。


「……何だ」

「ああ、いいえ。すみません。安倍様が漣の頭を撫でるのは、滅多に見ないものですから」

「……」


 晴明を手を漣から離す。
 漣は名残惜しそうに不吉な声を弱々しく漏らす。しかし、澪に呼ばれてそちらへと。弐号共々じゃれつかれて床を転がった。完全に野生の獣である。すっかり見慣れた光景だが、いつ見ても感じない筈の獣臭さが漂ってくるような気がしてしまう。招いたのは間違いだったかと、心の中で軽く後悔した。

 弐号がひいな遊びに飽きたのかもしれない。側で眺めていた壱号が呆れた様子で、澪に羽を噛まれ振り回される弐号を見ていた。

 源信は茶を啜り、視線を落とす。


「……やはり、気になってしまうのでしょう。自分の《親》が。この間、漣に赤子を愛でる夫婦を示しながら何かを訊ねているようでした」

「教えてやれば良かろう。親がいない。分からない。それだけで済む」

「と言いつつ、本当にそれを言ってしまったら怒るでしょうに」

「……」


 源信は苦笑を浮かべて、また茶を啜った。



‡‡‡




 夜。
 ぱたぱたと足音が聞こえる。誰かが簀の子を走っている。
 言わずもがな、澪だろう。

 晴明は無視を決め込もうとしたが、部屋の前を往復しているので、うざったくなって床を出た。
 妻戸を開けると、足音が止む。
 左の簀の子に澪が無表情に立っている。足下には当たり前のように漣。

 漣を睨むと彼は澪の足に隠れてしまった。


「……何だ」

「……はーな」


 ちょい、と指差した先に――――葛の花。
 弐号に雑に整えられた庭の一角にてしっかりと世話されたと分かる。それがむしろ、この庭の中では浮き立っていて異質だった。

 晴明手ずから世話をするその葛の花を示し、澪は何かを訴えようとしていた。

 手を引いてくる彼女に、晴明は嘆息して庭へ降りた。
 葛の前に持つと、澪は晴明を見上げてくる。


「お、や?」

「……」

「せーめー、おや?」


 葛の花の親、ということか。
 晴明はまた面倒な解釈をしたかと舌を打った。


「せーめー、おや?」


 澪は問いを重ねる。それが縋るように見えたのは、気の所為ではあるまい。
 親から子へと繋がって行くのは人間にとっては当たり前のこと。両親から産まれた子供が時代を作り、また親となって子へ時代を繋げるのは取るに足らない理。

 それが、自分には無いと分かっているのだろう。それに、奥深い部分で不安を抱えているのかもしれない。……彼女がそんなか弱い性格をしているのかは、不明だが。
 晴明は澪の頭をくしゃりと撫でた。


「正解とは言わぬが、あながち間違ってもいない。お前はお前で勝手に解釈していろ」


 宥めるようにそれだけ言う。

 晴明は無表情に、物言いたげに見上げてくる澪を見下ろしつつ、目を細めた。

 ……そうだ。
 澪は、獣なのだ。
 月並みの顔の中で唯一目だけが特徴的な、人間の姿をしただけの、本能的な思考回路をした獣なのだ。


 ……我ながら、下らぬことを思案したと今になって思う。


 澪は未だに人らしい思考を持ち合わせていない。
 誰がどうで、それが何なのか――――単調なだけの知識しか与えられない。何がどうしてこう在るのか、誰がどのような職に就き誰と親しいのかなど、深い子細を理解する段階ではない。いや、理解出来たとしても彼女がそれを気にする器かと問われれば大いに疑問が浮かぶ。
 そんな獣の彼女に、遠慮や軋轢などを危惧する必要など、そもそも無かったのだ。

 澪に人間を求める方が間違いだ。あれこれ考えることも無いのだと、今更気付く。……本当に今更で、そんな思考に及ぶ必要など無かったと当時に気付くことも出来ない己に、軽く苛立つ。
 舌打ちして、澪の額を指で弾く。


「お前にとっての親は源信だ。今はそう思っておけ」


 ……。
 もしもの話をしよう。
 もしも、澪の尻に犬の尾が生えていれば、千切れんばかりに力一杯振られていただろう。

 目に見えて分かるくらいに、彼女はあの発言に喜んでいた。
 漣が尻尾の蛇を左右に揺らめかせながら澪と同じくらいにきらきらと輝く瞳で見上げてくる。

 そんなに気にかけていたとは思わなかったので、言ったことを軽く後悔した。


「げんしん、みお、おや?」

「そう思っていた方が楽だ。私が」

「それはつまり、何が遭ってもわたくしに全てを一任出来るから、ということですか?」


 割り込んできたのは源信である。澪を捜しに来たらしい彼は苦笑混じりに庭を歩いてくる。
 晴明は舌を打った。

 源信は全身で喜びを表現しながら抱きついてきた澪の頭を見下ろし、「そうです」と良いことを思いついたような楽しげな笑みを澪に向けた。

 嫌な予感がして源信の名を言いさした。
 だがそれを遮り、


「わたくしだけでなく、澪と漣の親は仕事寮の皆様ということにしましょう」


 朗らかに、迷惑極まる提案をした。

 それにも喜ぶ澪である。


「……」

「安倍様が最初に仰いましたから、ね?」

「……勝手にしろ」


 源信は柔和な微笑みの中に、複雑そうな色を映し出す。
 その意味を知る晴明は、憮然として部屋へと戻ろうと簀の子に上がった。

 が。
 どす、とぶつかってくる。
 言わずもがな澪だ。

 晴明は、ぎゅううと身体を締め付けてくる細腕を、ぺちりと叩いた。



 それから暫くして、源信に諭されてようやっと離されることとなる。



⇒後書き+レス

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