夏侯淵





 柔らかな日差しが降り注ぐ草原に座り、○○は無心に筆を動かし続ける。

 その隣に仰向けに寝転がって、夏侯淵は健やかな寝息を立てていた。たまたま空き時間が出来たからと外に出たがっていた○○を連れ出して許昌の外へと。

 ○○は、夏侯惇と共に料理人になることを諦めた。
 その代わりに、元々明るかった美術にのめり込むようになり、今ではさる画家に師事もして腕を磨いている。
 料理の彩りや盛りつけに凝っていた彼女には、絵はなかなか性に合うようだ。
 何かに熱中していなければ気が済まない性分の彼女がすんなりと別の趣味を見つけられたのは幸いだ。これで、少しは彼女の気分も楽になるだろう。未だ引きずる料理への未練も、そのうち忘れてくれる筈。

 そう思うが故に、夏侯淵は詰まらないと感じつつもこうして側にいるのだった。

 ○○は夏侯淵の寝顔を見下ろし、目元を和ませた。


「子供みたい」


 年齢を考えれば、もう嫁を娶っても良い頃合いだろうに、寝顔には少年のあどけない面影がなおも残る。いつになったら消えるのか。もしかしたら一生消えないかもしれない。
 性格は、たまに子供っぽいもんなあ。
 口角を弛め、○○は空を仰いだ。

 森羅万象を一枚の絵に表すのは、とても難しい。
 全てが息づき、瞬きのうちに変化していく。その一瞬一瞬の美しさを表現する為にどうすれば良いのか――――それは素材の風味を生かす為に試行錯誤して料理に臨んでいた昔と同じ。だからこそ、考え甲斐があるというものだ。
 結局、料理は自分の満足出来る領域には至れなかった。その前に断たれてしまったから。
 でもこの絵では、上り詰めてやろう。
 視界から得られる全ての美しさを一枚の映し出してやろうじゃないか。
 人間には到底及ばない領域だと分かっていても、敢えて目指すことで躍起になって夢中になれる。新作の料理を考えていた時のような昂揚感がある。この感覚が、○○は一番好きだ。

 また、こんな気分を味わえるのも、夏侯淵が側にいたらばこそ。
 夏侯淵をもう一度見下ろし、○○はすっと目を細めた。


「……ありがとうね、夏侯淵」


 筆と紙を起き、身体を捻る。顔を夏侯淵の頬に寄せてそっと掠めるだけの口付けをした。
 不意打ちを狙ったようにも思える行動に気恥ずかしさでも覚えたか、○○はほんのりと頬を染めて引き結んだ唇をむずむずと歪めた。感触を誤魔化すように袖で口をごしごしと乱暴に拭い、再び絵を描き始める。

 また違う熱は、いつまでも冷めずに胸中でくすぶる。
 拭った唇も暫くひりひりと痺れたように痛んだ。



‡‡‡




 ゆらゆらと上下に揺れる浮遊感と硬くも温かな感触の中、目が覚めた。
 ゆっくりと目を開けると、少しばかり高い視界。勝手に動いて行く草原。

 ややあって、自分が夏侯淵に背負われているのだと気が付いた。


「あれ……」

「やっと起きたのかよ」

「……私、いつ寝たんだっけ」


 上手く回らない頭の中で記憶を手繰ると、夏侯淵は大仰に嘆息した。


「……、人の腹を枕に涎垂らしながら爆睡しといてそれかよ……」

「え、うっそ」

「おかげで服がべとべと」

「災難だったね」

「お前の所為だろ」

「あっはははー。ごめんなさーい」


 軽く笑って謝罪すれば、「ったく……」夏侯淵は呆れた。けれどももう許してくれているのだと、否、それ以前に全く怒ってもいないのだと○○は分かっている。
 昔から、夏侯淵は○○には甘いところがある。
 それが惚れた弱みなんだと、ずっと知っていた、知っていて、拒みもせず受け入れもせず放置していた。

 心の底から思う。
 夏侯淵は凄い。
 ずっとずっとこんな自分を好きでいてくれて、壊れかけで面倒な時にもずっと一緒にいてくれた。

 侍女も、そう。
 優しくも厳しい彼女も、○○の為に夏侯淵のところまで遙々来てくれた。もう年齢的にもキツいだろうに、それでも○○を心配してくれた。

 なんて強くて、なんて優しい人達。
 肩口に顎を載せて側頭部に頭をぶつける。


「何だよ」

「何となくー」

「はあ?」

「いや、楽だなと思って」

「……」

「ごめんなさい嘘でーす。このままお屋敷までお願いしまーす」

「……ったく……」


 ぶつぶつと文句を垂れる。けどもやはり、降ろそうとはしなかった。
 ○○は目を細めて相好を崩した。

 多分、最初から夏侯淵を好きになっていればこんなことにはならなかったんだろう。料理が出来なくなっただけで、壊れることも無かった。
 今思えば、どうして自分が精神的に壊れたのか分からない。
 《今》の私からしてみれば、それ程の理由でもなかったように思うんだ。

 それは、私が変わったということなんだろうか。

 ○○はもう一度、今度は強めに頭をぶつけた。ごちっと鈍い骨の音がした。


「いって……! おい、本当に降ろすぞ!」

「ごめんってばー。夏侯淵は心が狭いなぁ、私なりの愛情表現が受け入れられないなんて」


 反対の側頭部に「ずびし」と擬音語を口にしつつ手刀を叩き込む。これは痛くはしなかった。


「愛情表現って……ただの嫌がらせじゃないか」

「それは人の受け取り方次第よ。君がそんな捻じ曲がった性根だからそんな風に取ってしまうのだよ。未来の嫁さんは悲しいわぁー」

「いてっ。おい髪抜くな!」

「あっ、白髪発見。うわー、夏侯淵もついに白髪が見つかるようになったかー……馬鹿のくせに」

「最後の言葉聞こえてるからな」

「聞こえるように言ったんですー」

「って! おいまた髪の毛……!」

「白髪を抜いてやったんだ、感謝なさーい」


 軽口を叩きつつ、白髪をぺいっと捨てる。そして、柔らかに微笑んで首に腕を巻き付けた。

 ○○の雰囲気が変わったのに気付いた夏侯淵は途端に口を噤み、沈黙する。


「あのさ、夏侯淵」

「……何だよ」

「……、……ううん。やっぱ何でもないや」


 師匠を越えるまで待ってて、なんて言えないや。
 笑って謝罪する。


「それよりもお腹空いたから早く帰ろうよ」

「へいへい」


 夏侯淵は○○の催促に応じて少しだけ歩を早めた。
 それに軽口を叩きながら、○○は目を伏せる。

 待てとは言わない。もう言えない。
 だからその分私が急がなきゃいけないんだ。
 夏侯淵を、もう待たせないように。
 心の中にいる自分がぐっと拳を握り、天へと勢いよく突き出す。

 ……よし、頑張ろう。


「行けー! 行けー!」

「分かったから暴れるな! 本当に落とすぞ!?」


 夏侯淵をからかいながら、○○はきゃらきゃらと無邪気に笑う。



⇒後書き+レス

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