曹操





「やっぱり、君は混血だったね」


 彼女は、誰かの秘密を見つけた子供のように、悪戯っぽく、何処か満足したような顔で笑った。

 さらり。
 彼女のあかぎれだらけの手が、頭にくっきりと残る《古傷》を撫ぜた。



‡‡‡




 曹操と○○の質素な祝儀は恙(つつが)なく行われた。
 誰もが彼らを祝福していた――――訳ではないが、少なくとも彼らに近しい者達だけは二人の門出を朗らかに祝う。
 だからこそ、誇張せず、最低限の準備と次第のみで式を挙げた。

 式の後、○○は踊るような所作で部屋を出る。双子の姉妹、関羽に呼ばれているとのことだった。
 双子故か、彼女と関羽の結束は金剛石よりも遙かに堅く、曹操にすら絶対に断てない程。何事も通じ合う存在がいることに羨望を抱かなかったことも無いことも無いが、何をしても互いを信じて決して疑わない二人を見ていると、心の何処かで安堵する自分が在った。

 猫族にとって曹操の存在は決して良いものではない。けれども嫁に送り出したのは曹操を信用してのことだであった。その信頼を、決して裏切ってはならないと肝に銘じた。
 猫族に随分と無体な真似をした。理不尽な要求を強いた。
 けどもこうして猫族からの許しを得て娶(めと)ることが出来たのは、偏(ひとえ)に○○が曹操を愛し、信じ続けていたからだ。

 彼女の姿を見て、猫族の心も動いたのだ。
 曹操は、何もしていない。全く、何一つとして出来なかった。

 それなのに、この自分にもたらされた幸福感を享受(きょうじゅ)しても良いのだろうか。
 曹操は、○○が戻ってくるまで、扉をぼうっと見つめてそんなことばかりを考えた。

 どれくらい、そうしていただろうか。
 戻ってきた○○は曹操の様子に軽く目を見開いた。何かを言おうとした口を噤んで曹操の前へと歩いてくる。


「あれ、何してるの。君」

「……考え事をしていた」

「それはとても君らしいね。でも、今日は冷えるよ。その姿のままだと身体を冷やしてしまう。仕事三昧で祝言を挙げたんだから疲れただろう。風邪を引いてしまう前に温かくして寝た方が良いよ」


 ○○はまるで母親のような、庇護されていると錯覚しそうな温かくて柔らかな笑みを浮かべる。
 曹操が一瞬だけ手を持ち上げて躊躇うように降ろすと、察してその細腕で抱擁してくれた。それに安堵を覚える己の、なんと乳臭いことか。

 されども○○の前でだけは、そんな自分も赦(ゆる)せた。
 深呼吸をすれば○○の甘い香りが鼻腔を満たす。全身から力が抜けていく。
 華奢な背中に回した腕に力を回せば、○○は鈴の音のような笑い声を立てた。曹操の頭を按撫(あんぶ)する。


「昔のことでも考えてたのかな」

「……いや」


 かぶりを振って、○○を放す。
 彼女は未だ、慈母の如き微笑みを浮かべている。嗚呼、彼女の前では自分は弱くなる。嫌ではないが、少しだけ情けないと思いもする。それも一緒の時を過ごすうちにいつの間にか溶解して曹操の中に溶け込み、分からなくなっているのだけれど。

 曹操は腰を上げて、「寝よう」と寝台に歩み寄った。
 子を作るのは、世が泰平になってから。そう、○○が決めた。今まで分からなかった、足りない何かを知る為に闇雲に天下を欲するだけだった彼に、彼女は別の、曹操には綺麗すぎる目的を与えた。


『これから生まれる子供達が笑って野山を駆け回れる世を、君が目指せば良い』


 戦乱の世を憂える心が残る君なら出来る筈だろうと、彼女はそんな難しいことを笑顔で強要した。その為なら、猫族も協力してくれるだろうし、私も全力で突っ走れるよ――――そう付け加えて。
 そんなものに変えられる筈がなかった。当時こそ思い拒絶したものだ。
 目的だけが素晴らしい大志であろうと、大義名分にすればそれだけで周囲から反感を買うやもしれぬ。

 ○○の助言に耳を貸さなかった曹操ではあったが、今この時にはすっかり目的はそれにすり替わっている。あの時の自分が見ればどんな風に罵倒されるか、想像もしたくない。
 だが、もしそうなれば――――兌州の民を見てそう思わなかった訳ではなかった。
 曹操の傷を思いやって冬虫夏草を採取して届けてくれた民が、何も憂えることも無く――――否、何てことも無いことを憂えるだけのそんな世の中になったなら。

 少しは、自分も《まし》なのかもしれないと。

 それは、洗脳のようなものだ。
 ただしそれは決して悪い方向ではない。
 ○○が、悪い方向に行かないように、暗示をかけ続けたのかもしれない。

 それが、この結果だとすれば、悪くはなかった。

 ○○と出会った自体が自分にとっての分岐だったのかもしれないと柄にもなく考えながら横になると、○○がふと何かを思い出したように曹操に覆い被さって曹操の頭を両手で撫でた。
 探るような手つきに、心臓が跳ね上がる。咄嗟に叩き退けたが、○○は微笑んだままざらざらした指でまた頭を――――《古傷》押さえた。


「うん。やっぱりあった」

「何を……!」

「やっぱり、君は混血だったね」


 にんまりと、嬉しそうに笑う○○に、曹操はざっと青ざめた。
 ○○を押し退け寝台を離れると、○○は身を起こして曹操に笑いかけた。

 その笑みは決して悪いものではないけれど……しかし、知られたくないことを、知られた。


「何故……いつ、知った」

「随分前だよ。君の髪の間から人間の耳が見えなかったから、もしかしてと思って。それに、黒目だからね。君も混血なんだって、関羽と話してたんだ」


 「で、さっきそれを報告してきた」悪びれた様子も無く、○○は胸を張る。

 曹操は○○の言葉を繰り返し、引っかかりを覚える。


「黒目……? 黒目が何か関係があるのか」


 ……いや。最も注目するべきはそこではない。
 彼女は今、『君も』と言わなかったか?
 その《も》は、一体誰に掛かっているというのか、曹操は○○に問いかけた。

 ○○は、首を傾けて口を開いた。


「私達だよ。私と関羽は混血なんだ。君と同じでね」


 「驚いた?」なんて、弾んだ声。悪戯が成功した子供のように無邪気な顔をする。
 そこに、曹操を軽蔑する響きは、色は無くて。
 否、それ以前に、自分達も混血なのだとあっさりと暴露して。

 曹操はその場に座り込んだ。何をどう言えば、どんな反応をすれば良いのか分からなかった。
 唐突すぎる。突飛にすぎる暴露に、頭が追いついていかない。
 ただ一つ、その様子を○○が楽しんで眺めているのが腹立たしかった。一瞬でも警戒した自分を、嘲笑っているようにも思えた。勿論、こちらの被害妄想なのだとは分かっているけれども。


「……○○」

「ん? ごめんごめん。でも、やっぱり《あの》曹操が驚いてくれたからね、とても面白かったんだ」


 謝罪の割に誠意が感じられないし、最後の言葉は余計だ。
 ○○は笑いを噛み殺しつつ、しかしにやにやしつつ、曹操の前に屈み込んだ。


「混血って言うのはね、私にとってはおまけだよ。混血に運命は付かない。運命というのは、個人に付くものだ。だから君を愛したのは私個人の運命だったんだ。勿論、君が私を愛したのも曹操個人の運命だ。だから、混血なんて実際どうでも良い情報だ」

「ならば何故知ろうとした」

「君は覚えていないのかい? 私は中途半端な情報は完全なものにしておきたいんだ。好奇心が旺盛と言えば良いのかな。分からないことが私の中にあるのはとても不快だ」


 曹操は眉間に皺を寄せ、深呼吸を一つ。


「……そうだった。お前は、そういう奴だったな」


 吐息混じりに言うと、○○はしたり顔で曹操の頬に口づけた。

 この薄暗い部屋の中、新妻の無邪気な笑顔が、いやに眩しく思える。



⇒後書き+レス

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