安倍晴明





 ぶらーん、ぶらーん。


 ……。


 ぶらーん、ぶらーん。


 ……。
 これは、馬鹿にされていると思って良いのだろうか。
 大木の太めの枝に膝をかけてぶら下がる少女を見つめ、晴明は舌を打たずにおれなかった。

 逆さの顔は晴明の顔とほぼ同じ位置にあり、ぶらりと下がった両腕の間にて垂れ下がった髪が尻尾のように左右に揺れる。
 少女は何も言わず、無言で晴明を見つめていた。たまに、ぱちくりと瞬きをする。


「あー」

「……」

「ぅにゃー」

「……」

「むーぅぅー」

「……」


 ……。
 ぱこ。
 苛立ちをぶつけるように、閉じた扇で強めに少女の顔面を叩いた。ぶじゃ、なんて奇妙な声。
 叩かれた所為か、少女は背を仰け反らせて反り返り、後ろに回した両腕で枝を掴む。枝から膝を外して、軽々と晴明の隣に着地した。蛞蝓(なめくじ)かと思うくらいに、彼女の身体は柔らかかった。

 晴明の袖をぎゅっと握る彼女の背後に、しゅたっと大きな塊が落ちてくる。
 視線をやればそれは鵺だ。猿の顔が晴明を見上げてくる。


「おい、漣。保護者なら保護者らしく、澪のこの自由さをどうにかしろ」

「……」


 漣はうなだれ申し訳なさそうに鳴く。尾の蛇が謝罪するように上下に顔を動かした。
 澪と呼ばれた少女は晴明と漣を交互に見、こてんと首を傾ける。まだ人語が分からないから、晴明が何を言ったのか理解していない。

 彼の言葉を漣が通訳すれば、短く頷いた。……本当に守るかどうか、分からないが。

 晴明の襞(ひだ)を成す袖を握り締める澪を見下ろし、晴明はこめかみを押さえずにはいられない。
 この鬱蒼とした森。都からは少しばかり離れた山の中だ。左京での仕事だった筈が、澪の自由さによって右京を横切りこんなところまで来る羽目になってしまった。依頼人の娘の部屋を毎夜毎夜訪れる悪霊を捜さなければならないと言うのに、澪を当てにしたのが間違いだったようだ。

 己の見込み違いに、腹が立つことになるとは思いもしなかった。

 晴明の心中など知らぬ澪は、漣に言われた通り沈黙して晴明の行動を待っている。お前の所為だと怒鳴りつけたい衝動に駆られるが無駄だとて抑えた。


「澪。今度こそ真面目に探せ。夜毎姫の寝所を訪れる女の霊だ」


 漣を介して指示する。
 澪は瞬きして周囲をぐるりと見渡した。
 そうして、西の方角を指差す。上下にぱたぱたと振った。
 ……すんなりと答えすぎだ。
 猜疑(さいぎ)に駆られて晴明は漣に視線を落とす。


「本当なのだろうな」

「……」


 肯定するように蛇が上下に首を動かした。



‡‡‡




 澪の示した方向には、草臥れた家屋があった。倒壊こそ免れているものの、右に傾ぎ今にも潰れてしまいそうだ。
 澪は晴明の袖を放すと猿のように軽快な動作で家屋の屋根へと乗り上がった。その後に漣も跳躍して屋根へ。

 何かを捜す素振りを見せる彼女はふと屈んで持ち上げた。そして晴明を振り返りぴょんと飛び降りた。
 晴明に、手にした物を差し出す。

 ……ひいなだ。
 紙で作った粗末な作りの人形だが、紙を用いている辺りそれなりに裕福な家で育った子供の持ち物だったのだろう。粗末なのは、子供が作ったからなのかもしれない。

 まだそれ程の時間も感じさせぬそれは、強い思念が宿っていた。姫君から感じられた気配によく似ている。澪はこれに反応して持ってきたのだ。
 霊力のある子供が、大層大事にしていたのだろう。
 だが、紙を手に入れられる程裕福な家が、このような場所に縁があるものだろうか。


「……いや、没落したか、或いは幼くして両親を失い、さまよってここまで辿り着いたか」

「ぁじゅー」


 くい、と袖を引かれる。
 彼女は晴明を家屋の裏手へと導いた。いつの間にか屋根から姿を消していた漣の声がそちらから聞こえる。晴明達を呼んでいるようだ。

 澪に従い回り込むと、鬱々と茂る中に土が盛り上げられた箇所がある。真新しく土を盛り上げられたその頂点には苔むした岩がぽつんと置かれている。
 ……墓、か。


「ここに、ひいな人形の持ち主が眠っている訳か。だが、寝所に夜な夜な訪れるのは女……ひいな人形の持ち主は子供ではなく姫と同じ――――」


 言いさして晴明は背後を振り返った。

 晴明の腰程の高さまで成長した雑草の中に埋もれて立つ、女の姿。依頼人の娘とほぼ同じ歳の姫君だ。虚ろな目で、晴明の手の中にあるひいな人形を見つめている。
 ひいな人形の持ち主で相違無い。
 目を細めて様子を窺っていると、姫君は薄く口を開いた。そこから出たのは、消え入りそうな、とても聞き取りづらい声だった。


『……ぇ、して……かぇ、て……』

「……」

『かえ、して……』


 晴明は女に歩み寄り、そっとひいなを差し出す。
 しかし、女は受け取らなかった。はらはらと涙を流し、首を横に振る。


「何だ。何が言いたい」

『ぁ、ぉに……のこ、ぃ……ぁの子、』


 女は何度も何度も掠れた声を上げた。己の伝えたいことが伝わるように、必死に、泣きそうになりながら何度も何度も声を発した。


「……、『あの子に返せ』……そう言いたいのだな」

『……』

「お前が、とある姫君の寝所を夜毎訪れているのか」


 女は何度も何度も頷いた。やっと通じたと泣いて、深々と頭を下げた。
 恐らくは、彼女の言う『あの子』とはあの依頼人の娘のことだろう。寝所を訪れていたのもひいな人形を返そうとしての行動だったのだ。されども、彼女ではひいな人形を持ち運ぶことは不可能。

 ようやっと聞き届けてくれる人間が現れたことに、姫君は深く深く感動していた。


「あの姫君に返すだけで良いのか」

『……ぇ、』


 姫君は何かを言おうとして、諦めたように頷いた。もうこれ以上聞こえづらい声で伝えて迷惑をかけたくないとでも思ったのか、申し訳なさそうに微笑む。
 晴明は鼻を鳴らし、ひいな人形を袂の中に入れた。


「分かった。引き受けよう。お前のことも、姫君に伝える。それが仕事故にな」


 これで解決。
 澪の自由さに振り回されたと思いきや、彼女はきちんと晴明の指示に従っていたらしい。
 墓前に手を合わせる――――恐らくは源信の真似だろう――――澪の頭を撫で、足早に家屋を後にした。

 残された澪は、目元を押さえてさめざめと泣く姫君に歩み寄り、その頭をそっと撫でる。
 姫君が顔を上げた途端、片手を振って漣と共に駆け出した。晴明の後を追いかける。

 それから澪は寄り道をすることも無く、晴明に従って依頼人の邸まで大人しくしていた。漣が言い聞かせたのを守っているのだ。
 依頼人とその娘に姫君のことを話してひいな人形を差し出すと、娘は姫君のことを覚えていたようで、ひいな人形を抱いて啜り泣いた。

 依頼人に話を聞くには、ひいな人形は娘が幼なじみの姫君と友情の証として交換した手作りの物だったらしい。
 姫君は両親が病死したことで生活が出来ず、いつの頃だったか屋敷から姿を消した。
 その後が、あの墓ということのなのだろう。何処に行こうとしていたのかは分からないが、幼なじみと交換したひいな人形は肌身離さず持っている程に大切な物だったのだ。だから、朽ちてしまう前に彼女に返したかったのかもしれない。

 ひいな人形を大事にすると誓って、依頼人共々深い感謝を示した。
 それで依頼は終わりとし、晴明は早々に邸を後にする。

 小路を歩いていると、澪が袖ではなく晴明の手をぎゅっと握ってきた。何かを確かめるように、何度も力を加えてくる。痛くはないが、気持ち悪い。
 止める為に強めに握り返してやると、「ふぎゅ」と驚いたような声を上げた。だが、握ってくる力が増してきたのを見ると、単に握りたかったのかもしれない。分かり難い意思表示だ。


「……あの姫君を見て、何か感じたのか」


 問いかけてみる。
 澪は俯いてだんまりだ。晴明の言葉を聞いているのかも怪しい。

 けども――――ふと足を止めてとある方角を指差し、乞うように晴明を見上げてきた。

 その方向が何を示しているのか、晴明にはすぐに分かった。
 吐息を漏らし、足の方向を少しだけ変える。


「役に立った褒美だ。だが、長居は出来ぬぞ」


 冷たく言い放ち、晴明は歩く。
 澪の示した方角――――糺の森に重なる清廉なる異界、澪と漣の故郷へ。

 それが分かった澪は、嬉しかったようで晴明の腰に突進するように勢いよく抱きついて歩行を妨害してしまう。
 また、扇で叩かれた――――。



⇒後書き

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