夏侯淵





「何で……何で私ばっかり!!」

「馬鹿落ち着け、○○!」


 今の○○は、とても見ていられなかった。
 街中の事故に巻き込まれて頭を打ち、無嗅覚症にになってしまい、味覚も嗅覚も機能しなくなったことに、料理に誰よりも心血を注いでいた○○が絶望しない筈はなかった。

 更には、それから時間をかけてようやっと前向きになり始めたかと言う時に、夏侯惇が関羽を○○に紹介したのだ。人生の、伴侶として。
 あれやこれやと破片を繋ぎ合わせようやっと直りかけた陶器を、また粉砕された○○は、即座に逃げ出した。
 数日帰ってこなかった○○は、夏侯淵がようやっと見つけて連れ戻した。夏侯淵が兵士達に口止めして夏侯惇達にすぐに報せなかったのはまた二人が○○と会うことで、○○を無意識に傷つけてしまう事態を恐れてのことだ。

 戻ってきた○○は酷く落胆し、弱っていた。
 夏侯惇が関羽を伴侶に選んだことも衝撃的だっただろうが、彼女は何よりも辛かったのは、夏侯惇が本当に《約束》を忘れていたのだと分かったことだ。無嗅覚症になった時以上に大きな刃物で胸を貫かれたのだ。

 深夜の厨(くりや)で半狂乱になって包丁を振り回す○○を後ろから羽交い締めにした夏侯淵は、○○に就かせた古参の侍女に包丁を取り上げさせ、無理矢理床に座らせた。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は腫れ上がり、昔の愛らしいかんばせなど見る影も無い。


「夏侯淵様」

「……暫くオレが宥めとくから、お前は茶を用意してくれ」

「畏まりました」


 ○○を案じるように、眦を下げて物憂げな顔で拱手した侍女はすぐ様、動き出す。

 彼女の邪魔にならぬように啜り泣く○○を抱き上げて厨を出て、自室へと運び込んだ。
 ○○は浮かされたようになって、何かをぼそぼそと呟いている。けれど声は無く吐息だけで何を言っているのかは判然としなかった。

 けれど、夏侯淵にはそれが手に取るように分かる。


 これは夏侯惇と○○への恨み言だ。


 《約束》を忘れた夏侯惇へ、夏侯惇の愛した関羽へ、憎悪を抱いた彼女は精神的に異常を来たし、常時見ていなければ何をするか分からない状態になってしまった。
 最近では寝る時すら油断ならないから、夏侯淵と一つの寝台を共有するようになっている。
 幼なじみとして、彼女を愛する男として、壊れかけた○○を放ってはおけなかった。

 曹操にもこのことを伝えて許可を貰い戦の機運が高まっていても城の中で寝泊まりはしない。忙しい身の上でこれは肉体的にもキツいけれど、○○はもっともっと辛いのだと思えば何ら苦は無かった。
 気が狂った時に恨み言を吐く○○ではあるが、正気に戻れば罪悪感に青ざめ苦しむ。夏侯惇達を恨むのは筋違いであると分かっているのだ。ただ、○○自身幼い初恋を引きずって固執していたからこうなっていた訳であって、責任は全て自分にあるのだとそう己を責めている。

 寝台に優しく寝かせて慰撫するように頭を撫でてやった。

 夏侯惇は、完全に《約束》を忘れている。いや、もしくは幼い頃のものなのだから無効だと思っているのかもしれない。
 夏侯惇が悪い……とは言えなかった。
 ただ、○○が夏侯惇を一方的に愛しすぎただけ。
 初恋は実らないとはよく言うが……○○の破れ方は色んなものが重なり過ぎだ。まるで誰かが嫌がらせをしているように、悪いことを重ねてしまった。

 元々臆病で精神のあまり強くはなかった○○が完全に壊れなかっただけでも奇跡だと、夏侯淵は思う。

 夏侯惇は悪くはないけれど――――○○の心の為に夏侯淵が頼み込んで○○を見舞うことを堅く禁じていた。関羽もそうだ。彼女だけは今もなお頻繁に見舞いたいと言ってくる。正直、鬱陶しかった。
 これ以上○○を壊してしまう者を近付けたくはなかった。それだけ今の彼女は危ういのだ。

 ○○ははらはらと涙を流し、夏侯淵に両手を伸ばしてきた。ぎゅっと首に抱きつき、幼子のように縋りついてくる。
 嗚咽を漏らしながら無く○○を優しく抱き締め、夏侯淵は背中を按撫し続けた。

 昔から一途に○○を思ってきた。今も、その感情は色褪せていない。
 ずっと想い見続けて来たからこそ、○○の辛さも誰よりも理解出来ていて心苦しい。そして、夏侯惇も悪気が全く無いのを知っているから余計にこの状況は苦しかった。

 抱き締められる体温で幾らか安らいだのか、○○はある時ふっと脱力した。首に回った腕がだらりと落ちる。
 また寝台に寝かせれば彼女は目を伏せ健やかに寝入っていた。睫毛についていた涙がきらりと光る。


「……○○」


 頬を撫で、夏侯淵は苦しげに名を呼ぶ。

 ふと、扉の外から声がかかる。応えを返せば茶を用意してきた侍女が遠慮がちに入ってきた。


「夏侯淵様。○○様は……」

「もう、寝た。悪かったな。わざわざ淹れてもらったのに」


 侍女は微笑み首を左右に振った。
 二つの湯飲みを載せた盆を持ったままその場を辞そうとするので、夏侯淵は折角だからと引き留めた。


「勿体ないから一緒に飲もうぜ」

「しかし……」

「今更遠慮すんなって。オレとお前の仲だろ。昔はあんだけオレや兄者の尻叩いて叱りつけてたくせに」


 揶揄するように言うと、侍女は皺を深くして苦笑い。肩をすくめて中に入ってきた。向かい合うように座し○○を見やる。


「……○○様、早く昔のように笑って下さればよろしいのですが」


 侍女は幼い頃の三人を、厳しく、優しく、母親のように見守ってくれた数少ない人間だ。権威に臆すること無く、悪いことは叱り、良いことは褒めた。それ故に、自分も、○○も夏侯惇も、彼女には絶大な信頼を寄せていた。
 ○○が良く夏侯惇のことを相談していたのも彼女だ。だから、○○の痛みをよくよく理解している。夏侯惇にとっては他愛ない子供の《約束》が、○○にとってどれだけ大きい意味を持っていたか知っている。

 夏侯淵の身の回りの世話を申し出て本家からこちらに来たのも、定期的に○○から届く筈の手紙が途絶えたのを不審に思ったからだった。
 彼女は、○○の有様を見て我がことのように泣いた。やはり、この侍女は誰よりもオレ達を大事に思って、仕えてくれているのだと夏侯淵は実感した。


「……ごめんな。オレがもう少し、何かしてやってたら」

「そんなことはございませんよ。むしろ、夏侯淵様が○○様をこうしてお支えしていらっしゃることを知って安堵致しました」


 侍女は自ら淹れた茶を飲み、渋面を作った。昔から、彼女は茶を淹れるのだけはとても苦手だ。薄かったり濃かったり、ばらばらだ。完璧に振る舞う彼女の抜けた部分は今でも変わらない。

 夏侯淵は今だけはその、ちょっとした失敗に少しだけ気分が救われたような気がした。


「それにしても、○○様のお料理……昔からとってもお上手で、とても美味しかったのですが。残念ですね」

「そうだな。お前よりも美味かったもんな」

「ええ。……明日の朝餉は、少々《気合いを入れて》お作りしますのでお楽しみに」

「申し訳ありません」


 即座に謝罪すると、侍女はふんわりと微笑んだ。


「大丈夫ですよ。○○様は、きっとまたすぐにお戻りになります。料理を作れなくても○○様には色んなことがお出来になります。私は昔から皆様を見守らせていただきましたから」

「……うん」


 そっと優しく頭を撫でられる。母親以上に母親らしい、懐かしい感覚に夏侯淵も表情が弛む。
 ……、大丈夫、だよな。
 きっと、多分、いつか。
 ○○も昔のように、笑ってくれるよな。


 オレの好きなあいつに、戻れる、よな――――……。



‡‡‡




 あれから、何ヶ月も過ぎた。
 何ヶ月も耐えた。
 夏侯淵も、○○も、侍女も。
 辛抱強く過ごした日々が○○を癒してくれると信じて、彼女を支え続けた。

 その報いなのか、どうなのか。


「夏侯淵様」

「……ん、ああ」

「○○様が、出て行かれましたよ」

「……そーだな」


 庭に仰向けに寝転がって、夏侯淵は屋敷の方から歩いてきた侍女に気の無い返事をした。ぼーっとしているのは、今までの苦労の反動だ。


「夏侯惇様をぶん殴って《約束》をこっちから破棄してやると頼もしく仰せでしたよ」

「昨日兄者に見立てた布の塊を何度も殴ってた様子を見せられてたから、分かってる」


 侍女はくすくすと笑う。
 夏侯淵は上体を起こして、真っ青な天を仰いだ。


「同居生活ももう終わりか……」

「同居と呼べる程甘ったるしくはありませんでしたけれど」

「どっちかって言うと荒(すさ)んでたよな」

「あら、そればかりでもありませんわよ」


 夏侯淵の隣に腰を下ろし、何が楽しいのか侍女はまた笑声をこぼす。


「……何だよ、今朝の○○と言い、何だか気色悪いな」

「そんなにお尻を叩かれたいのですか?」

「止めろ」

「ふふふ……また、○○様から恋のお悩みを伺っただけですよ」

「ふーん。恋の――――恋!?」


 聞き流しかけた夏侯淵は、ぎょっと侍女を見た。変な顔になってしまったようで、侍女の笑声がまた大きくなった。
 けれどもそれどころではなく。

 夏侯淵は身を乗り出し声を荒げて侍女を問い詰めた。


「ちょ、聞いてないぞそれ! あいついつの間にそんな相手が――――」

「さあ、いつでしょう。……ああ、そう言えば《約束》も全く別のものに変えると仰っておられましたわね。まだ何か目標が無いと怖いと言うことで、そのお相手に向けて……」

「誰だそれ! オレの知ってる奴か!?」


 必死である。
 夏侯淵自身○○が回復したらもしかしたら――――とそんなことを思わなかった訳ではなかった。

 侍女は必死な夏侯淵が面白くて仕方がない様子だった。楽しげに、何処か嬉しげに目元を和ませて夏侯淵を見返す。何度問うても嘯くばかりだ。


「《料理が夏侯家に仕える料理人の誰よりも美味しく作れるようになったら、夏侯惇様のお嫁さんになる》――――さて、どのように変わっているのでしょうね」

「お前知ってるだろ! その顔!」

「さあ、どうでしょうか。……と、そうでした。私、少し買い物を――――」


 言いさし、侍女は背後を振り向く。

 何だと夏侯淵が振り返るよりも早く、溌剌(はつらつ)とした声が届いた。


「夏侯淵ー!!」

「……○○っ?」


 何故か先程出て行った筈の○○が大きく片手を振ってこちらに駆け寄ってきているではないか。

 少し驚いて立ち上がった夏侯淵の前に立った○○は、息を整えつつ、にっこりと笑った。夏侯淵がずっと見たかった、昔の笑顔だ。
 それに心臓が跳ね上がり顔が熱くなるのを自覚しつつ、○○に「どうしたんだよ」と。少し、ぶっきらぼうになってしまった。


「ちょっとね、夏侯淵に先に言っておかなくちゃいけなかったこと忘れてたの」

「オレに?」

「うん。あのさ――――」


――――元気良く告げられたそれに、夏侯淵がまた侍女を笑わせることになる。



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