関羽
幽谷の姿が見当たらないことに気付いたのは、昼のことである。
狐狸一族(フーリ)兄姉と少しでも仲良くなっておきたいと思い立った関羽は、愽望坡の村の中を探し回っていた。
呼ぶと逃げてしまいそうだから、周囲を隈無く見渡して捜索していると、
「誰か捜しているのか」
「きゃっ!」
不意に降ってきた声に関羽は足を止めて前に傾いだ。倒れることは無かったが、心臓が口から出てしまいそうだった。
振り返れば三、四歩程離れた位置に周泰が立っていた。いつもの無表情は決して怖くはなく、凪いだ海を連想させ、むしろ感じる包容感めいたものに安堵する。
外套に隠されていない左側の上半身は傷だらけだ。顔にも横断するようにくっきりと残っている。
痛ましい姿はしかし、関羽にはとても頼もしく感じられた。その身にまとう温かな雰囲気の為だろう。幽谷と同様、彼は動物に好かれる。その様子を幾度か目にしたこともあるのだろうけれど、この雰囲気の方が大きい。
それに口数が少ない分さり気ない優しさや気遣いは心に良く染みる。関羽だって、時折どきっとすることだって無くはない。
猫族の未婚の女達が周泰に関してこっそりと騒いでいるのも頷ける程には、周泰に異性としてに魅力があると感じていた。
周泰はじっと関羽を見つめ、彼女の返答を待つ。
関羽はまず驚いたことに謝罪して、二人に訊きたいことがあったのだと切り出した。
「二人の好きな食べ物とか、料理が知りたいの。わたしで作れる物なら作ってあげたいと思って……」
周泰は一瞬だけ片目を眇めた。
迷惑だったかしら、と不安になったのもつかの間のこと、
「……俺は食事はあまり好まぬ故」
「え……」
食事を好まない?
関羽はえっとなって周泰に詰め寄った。
「食事が好きじゃないって、小食ってこと?」
「……いや」
……そう言えば、周泰が食事している様子はあまり見たことが無い。あったとしても幽谷の分の食事から少し摘む程度だったり、少ない量で済ませていた。いつの間にか何処かに行っていたり、見回りに行っていたりなどがほとんどだ。
こちらに遠慮してのことだとばかり思っていたけれど――――。
「駄目よそんなの。小食だと言ったって、日頃からしっかり食べておかないと、身体が、」
周泰はそこで関羽の頭を撫で、言葉を止めさせる。それ以上このことを追求するなとの無言の要求に、関羽は口を噤むしか無かった。
周泰は関羽の頭から手を離すと、空を仰いだ。
「幽谷ならば、南の森だろう」
それだけ言って、周泰は背を向ける。ゆっくりと関羽から離れていく。
仲良くなろうと思っていたのに、余計なことを言って気に障ってしまったのかもしれない。
でも……やっぱり心配だわ。幽谷に周泰の好みを訊いてみましょう。
周泰が見えなくなるまで見つめていた関羽は、ほうと物憂げに吐息を漏らした。
‡‡‡
周泰の言う通り、幽谷は南の森の中で大木に寄りかかり木漏れ日を浴びていた。
――――沢山の動物達に寄り添われて。
その光景を見た瞬間、関羽は微笑ましさよりも、息苦しさを感じた。
幽谷の周りに密集しすぎなのだ。幽谷も良くその中で平然としていられるものだ。
……。
……。
……ああ、いや。
「……寝てるのね」
隻眼は伏せられ、動物達のどれかが漏らす鼾(いびき)にも起きる気配は無く。彼女にしては珍しく熟睡しているようだった。
眠っていると、幽谷はあどけない顔になる。自分よりも身長が高いのに、自分よりも年上なのに。
普段から何処か危なっかしいと言うか、何かが足りない風に思えてしまうから、放っておけない。……それが幽谷から逃げられる原因だと分かっていてもあれこれ世話を焼きたくなってしまうのだ。
滅多に見れないだろう幽谷の寝顔を見つめながら、関羽は困ってしまった。これじゃあ、幽谷に訊けないわ。
どうしようかと思いつつ彼らに歩み寄ると、ふと関羽に気付いた狼が関羽に場所を譲るように横に退いた。
「……あ、良いのよ。そのまま寝ていても」
すり寄ってきた狼の顎を撫で、関羽は屈んで狼と目線を合わせた。
幽谷や周泰の近くにいる動物は、穏やかだ。肉食動物、草食動物が寄り添い合って二人に懐く様は異様だが、とても和やかで、劉備もその中に混ざって動物達とじゃれ合うことがあった。周泰曰く、関羽達は二人に敵意が無いからだそうだ。
頬をぺろりと撫でてきた狼に微笑みかけ、関羽は動物に埋もれてしまった幽谷を見やる。頭の上に載って爆睡する栗鼠が落ちそう――――ああ、落ちた。
悲鳴を上げて転がる栗鼠を、丁度目覚めた虎が軽く銜えて己の背中へと乗せる。……普通の自然界ならば絶対に有り得ないことだ。
やっぱり、狐狸一族だからなのかしら……?
でも周泰は狐の耳を持っていない。訊くところによると、狐狸一族の長に拾われ一族に迎え入れられたらしい。
狐狸一族だけど、違う種族の周泰もこうなるって、何か別の力があったりするのかしら。
幽谷の寝顔をじっと見つめ、関羽はこてんと首を傾ける。
けれど、考えているうちに、ふわっと欠伸が出てしまう。沢山の健やかな寝顔を見つめ続けていた所為だろうか、こちらも少し、眠くなってきた。
また出てしまった欠伸に関羽はうう、と小さく唸る。
彼女の前には、心地良い木漏れ日を浴びて気持ち良さそうに眠る動物達。
そして、ふさふさの狼。
……。
「まだお昼なんだし、少しくらい……良いわよね」
誰かに言い訳をして、関羽は狼が譲ってくれた場所に腰を下ろす。そこは虎と栗鼠を挟んで幽谷の右隣だった。
少しだけ、少しだけ――――そう自分に言い聞かせつつ関羽は目を伏せた。
関羽に、狼が近付く。彼女の膝に頭を乗せて、彼もまた目を伏せる。
小さな鼾が狼から上がるまで、さほど時間はかからなかった。
その頃にはすでに、関羽は夢の中だ。
‡‡‡
夕暮れ時、村に見当たらない関羽と幽谷の姿を捜していた趙雲は、南の森の中でくっきりと浮かび上がる赤を見つけた。
「周泰」
名を呼べば、狼にじゃれつかれている彼は趙雲を見やり立ち上がる。
趙雲はその向こうに密集した様々な毛玉を見つけ、一瞬足を止めた。ゆっくりと近付くと、それが森の動物達であることを知る。
更に近付いて原因も察した。
「……幽谷が、ここで寝ていたんだな」
肯定するように吐息を漏らした周泰は、つと顎で幽谷の横を示した。
それを見た瞬間、趙雲は小さく噴き出す。
幽谷の、虎を挟んだ隣に頭頂に栗鼠を載せ爆睡する猫族の娘が在(あ)った。
関羽である。
虎に凭(もた)れ掛かって眠る彼女も、完全に動物に埋まっていた。
なかなかに面白――――否、大変微笑ましい光景である。
「この光景だけを見れば、とても仲が良さそうだな。幽谷が目覚めた時が面白そうだが」
「……起こすか?」
「いや、良い。今日だけ、このまま寝かせてやろう。お前も、そのつもりでずっとここにいたんだろう?」
「……」
周泰は言葉を返さなかった。
短い旅の中でも十分に彼の気遣いを感じていた趙雲はそれを肯定と受け取り、撫でて撫でてと尾を振ってきた狼を滅茶苦茶に撫で回してやって、身体を反転させた。
「では、俺はこのことを猫族に報せておくよ。皆で三人の夕餉を作ってくれる筈だ」
「……いや、俺は、」
「遠慮をしなくて良い。ここに来るまで、ろくに食べていなかっただろう」
趙雲は爽やかな笑みで言い、そのまま村へと戻って行ってしまった。
後に残された周泰は、目を伏せ、僅かに肩を落とす。首筋を撫でて「頻繁でなければ、問題ではないか」と諦めたように独白する。
何処か苦々しい表情の彼は、されど幽谷と関羽を見やり、ふっと口角を弛めた。
珍しく、微笑む――――……。
目覚めた幽谷が関羽に驚き逃げようとしたのを周泰に取り押さえられるのは、これから半刻も経たぬうちのことである。
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