夏侯淵





 私は、夏侯家との繋がりを強固にする為の女(どうぐ)でしかなかった。
 上に何人も兄姉がいる中で私が夏侯惇と年齢が近かかったから、彼の婚約者になるのは当然の成り行きだった。

 強制的に婚約者にされた私達は、仕方がないと割り切って、友人として接していた。幼さを理由に、悪いことは何一つ考えようとはしていなかった。

 年を重ねれば重ねる程、私達は強まっていく拘束を感じた。
 二十歳を超えた私達にとっては、この婚約が何よりも重い荷物だった。
 どうにかしてこの拘束を解けないか――――あれこれ知恵を働かせてみたものの、決まって親から叱りつけられ、抵抗すれば部屋に閉じ込められた。夏侯惇の妻にならないのなら、末娘の私に存在価値は無いのだ。


 私が結婚したいのは、夏侯惇ではないのに。

 夏侯惇が結婚したいのは、私ではないのに。


 私達の意思は、誰も見てはくれなかった。

 だからだろう。
 彼女が羨ましいと、私は心から思った。
 彼女はいつだって自由だ。
 彼女はいつだって強い。
 彼女はいつだって――――無条件に周りから必要とされる。

 だから夏侯惇も惹かれたのだろう。
 惹かれて、夢中になって、私のことも考えずに感情のまま私の両親に婚約破棄を一方的に告げた。私よりも彼女――――猫族の関羽が良いと、話して。

 夏侯惇の考え無しの行動によって私に価値は無くなった。
 存在価値が無くなった私に、家人は一気に冷たくなった。


『役立たず』

『恩知らず』

『親不孝者』


 心無い言葉が容赦無く突き刺さる。
 もっと別の方法があっただろうに、私はむしろ余計に自由を失った。
 兌州を追い出され、祖父の代に作られた無人の屋敷に住まわされた。

 夏侯惇を恨むのは間違っていると思うけれど。
 関羽を憎むのは間違っていると思うけれど。

 兌州を発つその日に、私は二人に向けて手紙を残した。

 あなた達は私の不幸を踏み台にして幸せになるのね、と。
 私は夏侯惇の犠牲にじゃなくて、夏侯淵の奥になりたかったんだよ、と。

 ……。
 ……後から、自分勝手だったって物凄く後悔したけれど。



‡‡‡




「○○様、あまり薄着で外に出られては風邪を引いてしまいます」

「……ああ、うん。最近、寒くなってきたわね」


 中庭に立っていた私は友人兼侍女に話しかけられ、ゆっくりと振り返った。

 数少ない侍女とこの古びた屋敷で侘びしい暮らしをするようになってから、もう一ヶ月が発とうとしている。
 昨日、屋敷に夏侯惇達が訪ねてきた。多分私が残してしまった手紙のことで来たのだろう。
 私は侍女を介して彼らとの面会を拒否した。手紙のことが気まずかったのもあるし、加えて私をこんな風にして手に入れた幸せを目にするのが、とても辛かった。

 もし、夏侯惇が別の方法で両親を説得していたら、私にちゃんとそのことを話してくれていたら、私は夏侯淵と結ばれたのかもしれない。どうせ、私は両親にとって何の役にも立たない娘なのだ。夏侯淵が望んでくれれば容易く嫁がれた筈だ。
 それが、夏侯惇が速まったばかりに両親は私を責め立てた。私が婚約者としてちゃんとしなかったから夏侯惇はこの家との繋がりよりも、強い十三支の娘を選んだのだと。役立たず、役立たずと私を責め立てた。

 両親に存在を否定されるのは思いの外辛いものだった。割り切っていた筈なのに、怒りと厭悪を向けられて胸が裂けてしまいそうな痛みに襲われた。
 私はもう家には必要無い。
 ここで、一生飼い殺しにされるだけだ。


「今日は、近くの村の村長がまるまると太った猪を狩って、肉を分けて下さいました」

「そう……じゃあ私も手伝うわ。皆で作って食べましょう」


 この屋敷に住まうようになってから、私は侍女達と一層仲良くなった。話し相手が彼女達以外にいないから当然の流れなのかもしれない。

 でも、私は常々侍女達を不憫に思うのだ。
 一応身の回りのことは出来るし、私に巻き込まれて寂れたこの屋敷に送られた侍女達は近いうちに暇を出してやった方が良いのかもしれない。それなりの家の、器量の良い子達だから、私の所為で人生を棒に振らせるのは忍びない。

 一人寂しく何もかも諦めて余生を行きようと思う。……その方が、気分は楽だ。夏侯惇と関羽が種族を越えた幸せを手にした、それだけで良いと思おうじゃないか、私。

 侍女に見張られて私室に戻ると、すぐに温かい物を作ってくると侍女は一旦部屋を出ていった。
 私はその辺に放り投げてあったやりかけの刺繍を手に取り、目を半分に据わらせる。
 こんな物作って……誰に使わせるつもりなんだ、私は。

 吐息をこぼし、また放り投げる。
 渡す相手なんて夏侯淵だけだ。その彼も、ここまで来ることは無いだろう。
 好き合っていると分かってる。でも、夏侯淵は夏侯惇と同じく曹操軍の大事な武将。簡単には兌州を離れられまい。それを見越して両親は私をこの屋敷へ追いやったのだ。
 夏侯淵に嫁げないのは、彼が分家の人間だからだ。両親が繋がりを強めたいのは本家だけで、分家などには一切興味が無い。

 姉達は、他の好きな名家に嫁いでいったって言うのにさ。
 私だけが望む婚姻を許されない。
 私は寝台に横になった。


「……寝よ」


 ごろごろと転がって、仰向けになって目を伏せる。
 睡魔はすぐにやってきた。私を優しく抱き締めて、気持ち良い眠りへと誘う……。



‡‡‡




 気付けば部屋は真っ暗だった。
 爆睡して、そのまま日が暮れてしまったんだ。寝過ぎは身体に良くないのにな……。
 上体を起こして、ずうんと重く痛む頭を押さえた。寝過ぎた所為だ。

 侍女を呼ぼうと寝台を抜け出そうとしたその時、寝台から降ろそうとした足で何かを蹴ってしまった。誰かが寝台の縁に突っ伏している。


「誰……?」


 真っ暗だからただ大きな塊が突っ伏しているとしか分からない。恐る恐る手を伸ばして触って確かめてみた。
 腕……だろうか。柔らかくて温かい肉の下に筋肉の堅い感触がある。夏侯惇や夏侯淵みたいな、武人の腕をしてる。
 じゃあ、男の人……よね?
 こんな屋敷に男はいない。女ばかりだ。

 暴漢なら、こんな間抜けなことをする訳がないし……。
 私はほんの少しの恐怖と警戒心に息を呑み、その誰かを揺さぶった。


「あの、もし」

「……っぅ……」


 掠れた声。微弱なものだったけれど、何処かで聞いたような気がする。
 もう一度揺さぶると、今度ははっきりとした呻きが聞こえ、私の心臓が跳ね上がった。

 いや、そんなまさか。
 有り得ないと、頭の中で否定する。
 けれど私の手は、みたび彼の身体を揺さぶった。

 ややあって、誰かが起き上がる。


「う、ん……あれ……オレいつの間に……」


 目をこすり、真っ暗な部屋の中を見渡す気配。


「……何で、」


 思わず漏らすと、誰かが驚いて悲鳴を上げた。……五月蠅かった。


「五月蠅いわ」

「え、あ、悪い……じゃなかった、起きたのか、○○」

「さっき起きたの。でも……」


 ……これは夢なの?
 目覚めたら来る筈のない夏侯淵がいる。都合の良い展開じゃないか。
 私は自分の感覚に疑念を持ち寝台に横になった。


「ごめんなさい。夢か現実か分からないから、もう一度寝るわ」

「ちょっと待て、寝るな!」


 肩を掴まれ引き起こされる。
 そして頬を痛いぐらいに抓られた。


「いひゃい、いひゃい!!」

「夢じゃないって分かったか?」


 容赦無く抓られて、私はこくこくと頷いた。けれどもこの仕種も物凄く痛い。
 ばしばしと手を叩くと、夏侯淵は小さく笑って私を解放した。


「少しは萎れてるんじゃないかと思ったけど、全然だったな。じゃじゃ馬」

「……股間蹴るわよ」

「女がそういうことするなよ」


 憮然として頬を撫でながら、私はまだ疑念に顔を歪める。本当に夢じゃないのだろうか。だってこんなこと、出来すぎているんじゃないだろうか。
 沈黙した私の頭に、夏侯淵の手が載る。優しく撫でられた。


「何だよ、もしかしてまた抓ってやらないと駄目なのか?」

「……本当の、本当に、夏侯淵なの?」


 手を伸ばして頭を撫でる彼の手に触れるとぎゅっと握り締められる。


「オレに決まってるだろ」

「でも、どうして、」

「これも決まってる。○○を迎えに来たんだよ」


 迎え、に。
 私は目を瞠った。
 迎えにって、何よ。


「……私、死ぬの?」

「何でそうなる! やっと、お前をオレが貰っても良いって、許してもらえたんだよ」


 もう片方の手が背中に回り、ぐいと引き寄せられる。優しく抱き締められる。熱いくらいの体温に身体が弛緩していった。


「許して、もらえたの……」

「兄者と曹操様が、○○の両親に言ったんだよ。絶縁させた上でオレに嫁がせるって。○○があの家の人間でなければ問題は無いってことだろ?」

「そんな……強引な、」


 そう言いつつ、私は顔の見えない夏侯淵の服をぎゅっと握り締めた。

 夢じゃない。
 夢じゃないのよね。
 本当に、夢じゃなくて――――。


「……っ」


 涙腺が急速に熱を持ち、制御する暇も無くぼろぼろと溢れ出した涙がこぼれる。
 嗚咽を漏らし始めた私の背中を優しく撫で、夏侯淵は私の名前を囁いた。


「もう、何も気にしなくて良いんだからな。お前は兌州に帰れるんだ」

「……」


 こくり、こくりと何度も頷く。

 嗚呼……夢じゃない。
 夢じゃない。
 夢じゃない。
 夢じゃない。


 これは、確かに現実なんだ。


――――嬉しい。
 嗚咽を漏らし私は夏侯淵にしがみついた。


 暗い部屋の中、私の啜り泣きだけが響く――――……。



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