劉備(&曹操)
逃げている時はただただ恥ずかしかった。
どうしてあんな風になったのか、どうして劉備があんな言葉を言ったのか――――分からなくて、分からなくてただただ混乱した。
けれども、私室に飛び込んで自身を落ち着かせるうちにじわりじわりと胸中を支配したのは、氷のようなまったき恐怖だ。
破壊される。
私をのことを好きだと言って、今まで普通だった世界を壊そうとしているのは、この世界を作ったと言っても良い劉備様だ。
嫌われるばかりの人生に光が射したのだから良いじゃないか――――全然、そう思えなかった。何故か、それが異様に恐ろしかった。
ぎすぎすした世界を普通だと思って浸っていた自分が変わっていくことまた、とても恐ろしかった。
――――変わりたくない。
そう思う理由は分からない。されど○○は、劉備のあの行動に少しも喜べなかった。いや、喜ぶべき点があるのかすら分からない。
劉備があんなことをしたから、きっと猫族は更に○○を悪く言うだろう。今頃劉備は彼らに窘(たしな)められているかもしれない。
そうであって欲しかった。
――――が。
『○○ー?』
「……っ!」
あどけない少年の声に、○○は掠れた悲鳴を上げた。
私の世界を変えないで。
反射的に扉を押さえつけて息を殺す。
劉備は、○○の私室が何処か知らないのだろう。そのまま○○の名前を呼びながら通り過ぎていく。
足音か完全に聞こえなくなってから、○○はその場に座り込んで頭を抱えた。
どくどくと恐怖に高鳴る心臓に息は荒くなっていく。
世界が変わっていく。
嫌だ。
恐い。
変えたくない。
こんなに恐いくらいならこのままで良い。一生嫌われたままで良い。
もう先程の恥ずかしさなど微塵も無かった。
総毛立つ恐怖に、身体が震える恐怖に、○○は息遣い荒く己の身体を抱き締めてうずくまった。
‡‡‡
夜。
夕餉も摂らずに私室に引きこもっていた○○は、誰もが寝静まった頃部屋を出た。ふらりふらりと、冷たくなった手足を動かして適当に廊下を歩いて進む。
今宵は眠れそうになかった。
恐怖が、まだ心を染め上げともすればまた震え出してしまうのだ。
当たり前が変わることが、こんなにも恐い。
ただただ今まで普通だったことが突如として普通でなくなることが死刑宣告にも思えて心底恐ろしいのだ。
魚を突然陸に上げ、これから陸上で生活しろと強いるのと同じことだと、○○は思う。
確かに、嫌われなくなったら、仲良く出来たら――――そう思ったことは何度もある。でも決まってその想像が出来なかった。
だから、恐いんだろう。
変わった先があまりに不透明で、真っ暗で、何も無くて。
だから変わることに強い抵抗を覚えてしまうのだ。
多分、そう。
……嫌だ。
もう猫族に会いたくない。
いっそ劉備様達と会わなければ変わらない。
曹操に頼んで軍を抜けてしまおうか。当たり前だったことを当たり前にしたまま、誰も会いに来れないような場所で一人、ひっそりと暮らして――――……。
「……っ○○!」
「っ、ひっ!」
後ろから腕を捕まれた瞬間、反射的に手を振り払った。ぶわりと胸中から噴き出した恐怖に身体を反転させて背後の白と対峙する。
白は、劉備は痛そうに顔を歪めて立っていた。
……どうして、ここにいるの。
また、変えられる。
変わらなくて良い。
変えられたくない。
もう会いたくない。
変化への恐怖に呑み込まれる。劉備を傷つけてしまうと分かっていながら、○○は恐怖に従い突然すぎる変化を拒絶する。
劉備は悲しげに目を伏せた。
けれど○○がまた逃げようとしているのに気付いて○○へと近付いた。
破壊が、変化が、近寄ってくる。
「○○、僕は、」
「っ来ないで下さい。私は、変わりたくない。このままで良いんです。今更変わっても、どうにもならないから」
「違――――」
「いきなり当たり前を変えられて……簡単に受け入れられる程私は寛容じゃない!!」
○○はがなるように言って、○○は逃げ出した。今まで大事に守ってきていた筈の劉備が呼び止めるのも無視して、遮二無二走る。
今更変えるなら、最初からそんな風にしていれば良かったじゃないか。
私はそんな鷹揚に出来ていないし、順応性も良くない。
ふざけるな、と恐怖する心が○○の中で怒鳴る。そうだ、ふざけないで。今更何だ、今更好きなんて。今更傷つけないようにって何だ。
謝って、好きだって言って精算される程私の人生は安かったの!? 私にとっての普通は、そんな簡単に変えられる程簡単でぞんざいなものだと思われていたの!?
嫌だ、変わりたくない。
これじゃあ全然喜べない。
劉備様に口付けされて、恥ずかしがって逃げた自分が馬鹿みたいだ。
もう変わらなくて良い。
このままで良いわよ。
偏屈だと頭の片隅で誰かが馬鹿にする。
でも私は思うのだ。偏屈の何が悪い。こんな風に思って何が悪いのと。
○○はいつの間にか中庭に出ていた。月が水面に映り、ゆらゆらと揺らぐ池に近付き、乱れきった息を整えた。
自分でも異常だと思うくらいに取り乱している。
それだけ恐いのだ。当たり前が覆るのが。
頭を掻き毟(むし)ってその場に座り込むと、後ろから足音が聞こえてきた。ゆっくりとしたそれは、劉備ではない。
○○は徐に振り返り、ほうと吐息を漏らした。
‡‡‡
曹操は○○を抱きかかえて城内を歩いていた。
昼間の様子とは打って変わって憔悴した様子の彼女は、曹操の腕の中で眠り込んでいる。
先程まで精神的に弱っていた彼女は、曹操とただ静かに並んでいただけで気分が安らいだのか、階段に座って眠ってしまった。
それを、部屋まで運んでいるところだった。
劉備に気があるのかと思いきや、この拒絶のしよう……曹操は内心ほくそ笑む。
ここで精神的にも猫族と引き離せば、完全に自分のものと出来るだろう。この混血の同胞を。
いや、今のうちだけだ。それがなせるのは。
あのまま、猫族に疎外されていたままでいれば良いものを……。
澱んだ胸中を私欲に歪ませながら、曹操は暗い廊下を進んだ。
――――と。
「……曹操」
敵意を含んだ声に、曹操は足を止めて舌を打った。
ゆっくりと向き直れば、白。
苦しげに、憎らしげにこちらを睨んでくる。
曹操は目を細めた。
「……」
「……申し訳ないけれど、彼女は僕が連れていくよ」
「今起きれば、○○が泣く。これを精神的に追い詰めるのが、お前の愛情表現らしいな」
「……」
蔑めば、劉備は視線を逸らす。
曹操は鼻を鳴らした。
「自業自得だ」
「それでも、君に○○は渡せない」
「そうか」
淡泊に返し、曹操は背中を向けた。
「全てを決めるのは○○の心だ。今の○○が、《猫族》を選ぶとは思えぬ」
歩き出す。
劉備の鋭い視線を背に受けながらも、曹操は○○の額に口付けた。
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