曹操
真由香の愛用する弦楽器の音色が城に響く。
毎日のように、しかし毎度違う曲を奏でるのは、決まって曹操の私室。一月程前、仕事の合間に気休めにはなるだろうと勝手に演奏を始めたのがきっかけだ。曹操自身、この世界には無い楽器の音色、曲を聞くのは嫌ではない。それに仕事を始めれば切れの良い場所で止むから、キツく咎めることは無かった。
そのようなことをしようと彼女が思ったのも、きっかけがある。
彼女の直感が、そろそろ戻りそうだと訴えているからだ。
真由香がこの世界に滞在している間だけの、一時的な恋仲にある曹操の側をなかなか離れようとしないのも、自分の脳に少しでも長く曹操を納め、記憶に刻みつけておきたいからだそうだ。
真由香は、どんなに求めても元の世界に戻る。それが本来あるべき流れだ。
勿論、どうにかしてこの世界に留まらせようとしたこともある。だが、そんな考えを持つだけでも真由香には敏感に悟られてしまうらしく、そういう時に決まって面と向かって『私は帰らないといけないんです』と幼子を諭すように言い聞かせられるので、とうの昔に割り切った。
真由香は決して曹操の感情に流され、気を遣っている訳では決してない。ただ、自分の在るべき場所がしっかりと分かっているだけのこと。
世界が違う。
それなのに曹操自身割り切れたのも、穏やかに事実を受け入れられるのも、真由香がそうでありながらも惜しみ無い、真由香らしい純粋な愛情を曹操に真っ直ぐ向けてくるからだろう。
彼女なら、元の世界に帰ってもずっと繋がっていられるような、そんな気さえする。……いや、その為に彼女は曹操との時間を長く持ち、記憶を貯め込んでいるのだ。
真由香は純真の塊だ。自分の穢れた部分を恥じ入る程に。
バイオリンの優しい音色が止むと、寝台が軋む音が聞こえた。真由香が寝台に腰掛けたのだ。
曹操は無言で書簡に手を伸ばし、仕事へと戻る。
真由香はその背をじっと見つめている。正直視線が気になる時もあるが、結局は許してしまうのだった。
‡‡‡
夜遅く、真由香はふらりと部屋を出て行ってしまった。白杖を突いて城内を歩くのは真由香の暇潰しのようなものだ。
兵士や女官もいる故に危険もほとんど無い。それに一人で歩いても問題無いくらいには、彼女もある程度城内の構造は分かっている。だから曹操も今は彼女の好きなようにさせていた。……稀に、とんでもない大問題を引き起こすこともあるが、それは女官達も心得ている筈だ。
残った仕事をこなしつつ真由香の戻りを待っていると、彼女にしては珍しくさほど経たぬうちに部屋へ戻ってきた。
嬉しげな風情で、両手を後ろに隠しながら入ってきた彼女は、やはりと言うべきか、段差に躓いてその場に倒れ込んだ。潰された蛙のような悲鳴が上がる。
「……学習しないのか、お前は」
「し、してます……いたたた」
顔面を撫でながら起き上がろうとする彼女に歩み寄り、抱き上げる。寝台に寝かせてやれば、苦笑混じりに礼を言われた。
「もう慣れた」
「ですよね」
たはは、と笑う。
曹操は細く吐息を漏らし、ふと彼女の両手が不自然に握り締められているのに柳眉を顰(ひそ)めた。入ってくる際にも、彼女は両手を後ろに隠していた。
「……真由香、何を持っている?」
――――きらり。
真由香の焦点の合わぬ目が煌めいた。同時に曹操の中で嫌な予感が芽生えたのは致し方のないことである。
真由香から身を離そうとすると、逃すまいと服を掴む。見えていないからだろう、袖口と袂を少し乱雑に握った。
「……」
「あのですね、曹操さん。私考えたんですよ。私が帰っても、曹操さんが不安がらないようにするにはどうしたら良いだろうって」
「……」
「多分なんですけど馬鹿にした顔をしてませんか?」
「いや……ろくな考えに行かないだろうとは思ったが」
「それもそれで酷い!」
抗議する真由香の頭を小突き、曹操は真由香の隣に腰を下ろす。仕事が残っているから手短に、そう言うと真由香は頷いて「手を出して下さい」と曹操へ片方の手を突き出した。
胡乱に彼女の顔を見つめながらも言われた通り彼女の拳の下に手を置くと、掌の上に何か硬質な物が落ちてくる。
指輪だ。質素な、粗造りな物。こんな粗末な造りでは値段も付かない。
「……これが何だ」
「下仕えのお爺ちゃんに作ってもらったんです。私と曹操さん、お揃いで!」
こっちが曹操さんの分ですよ。
はしゃいだ声で言いながら指輪を曹操の左手薬指にはめる真由香に、曹操はしかしいまいち喜びを感じられない。こんな粗末な指輪よりも手の込んだ高値の指輪をやろうかと言えば「お爺ちゃんに失礼です」と叱りつけられた。
盲目であるが故か、元々なのか。彼女は着飾ることに興味は持たなかった。
そんな彼女にとって、この粗雑な指輪はどんな意味を持つのか。
名案を胸に抱いた軍師のような満足げな笑みに、曹操はますます眉間に皺を寄せた。
真由香はもう片方の手も開き、現れた小さめの粗造りの指輪を己の左手薬指にはめた。
「ほら、エンゲージリング」
「……えんげ……?」
「婚約指輪です。私の世界では結婚の約束をした男女はこうやってお揃いの指輪をはめておくんですよ」
己の指輪を示し、真由香は満足の様子。
「お爺ちゃんが心を込めて作って下さったんです。だから私達の婚約指輪にはぴったりだと思いまして。粗末だから要らないとか言わないで下さいね。言わないと思いますけど」
「……」
何も言えない。
曹操は目を細め、婚約指輪と、その名称を反芻(はんすう)した。
祝言を上げてしまえば簡単だ――――そう言いはしない。
真由香がそれを望まないからだ。
結婚に親や孤児院の家族が呼べないなど言語道断だと、はっきりと拒絶した。
曹操と違い深い愛情を受けて育ち、また周囲に深い感謝を持って生きる真由香。
だからこそ曹操も惹かれたのかもしれなかった。
愛おしい彼女が大事に思う、見たことの無い彼女の家族。
それを憎らしいとも思わない。ただ、ひとたび会うてみたいものだと興味は持った。どのような育て方をすればここまで純真な娘に育つのか、知りたかった。
奇異なる純真は、屈託の無い笑みで曹操の指輪と己の指輪を指差し、誇らしげに胸を張った。
「これがあれば違う世界にいても繋がっていられますよ!」
断じる彼女に、苦笑が漏れる。
されど嫌な気はしなかった。
「どうですか、名案だと思いません?」
曹操は何も言わず恋人の身体を抱き寄せ、それを答えとした。
⇒後書き+レス
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