葦屋道満
※もし夢主が道満のところに身を寄せていたら。
さら、さら、さら。
人の一生は、川のように流れていく。
その流れから一度離れれば泥が混ざり水は汚れていく。腐葉土の中に染み込み土中に留まる。流れ込む勢いで地道に土を抉り、池となり、湖へと広がっていく。
己はその果てに生まれた沼沢(しょうたく)だ。
長い時間をかけて怨念という泥土が溜まり、川からの水も断絶された、浅い沼。怨念に藻が生え澱んだ沼沢のまま、湿地になることも無く、そのままの状態を維持し続ける。
されど彼は、その停滞する状態を自ら望んだのだった。
心からこいねがう、己の願いの為に。
そんな彼が《彼女》を側に置いたのは、ただの保険だ。
邪魔になれば殺せば良い。目的を果たすまで役に立たぬ小娘のままでいるのなら放り捨てる。嘗(かつ)ては天敵だった筈の彼女は、もはやそれだけの存在だった。
それが油断だったのだ。
野生の獣にすぎぬ娘が、己の中にまで入り込んでくることまで、予想し得なかった。
さら、さら、さら。
風が揺れる。
眩い日差しを受け、草花は鮮やかに風に踊る。花弁が舞い、快晴の青空を彩った。
青い匂いを孕んだ風は揶揄するように短い銀髪を揺らした。
伏せ目がちの赤い双眸を開くと、腕の中でもぞりと小さな塊が身動いだ。風に煽られてぬばたまの髪が捲れ上がり根本の頭皮が見え、稲妻の如き歪な一本線になった。
それを撫でて戻せば、擽(くすぐ)ったいのか腕の中の獣はもぞもぞと身体を動かす。
獣のように身体を丸くした少女は、月並みの、平凡な面立ちをしていた。黒と緑を基調とした裾と袖の短い衣服を身にまとい、真っ赤な帯で腹を締める。
柔らかな頬を、露出した胸に当てて気持ち良さそうに眠る姿は一見無垢なる少女だ。
されど、彼女の普段の姿を知る彼の目には日向ぼっこする小動物に見えた。
風で頬を打つ横髪を指で払い除ける。
爪で軽く引っかいてしまった。
「んゅ……」
瞼が震える。
ゆっくりと押し上げられた目は――――不可思議な引力を持っていた。
見れば身る程取り込まれ、その黒に呑み込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。次第に、この魅惑的な目を手にしたいという欲求も芽生えてくる。
それが何の意味を持つのか、彼は知っていた。知ってなお、純真無垢な小さな獣に絆(ほだ)された。
「うー……」
「……起きたか」
くあ、と大口を開けて欠伸をする少女の頭を撫で、地面にそっと降ろす。木の根で隆起した地面を裸足で踏み締めた少女はまだ眠たそうに目を擦り、可愛らしい唸りを漏らした。
その姿に鼻を鳴らした彼もまた立ち上がる。風が悪戯を仕掛ける草原を見はるかす。
赤と黒の衣を翻して歩き出すと、少女もぱたぱたと続いた。隣に並び、ぎゅっと手を握ってくる。
少女の手はとても小さく、細い。少女の頭を包める程の彼の手とは比べものにもならない。
その容易く折ってしまいそうな手を握ると、少女は「あー」や「おぅー」など、赤子のような声を上げる。
彼女は言葉を知らない。人間と話す術も持っていない。
されど無理に言葉を教えないのは、彼が言葉が無くとも少女の心情の動きを把握しているからだった。獣と酷似しているから、行動の傾向は至極単純なのだ。
「腹が減ったのか」
「ぅにょー」
肯定だ。
人語を話せずとも、これまで彼と共に人間社会の中で生きてきた彼女はある程度の言葉の意味は学習している。言葉を返せないが、分かりやすく言えば時間はかかるが概(おおむ)ね理解した。《元々》順応性が高く、賢しい娘だったのだから当然だ。
握った腕を振って食べ物を催促する少女を見下ろし、手を伸ばす。真っ黒な肌に赤い線の走った、滅多に人前には晒さない右手だ。
その手に怯える様子も無く、むしろ頭に載せて按撫(あんぶ)すると心地良さそうに目を伏せた。
……と、きゅうぅ、と焦れた少女の腹が文句を言い出した。
彼は目を細め歩き出す。
ふと、一羽の瑠璃色の小鳥が舞い降りて、少女の頭の上に留まった。足を折り、落ち着く。
「ちゅーん、ちゅーん」
小鳥をそのままに、彼女は彼に従う。
小鳥は余程少女の頭が気に入ったらしい。
都に戻るまで飛び立つことは無かった。
無法地帯の羅城門を抜けて、朱雀大路に入ってようやっと飛び立った。
都に入ると、少女は途端にぴったりと彼にくっついた。警戒するように行き交う人間達を見渡す。以前、この瞳が原因で好事家や人売りに拐かされかけたことが何度もあった。決まって親代わりの鵺が寸前で助けては叱りつけるものだから、人通りの多いところでは仲間と認識する沙汰衆の側を絶対に離れないようになってしまった。
人間に対して恐怖心を持った彼女は、この都の中では沙汰衆や鵺の側でだけ安堵出来るらしい。
市場に寄って適当な干菓子を買い与えると、彼女はそれを食べながらも彼から離れようとはしなかった。
――――の、だが。
「!」
突如少女が手を離して駆け出したのだ。何かに興味を持ったのだろう。
大股に追いかけると、彼女は道の隅にうずくまっていた。
歩み寄って背後に立つ。
「どうした」
少女はすぐに立ち上がって身を翻した。
その腕には――――何ともふてぶてしそうな猫が。
「にゃー」
「にゃー」
「……」
彼は反応に困る。
取り敢えず、双方の頭を撫でておいた。
少女は猫を見下ろし、地面に降ろす。尻尾をぴんと立てて足にすり寄ってくる。歩き出した彼を追いかけた少女を猫も追いかけた。
けれど、幼い男童(おのわらわ)に呼ばれ、足を止める。飼い主だろう、少女になどもう興味が失せたように、あっさりと離れていった。
少女もまた、猫に構いはしなかった。飼い猫だと、漠然と察していたのかもしれない。
手を握ってくる少女を一瞥し、彼は視線を前に戻した。
‡‡‡
足が、止まる。
彼は少女を見下ろして低い声で問いかけた。
「どうした」
「……ぉー、ぁ」
「……」
「おぉ、あ、」
大きく口を開け、何かを言おうとしている。
少女は人語を喋れないし、自ら喋ろうとすることも無かった。
それがどうしてか、何かを言おうと無表情に苦心している。
彼は何も言わずに待った。
やがて――――。
「――――おー、まん」
どーまん。
人名らしき言葉を、大きく発した。
彼は瞠目した。口を薄く開き、少女を凝視する。
「どーまん、どーまん……どーまん?」
「……」
彼は、そろりと手を伸ばして頭を撫でた。
「……、……よく、言えたな。……澪」
彼は――――葦屋道満は、躊躇うように、そう言った。
途端、澪の不可思議な目は美しく輝いた。
その目が眩しくて、魅入られて、道満は目を細めた。
沼の泥土には、色んな生き物の死骸が埋まる。
それを肥やしに、浮草は可愛らしい白い花を稀に咲かせる。
きっと、いつかはこの娘も沼に呑まれるのだろう。
そして、腐り果てて泥土に埋まる。
本来ならば、そうするべき相手。
……けれども。
この、穏やかな温もりを沼に与える娘を側に置いておきたいとも思う。
ともすれば、白い花と永久に側にいれば――――。
――――沼の底に大事に抱える嘗(かつ)ての愛も、少しは澄むのだろうか。
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