夏侯惇





「――――ところで、夏侯惇」


 私は早く人間の死体が見たいのだが。
 ぶすっと机に顔を載せて恨めしくこちらを睨め上げてくる妻に、夏侯惇は苦笑を禁じ得なかった。言葉こそ不穏だが、それを無視すれば童顔の彼女の拗ねた顔はとても愛らしい。
 東方医学に明るい彼女――――○○の物騒な発言と趣味は昔からだ。それなりに付き合いの長い夏侯惇も、曹操らも慣れきっている。

 ○○は昔から、人や獣の死体の側にいたがった。生きた人間を恐れ、何も喋らぬ死体を愛した。
 両親と、生まれた時から一緒にいた愛猫を揃って山賊に殺された彼女は、長い間両親らの死体が転がった強烈な異臭漂う家の中で暮らしていた。
 それを、たまたま訪れた親戚に無理矢理連れ出されたことら生者を一切信用しなくなった。医者に嫁いだ伯母の元で育てられていても、市街に転がる人間の死体を捜しては屋敷を抜け出し身内を困らせた。

 死体に安らぎを覚える彼女だが、死体を見たいが為に人を殺めることは一切無い。死体はその人間がそれまで生きてきた証が沢山詰まった物だと公言しているから、信用出来ないとしつつも、生者の邪魔をすることはしない。
 こうした理由もあって、死体は好きだが、○○は戦で命を落とした兵士の死体は好まない。無理矢理生を奪われた哀れな者達だと、涙ぐむこともある。
 そんな哀れな死体を増やさぬ為に、彼女は医学を学んだ。

 彼女にとって愛するべきは、人によって命を絶たれた死体ではない。天命によって定められし死を迎えた死体だった。
 彼女の性癖は、何もかもが失礼に当たりそうだが、幸いなのは死体の個々を誰よりも敬い野垂れ死にの死体も○○自ら手厚く葬ろうとする姿勢があることだろうか。この一面が民にどれだけ感謝されたことか、○○本人も把握していないだろう。


「早く行こう。腐敗が進んでしまったら個人の特定が難しくなる。そうなってしまえば満足に弔ってやれなくなる」

「分かっている」


 夏侯惇はいつまで経っても歪み無い妻に苦笑を禁じ得なかった。
 慣れてしまった彼にしてみれば、理由は無視して彼女を愛でることも容易かった。

 とはいえ、こんな○○であるから、夏侯惇との縁談が持ち上がった時彼の周囲は一様に青ざめたものだ。
 夏侯惇は、○○とは彼女が医学を学び始めた頃からの知り合いだった。○○を引き取った伯母の夫というのが、夏侯家のお抱えだったのだ。
 夏侯淵とも面識はあるが、彼女の性癖に怯えた。今現在も、同様である。

 幼なじみと言うよりは、年下の上死体のこととなると我を忘れてしまい非常に危なっかしいので、やたらと世話を焼いていた兄のようなものだ。生者もそれなりに信用出来るようになった頃には、生前の母親に似て愛らしくも成熟した女となって戸惑ったが、中身がほとんど変わらないので関係もさほど変わらなかった。夏侯惇はそれを有り難く思う。

 縁談が来た時は勿論夏侯惇自身も戸惑った。年を経るごとに女性的な魅力を備えていく幼なじみに満更ではなかったけれども、○○を敬遠しがちだった夏侯家から突然そんな話を言い渡されるとは思わなかったのだ。

 が、当の本人と言えば。


『分かった。じゃあそうしよう。……ん? 私は夏侯惇は男として好きだから問題は無いだろう? ああ、夏侯惇は別に私のことを好きでなくても構わん。武将にとって妻は健康な跡取りを産めるかどうか一択だからな』


 と、いともあっさりと承諾してしまったのだ。しかも、恥ずかしげも無く告白したのに、自分が子を産む道具でも構わないとも堂々と公言している。○○の性格は複雑怪奇で夏侯惇でも理解が及ばない部分が未だあるのだから、この発言も彼女らしいと言えばそうだ。
 婚儀は面倒だからと一蹴し、そのまま何事も無く、斜めに立てかけた板にかけた水がさらりと一瞬で流れ落ちるように、気付けば夫婦となっていた。……慣れとは恐ろしいもので、夫婦になってしまえば戸惑うだけで特に不満も無く、○○だから仕方がないと納得したけれど。

 今でこそ夏侯惇も胸中を明かし両想いだが、それでも何とも奇妙な夫婦関係だと、自分でも思う。決して嫌ではなかった。

 机の上に載ったままの○○の頭を撫で、夏侯惇は腰を上げた。

 途端、○○の丸い目がきらりと輝く。立ち上がって机を回り込み夏侯惇の前に立つ。期待で晴れやかな顔が夏侯惇を見上げてくる。


「行くか」

「ああ!」


 にぱ、と。
 無邪気な笑顔で彼女は頷いた。



‡‡‡




――――ここで一つ、留意しておくことがある。
 この兌州は許昌。
 曹操の統治により安定したこの町は、○○の指示もあって医学的な面でも充実している。

 従って、許昌で民の死体が路地などに転がることは滅多に無いのだった。


「夏侯惇、次はあっちだ。あっちに行こう!」

「分かったから、そんなに引っ張るな」


 はしゃぐ○○の好きなようにさせている夏侯惇も、それは承知の上だ。
 それなのに夏侯惇と町に出たがる理由も――――本当は厳密に言えば彼女が死体が好きという訳ではないということも、彼は知っている。後者に関しては、随分と昔から感づいてはいた。確信したのはつい最近である。


「店主、饅頭をくれ。三つだ」

「おやぁ、○○様。いつも有り難うございます。ああ、先日は有り難うございました。おかげで息子ももう元気に外で遊び回っている」

「うん。けどそんなことよりも饅頭だ、とびきり美味いのをくれ!」


 失礼な物言いだが、店主は嬉しそうに笑う。
 こちらに気付いた彼が会釈するのに、夏侯惇も苦笑して片手を挙げて応えた。

 ○○は医者だ。
 たまに町を歩いては無償で民の傷や病気を診て回る。
 ○○が夏侯惇と町を見て回りたいのは、死体を探したい訳ではない。民のことにも気を配る夏侯惇を少しでも安心させたいが為のことだった。死体探しは表向きの理由でしかない。

 店主から饅頭を受け取って小走りに戻ってきた○○は、饅頭の一つを夏侯惇へ手渡す。残り二つは勿論自他共に認める甘党な彼女の物だ。
 幸せそうに饅頭を頬張る○○の横顔を横目に眺めながら、夏侯惇は目を細めた。

 一つ目を食べ終えて――――よく噛まずに嚥下(えんか)してしまう癖は昔からだ――――もう一つにかぶりつく彼女の空いた手を握る。指を絡ませれば、○○は饅頭に噛みついたまま夏侯惇を見やり、目元を和ませた。ぎゅっと握り返される。
 かと思えば、ぐんと引っ張って、


「ほんほはあっひは!」

「せめて食べてから言え」


 今度はあっちだ。
 ぐいぐいと先へ進む○○の表情は本当に無邪気だ。

 彼女は城を出た時から死体を探していない。生者の営みを見、安堵している。死体ではなく、生きている人間が笑顔で暮らすこの町で、安らぎを覚えている。

 ○○はただ、単純に死体が放っておけないのだ。
 両親や猫の亡骸の側に居続けたのも、苦しげな顔の彼らを放っておけなかったから。
 野垂れ死んだ死体の側に寄り添うのも、孤独に寂しげな彼らを放っておけなかったから。
 彼らを丁重に弔うのも、心から彼らの冥福を祈ると共に、来世で別れた家族やその恋人などが再会出来ることを心から願う為だ。

 そして、ここに死体は滅多に現れない。あるとすれば、家族や仲の良い者に看取られた人間だ。

 安定した町の中で○○は幸せそうに笑う。

 以前は生きた人間に対して不審になっていたけれど、今は違っていた。


 ○○は、これまで出会った死者を心から敬い、この兌州で生きる人間を心から愛しているのだ。


「今度はあの飯屋だ、行こう」

「……どれだけ食べるつもりだ」


 辟易しつつも、笑みが浮かぶ。
 ○○は夏侯惇の手に残っていた饅頭に気付くと、さっと取り上げて食べてしまう。
 子供っぽく笑う妻に、愛しさばかりが募っていく。






 誰も気付かない○○のこの大きな変化。
 知ってるのは、俺だけだ。



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