張蘇双
野垂れ死んだ人間の遺体を前に、○○は冥福を祈り両手を合わせて目を伏せた。
その後ろで、関羽と諸葛亮も同様に不慮の死を押しつけられたのだろう遺体に手を合わす。惨たらしい。
今は些事で立ち止まっている暇は無い。それを分かっていてなお、○○は足を止めた。止めずにはおれなかった。
○○は脇に置いた剣を持ち上げ、立ち上がる。右に傾いて倒れかけたのを関羽さっと支えた。右足が痛むように、関羽に申し訳なさそうに眦を下げた。
「腐敗網……亡くなって大体三日程だろう。三日もの間、たった独りでここに横たわっていたとは、なんと哀れな」
○○は遺体に背を向け、諸葛亮を呼ぶ。
「行こう」
「え……? お墓は作ってあげないの?」
関羽の問いに「ああ」彼女はやおら頷いた。
「山賊に襲われたのかもしれん。近く野山に潜んでいるとすれば、この長蛇の列を為す民に目を付けぬとも限らぬ故にな。……それに、故郷でもなかろう場所で埋めたとて、安らぐものでもあるまい。ただ、この御仁の心だけでも故郷に戻れるように祈れば良い」
「……そうね」
○○は関羽を一瞥し、剣を杖代わりに右足を引きずりながら隊列の中に混ざっていった。それを気遣い諸葛亮が横につく。
風が吹き荒び、死臭を乗せて関羽の髪を揺らす。
このまま放置すれば、その内もっともっと強い腐臭が辺りに漂い悪臭放つ芥(ごみ)として忌み嫌われ、誰にも避けられながら腐敗を進め、果てには白骨となり行くのだろう。そして更に時間をかけて骨すらも風化していく。孤独な完全消失だ。
この遺体もほんの三日前までは自分達と同じように生きて、笑って、怒って、泣いて、精一杯生きていたのだろう。
それを思うと、胸が痛い。
○○は、きっとこれ以上に辛いだろう。他人の、特に年上の人間の死には敏感だと、本人も自覚している。だから足を止めてしまったのだ。
野に転がる遺体は、○○よりも一回り年老いた女だ。関羽に悲嘆を訴える顔は恐ろしくも物悲しい。
彼女に、今は亡き家族を重ねているのかもしれない。
少なくとも関羽は、そう思った。
けれど、実際は違うのだ。
‡‡‡
その日の夜、小川の畔で野営した。
蘇双は地面に座り込んで疲れた身体少しでも休ませようとする人間達や猫族を眺めながら、とある女性の姿を探した。
逃避の道中は同性であり、あれこれと気の回る関羽に世話を任せているが、その関羽から○○の姿が見当たらないと相談を受けたのだ。趙雲にも協力してもらっているようだが、一向に見つからないとのこと。
博望坡にて夏侯惇に右足の腱を完全に断たれた○○は、杖無しには満足に歩けなくなっている。
劉備がそのことに酷く落ち込んでいるのは、恐らくは囮の役目を上手く果たせなかった自分の所為だと気に病んでのことだろう。本人がそう言った訳でもないし、関羽に聞いても言葉を濁して明確な返答をしないから、こちらで勝手に憶測しているだけなのだけれど。
○○も劉備には絶対に近付こうとはしなかった。稀に何かを堪えるような痛ましげな顔で劉備の後ろ姿を見ている時があるが、いつも関羽が誰かが問いかけるよりも早く○○を呼んで、我に返るのだ。
今回いなくなったのも、それに関係があるのかもしれなかった。
趙雲達は野営地の中だけを捜していたようだからと、蘇双は野営地を離れて川沿いに彼女を捜索した。
すると、存外呆気無く彼女を見つけた。満足に歩けずとも、○○はやはり○○だ。行動力は変わらない。
「関羽達が血相を変えて捜してたよ、○○」
「……蘇双殿か」
○○は大きな岩に腰掛けていた。剣を地面に突き立て、柄尻に両手を重ねて置き、遠くを見るように視線を前へやって目を細めている。その顔は、無表情だ。
以前は蘇双が近付くだけでも逃げ出していた彼女は、今は何ともちっぽけで、弱々しかった。安易に触れてしまえば、拙く作った泥人形のように、いとも呆気無く壊れてしまいそうだ。
図太く奇特な武人であった彼女が、まるで違う悲惨な姿に成り果てていた。
彼女から武を奪っただけで、こんなにも変わってしまうのかと、意外に思うと同時に納得していた。
元々武で自身を守っていたような娘だ、守る物が無くなって痛ましい程に弱くなってしまう。
蘇双は隣に立って、○○の顔を覗き込んだ。いつもなら、即座に顔を背けるなり、身を離すなりする筈だ。しかし、前のような反応は無かった。困惑しつつ「如何されたか」と苦笑混じりに問うてくる。
「……いや、別に。戻らないの?」
「ああ、もう少しここにいようと思う。皆には迷惑をかけてしまうが」
「そうだね。足を怪我してから、猫族は皆心配してるよ。あれだけ変人振りを発揮していた○○が急に萎れているのは、不吉だって」
「不吉か。そうか。確かに不吉だな」
からからと乾いた笑声をこぼし、○○は自らの右足を見下ろす。蘇双を一瞥して唇を歪めた。何かを言いたそうで、しかしそれを必死に押し留めているといった体だ。
蘇双は怪訝に眉根を寄せながらも、彼女の発言を黙して待った。
やがて、
「私のこの傷は、夏侯惇殿に付けられたものではないんだ」
唐突な暴露に蘇双は軽く目を向く。
「え? じゃあ、張遼?」
いや、張遼だとしても隠しておく意味は無い。
○○がわざわざ隠しておいた程の人物は――――。
仲間、か。
心当たりがあるとすれば、ただ一人だ。
「……まさか、劉備様?」
であれば、曹操軍の兵士達もそれなりの数が無事では済まなかった筈だ。
○○は悲しげに目を伏せた。蘇双の視線から逃れるように顔を伏せる。
「ああ、ほんの一時だけ暴走されたんだ。その僅かな間で、私の脚は断たれた」
だから劉備は羅音を避けていて、○○はそんな彼を悲しげに見つめていたのか。
どちらも、優しい性格だから。
「ずっと、隠していたんだ。関羽も」
「……彼の邪と戦う苦しみは、我らには皆目分からない。だから、こうやって少しでも軽くさせることしか出来ぬ」
話してもらえなかったことに、一抹の寂しさが生まれる。
けれども、それが劉備を苦しめることだとは蘇双にも分かったから、理解も出来た。
きっと怯える者もいるだろう。まして新野の人達の耳にも入ってしまったら……劉備は、悲しみに壊れてしまいかねない。
蘇双もそれは望まなかった。邪に染まって人を殺せばそれだけ劉備も自責を重くする。それだけ長が苦しんでしまう。
「……そっか。じゃあ劉備様は今、本当に苦しんでおられるんだね」
「ああ。私よりもずっと幼いのに、何もかも一人で背負って……関羽殿にも助力を求めない。身を守れなかった私自身にも非があるというに劉備殿は全て自分が悪いと断じられてしまう……見ていて、とても辛い」
右足の膝を撫で○○は立ち上がる。ふらりとよろめくが、蘇双が手を貸す前に自身の力で体勢を元に戻した。
「私では、もう猫族のお力にはなれまい。至らぬ私の自業自得だが、それが悔しくてたまらない。役に立たぬ己を恥じながら、私の取り柄を失ってしまった私には何の意味があるだろうと、博望坡を出てからずっと考えていた」
「ボク達は○○に守って欲しくて同行してもらっている訳じゃないってば」
「分かっているさ。しかしな、私は貴殿らには大恩がある。それを武で返そうとしていたのに、このような足手まといにしかならぬ体たらくでは……恩を仇で返すようなものだ」
○○は義理堅すぎる。義理だけでなく、頭も硬い。
蘇双は嘆息を禁じ得なかった。猫族の誰もが彼女の性格を十分分かっている。だからこそ案じているのだ。
咎めるように彼女を呼ぶ。けれど彼女は苦笑を向けるだけで、話を止めようとはしなかった。
「野に転がる死体を見たんだ」
「関羽から聞いたよ」
「……見つけた時、あの死体が私に見えた」
蘇双は眉根を寄せた。
冗談で言っていないことは一目瞭然。けれど、言って良いことと悪いことがある。
「ちょっと、」
「人は死ぬ。それは必定だ。武が無くなった私の行く末なのだろうと、心の中で納得した」
だが。
「同時に、嫌だった。一人で死ぬことが嫌で嫌でたまらなかった」
昔でこそ武を振るい戦場で死ぬは誉れと思っていたのに、家族に誇れる功績であると思っていたのに。
死ぬことが、この世からいなくなることが怖くて怖くて仕方がないのだ。
弱々しく語る彼女に、当たり前だ、と蘇双は思う。生きとし生ける者が本能的に死を恐れるのは当然のこと。何ら恥ずかしいことではない。
蘇双は口を閉じ声を震わす○○の言葉を待つ。
「ではどうして怖いのか、ずっとここで考えていた。武を失い役に立たない私に何の未練があるというのか、ずっと考えていた」
「答えは?」
返ってきたのはやおらな首肯。
「出たよ。私は、愛しているんだ」
だから、離れたくないんだ。
右手に拳を握り、○○は噛み締めるように言う。
彼女の発言にどきりとした。
まさか自分に言われているのではないかと勘違いしそうになったが、すぐにこの女性に限って有り得ないと冷静な自分が諭した。
多分、猫族のことを言っているんだろう。猫族にとって○○も趙雲も、仲間であり家族だ。○○も、そんな猫族の中に心地よさを感じている。
○○は、蘇双を見上げ「どう思う、蘇双殿」と。
「これを貴殿に対する恋心だと言うのだろうか」
「……は……」
顎が、落ちた。
蘇双は自分の耳が正常か疑った。
聞き間違いでなければ、今、『貴殿に対する恋心』と聞こえた。
……。
……まさか、勘違いでは、なかったのか。
不思議そうな○○を見下ろし、蘇双は一歩退がる。いや、しかし、奇特な彼女らしいと言えば彼女らしいとも思える。話の流れもあるのだろうけれど、こういところで恥じらい無く、さらりと恋心なんて口にしたなどと。関羽達がいたらどんな反応をするか……。
蘇双は久し振りに不意打ちを食らった心地だった。
「君はボクが好きなんだ」
「そうらしい」
「じゃあ、死なないでよ。ボクの為に」
そう言うと、○○は少しだけ安堵したように微笑んだ。
――――ひょっとすると、蘇双のその言葉が欲しかったのかもしれない。
死に恐怖する自分を、正当化したかったのかもしれない。
蘇双は彼女を見てそう思った。
○○は武を失い弱くなった。それを誰かに許して欲しかったのやも……。
彼女が弱くなったことは決して悪いことではない。むしろ趙雲も、○○の亡き家族も、彼女を案じる人間なら安堵するだろう。誰も責めたりはしない。
蘇双は○○の頭を撫で、そっと抱き締めた。
「君のことはボク達で守るから、○○は生きることに集中すると良い。見捨てることは無いから」
「……」
○○は蘇双の肩に顔を埋め、小さく謝辞を囁いた。
蘇双は前よりも小さくなったように感じられる彼女の身体を感じながら、○○が落ち着くまで彼女の丸くなった背を撫で続けた。
ふと、控えめに服を摘んでくる彼女に、全身から力が抜けるような、安堵に似た温かな感情が胸に満ちた。
「……やっぱり、そうなんだろうな」
「何が?」
「蘇双殿に触れていると、本当に死にたくなくなる。蘇双殿の隣でもっと生きていたくなる。役に立てずとも、猫族の中に在りたいと思う」
「……うん」
やっぱり、好きなんだろうな、蘇双殿のことが。
……むしろこちらが恥ずかしい。
けれど今の彼女があまりにも嬉しそうで、子供のように安堵しているようで、何も言えなかった。
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