諸葛亮
かったん
こっとん
機織りの音に合わせて、ささやかで愛らしい歌声が狭く質素な部屋の中に響く。
桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼(しゃくしゃく)たる其の華
之(こ)の子 于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
其の室家に宜しからん
桃の夭夭(ようよう)たる
ふんたる其の実有り
之(こ)の子 于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
其の家室に宜しからん
桃の夭夭(ようよう)たる
其の葉 蓁蓁(しんしん)たり
之(こ)の子 于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
其の室人に宜しからん
無邪気な歌声は弾み、曲に合わせることで嘗(かつ)ての四言詩が俄(にわか)に華やいだ。
機織りの女は頭頂で猫の耳を揺らし、紅唇に優しく甘い微笑みを乗せる。伏せ目がちの金の瞳は穏やかに滲み、一糸一糸想いを秘めて絡まって形を為していく織物を見下ろす。
白く細い華奢な手は流れるように動く。手慣れた所作によって、流麗な龍の踊る織物が次第に出来上がっていく。
彼女の背後には、彼女によって生み出された美しい作品が壁に掛けられている。ある物は虎、ある物は蛟(みずち)と、様々な生き物、或いは尊き獣達が生き生きと踊っていた。
見る者を魅了する――――それ程の作品を、彼女は毎日のように織っていた。
三百年もの、長い長い間。
三百年折り続けていた割には、背後に立てかけられている織物の数は非常に少ない。一定量が溜まると、全て燃やしてしまうのだ。
自分が費やした時間ごと廃棄するように。
時間を浪費して作っては燃やし、また新たに作る。そして燃やす。
ずっと、それを繰り返して生活している。
「――――詩経の周南、桃夭(とうよう)ですか」
扉を開けながら青年が入ってくる。女が手を止めて顔を向けると、恭しく拱手して歩み寄った。横から女の織物を見下ろし感嘆の吐息を漏らした。
「相も変わらず、素晴らしい」
「ありがとう、孔明」
ふふ、と小さく笑い彼女は椅子から立ち上がった。孔明と呼ばれて複雑そうな顔をする青年の顔を両手で挟み込み、するりと撫でる。それはさながら、愛し子を愛でる母親だ。それに、青年は不満を露わにした。
「……○○様。私の名前は孔明ではなく」
「諸葛亮、でしたね。でもあなた、昔私の飼っていた犬にとても似ているのだもの」
「……」
○○は諸葛亮を愛おしそうに見つめ、頭を按撫(あんぶ)した。
犬と一緒にされて喜ぶ人間はいない。
しかし、おっとりとした○○はどんなに咎めてものらりくらりとかわしてしまうのだった。そのやり取りすら、楽しんで。
○○は鈴のような笑声を漏らし、諸葛亮から離れた。
「どうかしたの? 孔明」
「……そろそろ出ますので、そのご挨拶に」
「ああ、そうでした。劉表殿がお呼びがかかっているのでしたね」
「はい」
「途中まで送りましょう」そう言って、○○は一足先に玄関へと向かう。
その後ろ、残された諸葛亮の表情など、彼女が気付く筈もなかった。
‡‡‡
○○は劉光と共に金眼を討ち果たした劉軍の一人であり、自由気儘に隠遁生活を送る地仙であり、また諸葛亮の恩人であり、諸葛亮が憧れ愛して止まない異性だった。
幼い頃弟達を連れて這々の体でさまよい歩いていた諸葛亮をたった一晩だけ休ませ、暖かな食事を提供してくれた猫族の地仙。その存在は記憶にくっきりと焼け付き、青年と成長した今でもなお彼女に抱いた羨望も色褪(あ)せることは無かった。
彼女は地仙。世の中と隔絶した山奥の中で誰とも交わること無く数百年暮らし続けた。そんな彼女が諸葛亮達に手を差し伸べたのは、ただの気まぐれだっただろう。
けれどもその優しさも、穏やかな微笑みも、辛い道程で疲れ果てた兄弟にとってはほんの僅かな安らぎとなった。
諸葛亮が○○と再会したのは、偶然だった。
たまたま隠遁するに最適な山を見つけたところ、そこが○○が居を構える山だったのだ。
諸葛亮を一目見るなり、○○は微笑んで『大きくなったわね。辛かったでしょう』と諸葛亮を優しく抱き締めた。その時の嬉しさと言ったら無かった。
以後、地仙である彼女の知識を少しでも吸収したいと同居を願い出、今に至る。
○○は弟達のことも分かっているようだった。一度も、彼らのことを訊いてこない。
彼女は永い時を生きた故、母親のように諸葛亮の面倒を見た。
おっとりとしていて、その実聡い彼女のことだ。諸葛亮の好意にも当然気付いているだろう。けれども現を生きる人間や同族との関わりを持たぬと決めた彼女は、諸葛亮の面倒は見ても、その好意には靡(なび)かなかった。
救いなのは、諸葛亮の想いを拒絶しはしないということだ。
彼女は母親のように接する中で、決して諸葛亮の好意を厳しくも優しくも拒絶しようとはしなかった。愛したまま側にいることを許してくれている。
地仙である以上、この関係は絶対に変わるまい。
だからこそ、諸葛亮は現状で十分だと言い聞かせた。拒絶され、追い出されるよりはもっとましだ。
愛する女性の側で、その歌を聴き、その微笑みを見、その体温を感じられるだけでも、とても幸せなことだ。そう、高望みする強欲な己を押し殺す。
「さあ、行ってらっしゃい。孔明」
戸口の前に立って、○○は「気を付けてね」と襟を正してやる。
「……行って参ります」
「劉光様のご子孫によろしくね」
「え?」
突然の言葉に面食らう諸葛亮に、○○はいつもの微笑みで頭を撫で、問いを掛ける暇も与えずに家の中に入っていった。
諸葛亮は怪訝に思いつつ、後にする。
数日後、猫族と共に博望坡へ発つことになるなど、この時の彼には予想だにしなかった。
‡‡‡
「明日、博望坡に発ちます。猫族と共に」
寂しそうな顔でそう告げた諸葛亮に、○○は静かに頷いてみせた。
こうなることは数日前から分かっていたことだから、平然と笑顔で受け入れた。
これも時の定め。抗うべくもない。
本当は彼は○○も来て欲しかったのだろう。自覚している以上に、諸葛亮は○○に入れ込んでいるから。
しかし○○は地仙。人の世に関わらぬと決めた存在だ。
嘗て共に剣と劉の旗をを掲げた劉光の子孫であろうと、人の世に救いの手を差し伸べることはしない。
これが、本当に最後だった。
「行ってらっしゃい。《諸葛亮》」
「……!」
諸葛亮が目を見開く。叡智を湛えた瞳に宿るのは歓喜だ。それでも表に出すまいと唇を引き結ぶ様は可愛らしいし――――《愛おしい》。
○○は諸葛亮に折り畳んだ外套を手渡した。○○が織った物だ。
「これをお持ちなさい。寒くても、これがあれば大丈夫」
「……ありがとうございます」
諸葛亮の声は感情を押し殺さんとするあまりにひきつっている。
それに気付かぬフリをして○○は手の甲で頬を撫でた。
「辛くなったら、いつでもお戻りなさいな。また、美味しい料理を作ってあげましょう」
劉光様のご子孫を、頼みます。
諸葛亮は○○の手に己のそれを重ね、軽く握る。頬から離して甲に口付けた。
窘(たしな)めるように名を呼ぶと、彼は謝罪と共に○○の身体を抱き締める。
「○○様。どうか……お元気で」
「あなたも、乱世に押し潰されることの無きよう」
「はい」
諸葛亮はそれから暫くその状態を保ち、そっと解放した。拱手して、発つ。
○○はそれを微笑みで見送り、見えなくなったところで囁いた。
「さようなら。……私の愛してしまった、脆弱な人の子よ」
ほんの一時だけでも、家を甘やかにしてくれてありがとう。
胸に手を当て彼女は願う。
同志の子孫と旅立つ彼の無事を、心から。
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