曹操





 恨みは無い。
 あるのは劣等感だけ。

 まるで沼の中に落ちたかのようにこの身を包む重いそれは、ずっと、ずっと、ずっと、私を苛んだ。

 どんなに手足を動かしても浮上することは無い。半永久的に私は劣等感からは逃れられないのだ。


 《○○》がいる限り――――……。




‡‡‡




「○○。どうした」


 曹操の問いかけに、窓辺でぼんやりと曇天を見上げていた少女は、ゆっくりと首を巡らせて瞬きした。こてんと首を傾げた彼女は薄く口を開き、数度開閉して口元に軽く握った拳を置いた。思案する素振りを見せる。
 ややあって、


「……どうして、君がいるんだい?」

「ここは私の私室だ。お前が勝手に来たのだろう」


 眉間に皺を寄せてやや責めるように告げる部屋の主に、○○は暫し沈黙した後納得した風情で眉を上げた。


「……そう言えば、そうだったね。適当な部屋で寝ようと思ってたら、たまたま君の部屋に行き着いたんだっけ」

「『適当に』で選ばれては迷惑なのだがな」

「そう言いつつ、追い出そうとしていないじゃないか、君」


 それは、恋人だからだ。
 恋人であるが故、彼は自由気儘な性分を誰よりも理解していた。

 話をしているかと思えば途中で思考が何処かに旅立っている。
 隣を歩いているかと思えば途中で何処かに姿を眩ましている。
 食事を摂っているかと思えば途中で何故か昏々と眠っている。
 鍛錬をしているかと思えば途中で何かの虫を追いかけている。

 どんなことがあろうとも○○は悉(ことごと)く自分本位で、思考そのものが謎だった。

 そんな彼女だからこそ、十三支を蔑視する人間も面と向かって悪口を垂れぬし、自ら彼女と接触しようともしない。
 そういった存在にどうして一目惚れをしたのか……曹操自身、謎である。


「○○。鍛錬はもう良いのか」

「……」

「……」

「……あ」


 ……途中で、何かを見つけたか何かで鍛錬を止めたようだ。この反応で曹操の部屋に入り浸っているということは、今の今まで鍛錬のことをすっかり忘れていたらしい。相変わらずの自由さだ。
 曹操は歎息し、席を立った。

 悪びれた風も無く欠伸する○○に歩み寄り、ふんわりと波打ち綿毛のように柔らかく繊細な髪に触れた。指先で軽く梳(す)く。
 ○○は不思議そうに曹操を見上げた。

 彼女の丸い小顔は、曹操の片手にすっぽりと収まってしまう。可愛らしいかんばせは、曹操を惹き付けた愛くるしい面立ちだった。
 歩いている姿を見た時はこれよりも凛々しい姿だったように思うが、どうしてか今の彼女は間抜けだ。とても、あの○○と同一人物だとは思えない。

 けれども何処からどう見ても曹操が惚れた娘だ。間違い無い。
 確かめるように片手で頬を撫で、顎、口に触れる。


「んー?」

「……いや、何でもない。ここに居座るなら茶を淹れさせよう」


 ○○から離れると、彼女は立ち上がって曹操の腰に腕を回した。爪先立ちになって曹操の下唇を舌で舐めた。口付けというよりは、子犬がじゃれたかのような、無邪気な悪戯だった。
 だが、これが彼女にとっての口付けなのだった。何度も何度もしている筈なのに、変えようとはしない。

 曹操は苦笑をこぼし、○○の顎を掴んで噛みつくように唇を合わせた。薄く開いた隙間からするりと舌を入れ込むと、○○も自ら絡ませてきた。純朴な見目をしていながら、従順に曹操から与えられる淫らな刺激を受け入れる。従僕故に素直であり、素直故に曹操の性的な欲求すらも享受(きょうじゅ)する。

 長く、曹操の気が済むまで口付けを堪能した○○は、口端から垂れた唾液を袖で拭い、曹操の横を通り抜けた。


「思い出したから鍛錬に行ってくる」

「そうか。夏侯惇に絞られるぞ」

「夏侯惇は弱いから平気」


 さらりと、彼の神経を逆撫でする言葉を言って退ける。
 果て無く心任せな恋人に、曹操は苦笑を消せない。されど彼女の代名詞とも言えるその勝手気儘な性格が愛おしく感じられるのも、また事実。

 曹操は○○を呼び止め、振り返ろうとしたふわふわの頭を片手で押さえてうなじに吸いついた。こんなもの、○○にとっては悪戯程度にもならないが、何となく何かを仕掛けたかった。


「ではな」

「うん。じゃあね」


 ○○は珍しくうっすらと口角をつり上げて、曹操に笑いかけた。



‡‡‡




「っぁが……う゛ぅ……っ」


 死の苦悶に喘ぐ○○を見下ろし、少女は皮肉げに笑んだ。

 今足下で悶える○○は、わたしと同じ顔をしている。
 だからきっと、わたしが死ぬ時もこんな感じなんだろう。

 でもね……わたしと私じゃ違うのよ。

 少女は嗤(わら)ったまま、○○の傍らに屈み込む。
 ○○は責めるように、嘆くように、見開いた目を少女へ向ける。


「何、で……?」

「何で? ……そっか。やっぱり○○には分からないよね。○○は満ち足りていたから、わたしのことなんてどうでも良かったんでしょうね」


 いつもいつもいっつもそう。
 わたしはいつも独り。でも○○の側には色んな仲間達がいた。
 わたしは誰にも見向きもされなかった。不可思議な性格の○○だけが愛され、守られた。

 わたしと同じ姿、声をしているくせに。

 どうしてこんなに違っているのよ。


「わたしね、物心付いた時から、あなたのこと……大っ嫌いだった」


 あなたがいるとね、わたしはずっと沼の中なの。窒息して死ねたら楽だろうに、ただただ気味の悪い臭い泥土に包まれて生き続けなくてはいけないの。どんなに足掻いても、どんなに口を開けても無駄。沼の泥土が邪魔するの。
 あなたが消えればわたしは楽になれる。沼の外に出られるの。汚い泥土を清らかな水で洗い流せるの。


「……わたしね、好きな人が出来たの。でもあなたがいるからきっと彼もあなたに奪われてしまうでしょう。ずっとずっとそうだったから。○○はわたしから何もかもを奪っていく。そして我が物顔で所持するのよね。だから大嫌いなの」


 わたしよりも弱いくせに。
 わたしがいつも助けてあげていたのに、わたしから何もかもを盗んで、自分の物にして。
 なんて、憎らしい子なんだろう。

 ぜえぜえと弱まっていく○○の呼吸。絶命は近い。
 足下で、唯一の肉親にして己の片割れが死んでいく。
 ……嗚呼、嬉しい。
 胸中に花が咲いたような心地だった。解放される。これでわたしは解放される。


「ねえ、○○。あなたがわたしから奪った物は返ってこない。なら、返さなくても良いわ」


――――わたしが○○になるから。
 少女は己の得物をゆっくりと持ち上げ、咽元に押し当てる。

 ○○は少女を見上げ、目を細める。唇を動かし、必死に何かを訴える。力無い掠れた声は少女が聞きたくない言葉を乗せた。


「さようなら。《私》の可愛い、《真面目すぎて融通の利かない双子の姉》」


 大丈夫。上手くやるから。
 ○○(いもうと)に言い聞かせるように、少女(あね)は語りかける。
 そして――――。


 得物を下へ押し込んだ。



 少女は双子の妹を殺した。

 そしてわたしは私となり。

 偽りの生を清々しい足取りで歩んでいく。




‡‡‡




 人の道理を犯したとて構わない。
 あの人まで奪われるくらいなら、殺してしまった方がまし。
 わたしはもう、奪われることに疲れ果てた。何もかもを失うことに疲れ果てた。

 わたしは、曹操を心から愛している。
 だからあいつにだけは絶対に奪われたくなかった。

 戦場で敵兵の手に掛かったと偽って殺し、成り代わったことを一切後悔していない。むしろ達成感を感じる。生まれて初めて大事なものを守れたと誇らしい。

 最低だと罵れば良い。
 人でなしだと罵れば良い。
 どうせ他人には、分からない。

 全てを奪われた時の、《わたし》が砂のように掌からこぼれ落ちていく恐ろしく空虚な感覚など、誰にも理解されないだろう。

 わたしは、○○。
 死ぬまで○○。

 結局は○○に全てを奪われ敗北する選択肢だったとしても、一生この偽りの生を守り抜いていく。
 今となってはもうわたしが○○なのだ。全てわたしのもとに戻ってきた。誰にも疑われること無く。取り返すことが出来た。
 守ってみせる。必ず。



 偏(ひとえ)に、わたしの愛するたった一つの宝物を繋ぎ止めておく為に。
 大きな過ちを犯したわたしは、もう何をするにも躊躇うことは無いのだ。



































「……ごめん、ね……お姉ちゃ、」

52/68
prev top next
template by crocus