張蘇双
「ねーちゃん。そろそろ行くってよ」
「あ、うん。もう少し待ってて」
荷の再調整をしていた私は、部屋に入ってきた弟を振り返らず、そう返した。
てきぱきと済ませて持ち上げようとすると、横合いからさっと奪われてしまう。
「あ、張飛」
「オレが持ってくって。生き物以外の魂って、あんまりよく見えねえんだろ? それに、あんまり体力無えんだし」
「……ありがとう」
双子の弟の気遣いに、私は口角を弛めて素直に甘えた。自分が運動音痴なのは自覚している。特に《こんな目》になってからは、頼れる部分はこの双子の弟に頼るようにしていた。
「あ……あと、隊列の後ろには行くなよ。曹操はもしかしたらねーちゃんも欲しがってるかもしれねーし」
「欲しがられるような力は無いと思うんだけどね」
私は目元を押さえ、曖昧に笑った。
私の目は光を受け付けない。
けれど代わりに周囲の――――前後左右の魂が上から見たように頭の中に映し出される。その魂の形や雰囲気でそれぞれ誰なのか認識することが出来た。
元々は普通の両目と何ら変わらなかった私の目がこんな風になったのは、ある事件がきっかけだ。
たまたま、本当にたままだった。
まだ物心ついたばかりの頃。夜中一人目を覚ました私は、両親の姿が無い家の中に嫌な予感を覚えた。嫌に胸が騒いで、じっとなんてしてられなかった。隣に眠る双子の弟をそのままにして、両親を捜しに出かけた。
その夜の肌を刺すような冷たさは今でも覚えている。
両親の悲鳴のような声が聞こえたのは、劉備様の家だった。
がしゃん、がごん、と騒々しい物音が聞こえるその家に嫌な予感は強さを増した。
引き戸をゆっくりと開けて中を覗き込んだ私の視界を埋め尽くしたのは、鮮烈な赤。沢山の赤い液体。
衝撃のあまりに私はすぐには状況を理解出来なかった。血溜まりの真ん中に立つ白い子供と、その周りに伏す複数の大人。その全てが自分の知り合いだと分かった私は、家の中に飛び込んだ。血を跳ねさせて駆け、両親の無惨な遺体に縋りついた。
そして、見てしまったのだ。
白の子供――――劉備様を取り巻く真っ黒な、泥のような不穏なモノに。
それは両親の遺体にも絡みついていてそれを辿った先が劉備様だったのだ。まるで生き物のように、沢山の触手をうねらせて劉備様を包んでいるそれは、とても恐ろしかった。どうして劉備様にまとわりついているのか、どうして、どうして、どうして――――私の頭は、ぐちゃぐちゃだた。
それを見ていると誰かの濃密な怨嗟(えんさ)が伝わってくるような気がして、頭がおかしくなってしまいそうだった。
でも目が離せないのは、その中に立つ劉備様が恐怖しきった顔で泣いていたからだろう。
助けなくちゃ、と思ったのは奇跡だ。
ふらりと立ち上がって劉備様に歩み寄った私は、考え無しに手を伸ばした。どす黒いそれに手が触れてしまったのは、当然のこと。
直後に感じられたのは、指先から何か異物が入り込んでくる不快感と痛み。その後に、幕が下ろされたように私の視界は真っ暗になった。
私は光を失ってしまったのだ。
世平さんに助けられて家から運び出されても、夜が明けても、私の目が元に戻ることは無かった。
以来突然こうなってしまったと世平さんと口裏を合わせて皆に助けてもらいながら過ごしている。
劉備様があの日のことを覚えていないのは、幸いだった。その年で自覚していたら、幼くて優しい彼は壊れてしまう。出来れば、ずっと忘れていて欲しかった。多分、殺された両親も劉備様を怒ってはいないと思うから。
ただ自分を中心に広範囲の魂を上からの目線で見下ろしたような視界であるだけだから、さほど戸惑いは無かったし――――この点は誰にも理解されないけれど――――慣れてしまえば気にはならない。範囲は今では狭めることが出来るけれど、最大では幽州の隠れ里よりも広かった。今は、もっと広めることが出来るのかもしれないけど、試そうとは思っていない。普通に見えれば十分だから。
けれど、曹操が私に目を付けたのは目自体ではない。私がこの目で曹操の魂から得た情報が原因だった。
曹操と相見えた時、私は彼が人間でないことを知ってしまったんだ。
関羽と性質の似た魂を、彼が持っているって。
これは私でしか分からないのだけれど、劉備様がまとっていたような黒いモノに歪められた猫族の魂と人間の魂は全然違う。その中間の魂を持つ混血の関羽と、曹操の魂は良く似ていた。
だから、本人を目の前に言ってしまったのだ。混血、だって。
運良く私の側にいた張飛には夏侯惇との言い争いに夢中で聞こえていなかったけれど、曹操にははっきりと聞こえたみたいで、以来私は命を狙われているんだと思う。知られたくない情報だろうから、消しておきたい筈だ。
だから、曹操は猫族を捕獲する騒動の中で、私を殺してしまうかもしれない。
「……蘇双が一緒にいると思うから、何かあったら蘇双に言えよ」
「何から何までありがとう、張飛」
蘇双は張飛並に私の世話を焼いてくれる、恋人だ。といってもこんな状況じゃそれらしくは出来ない。むしろ、しては駄目だって暗黙のうちに決めてる。
けれど恋人らしいことをしない代わりに、彼は男らしく私を守ろうとしてくれる。
そこには世平さんが亡くなってから少し雰囲気の変わった張飛が、あれこれ動けるようにって言う配慮もあるんだろう。
張飛が師匠でもある世平さんの代わりになろうとしているのは、私も分かっていた。無理はしないで欲しい反面、そんな弟を頼もしいとも感じていた。
「行こうぜ、ねーちゃん」
「うん」
‡‡‡
江陵に向かって歩み始めた猫族と新野の民。長蛇の列を成した彼らの歩みは、やはり遅い。
どれくらいの日数がかかるか分からない。江陵に辿り着く前に曹操に追いつかれて全滅……なんて可能性の方が高いだろう。
でも、劉備様はそれでも新野の民を見捨てなかった。あの方は、本当に優しいお方だから。
出来れば、このまま一生あのことを忘れていれば良い。今、苦しみながらも長として私達の為に頑張っている彼を傷つけてしまう。
ほうと吐息をこぼすと、隣の蘇双の魂が揺らいだ。ああ、身体の向きを変えたんだ。
「○○、疲れた?」
「ううん。このまま曹操軍に追いつかれずに江陵に着ければ良いなって思って」
誤魔化す。
あの時のことは、私と世平さんだけの秘密だ。
張飛は勿論、蘇双や関定にも絶対に明かせない。
だって――――あの時彼らの両親も殺されてしまったのだから。
知ってしまえば彼らは劉備様を恨んでしまうかもしれない。私は劉備様のあの時のお顔を見ているから、そんなことは絶対に避けたかった。それに、張飛や蘇双が誰かを恨むなんて姿も見たくはない。出来れば猫族皆、いつまでも仲良くしてもらいたい。でなきゃ、世平さんのしたことが無駄になってしまうもの。
劉備様のことや、曹操のことを皆に隠しておくのはとても辛い。でも、これも劉備様だけじゃなく皆の為でもあるのだ。
「暫く進んだら、範囲を広げて見てみようか」
「止めときなよ。この間広げたら疲れてたじゃないか」
「……あ、そう言えば」
そんなこともあったね。
そう言うと、隣で嘆息。
「何よ、私だって色々大変だったんだから仕方ないじゃない」
「分かってるよ。でも、さすがにそれは使わなくて良いから。何の為に張飛達が後ろにいると思ってるの」
「護衛」
「見張りも兼ねているんだって」
ぱしん、と頭を叩かれる。
「張飛と違って○○は普通の女の子なんだから、そこまで気を使う必要は無いから」
「えぇー。弟の力になりたいと思うのがお姉さんでしょう?」
「微力すぎる」
「わあ酷い」
「本当のことでしょ」
「君は私を何だと思っているのかね」
「軟弱運動音痴」
「なんと言うことだ、否定が出来ない」
途中から軽口の応酬になり終いには二人揃って噴き出した。
蘇双を呼んで手を少しだけ蘇双に寄せれば、ややあって握ってくれる。その軽い力がとても愛おしかった。
――――もし、曹操軍に追いつかれたら。曹操に私が殺されるとなったら。
蘇双は私を守ろうとしてくれるだろう。足手まといにしかならない私を庇って、傷ついてしまうだろう。
それを思うと後ろめたい。皆の為だって分かっているけれど……胸が痛む。
そうならないことを、心から祈った。
「○○? さっきから様子がおかしいけど……まさか体調が、」
「あ、ううん。大丈夫。最近目まぐるしいから、どうも色んな考えがぐちゃぐちゃになってるだけだと思う」
へへ、と小さく笑う。
すると蘇双は、ぎゅっと手を握って私を呼ぶ。
「……何となく思っていたんだけど、さ」
「うん?」
「劉備様があの姿になってから、何か様子がおかしいよね、○○。ボク達をじっと見つめていたかと思えば、劉備様を見て泣きそうになってたり」
……ああ、確かに。その覚えはある。
私は間延びした声を上げた。
劉備様があの姿になられてから、私は正直不安を感じている。
彼が思い出してしまうのではないか。
自分からその事実を明かしてしまうのではないか。
そして――――私にとって最悪の状態になってしまうのではないか。
そう思うと、気が気でなかった。その度にそれは杞憂だって言い聞かせて、確証も無い『大丈夫』を繰り返す。
私は胸を押さえ、目を伏せた。
「……劉備様が突然あんな姿になって、一人で私達の為になることを考えておられて……関羽程じゃないんだけど、心配なのよ」
嘘とも言えないことを言ってその場を切り抜ける。
今、彼は心配そうな顔をしているだろう。……といっても、私の視界では酷く漠然とした、俯瞰(ふかん)のものでしかないから、想像でしかない。相手の表情の変化が分からないのは、この目の大きな欠点だ。
「……何かあったら、隠さずに言いなよ」
「うん。ありがとう」
蘇双は優しい。
張飛も優しい。
皆みんな、優しい。
「蘇双、ごめんね」
「良いよ。これくらいのことしか出来ないし」
ぎゅうっと握り締めれば、同じくらいの力を込めてくれる。
嗚呼、やっぱり好きだなあ、この男の子のこと。
好きだからこそ、隠し事をしている胸が痛い。
ごめんね、蘇双。張飛。関定。
心の中で謝罪して、私は笑顔を取り繕った。
あの日のことが一生隠されたままで良い。
私は独り、そう願う。
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