諸葛亮





 気付けばいなくなっていた幽谷が、夜中にびしょ濡れになって戻ってきたのには多少なりとも驚いた。
 何が遭ったのかと問えば、新野の民の分の水が足りないからと少し離れた小山の川から水を汲んでいたところ、鹿にじゃれつかれて共に飛び込む羽目になってしまったという。
 動物に好かれるのは分かっているが、その動物に対して鷹揚でいる幽谷には呆れを通り越して何も思わなくなった。戦場では誰よりも凛々しく、一騎当千と謳っても遜色無い活躍を見せるというのに、己のことに関して彼女は抜けていた。

 普段彼女の世話を焼くのは恒浪牙か兄の周泰の筈だが……生憎と前者は急病人の対応、後者は周囲の見回りに出ている為にここにはないない。

 二人がいないこの場、一番に気付いたのが諸葛亮で良かったのかもしれなかった。


「術はどうした」

「札が濡れてしまって、使い物にならず」

「……取り敢えず、来い」

「いえ、数度汲みに行くつもりですので。このまま」


 その姿でか。
 正直、篝火(かがりび)に照らされた幽谷は目も当てられない様相だった。
 水分を含んでいつも以上に艶めく黒髪が顔に張り付き、そこから流れ落ちる水が顎へと伝い落ちて落ちていく。或いは首筋を流れた。衣服は肌にぴたりと密着し、場所によっては肌がうっすらと透けている。幸いなのは、胸を覆う服の下に黒い布がちゃんと仕込まれていた点だろうか。おかげで一番際疾い部分は守られている。
 長身なれど、女性としての魅力を十分備えた彼女がずぶ濡れであることは、視覚的な暴力だった。

 これを周瑜が見たら……想像するだに面倒臭い。
 良いから来いと腕を掴んで己の天幕に連れ込んだ諸葛亮は外套を投げつけた。困惑する彼女に無理矢理被せ、火の側に座らせる。


「外套を着たまま脱げ。絶対に肌を出すな。良いな。脱いだ後はこの中で乾かしておけ。火の側なら、多少は水が飛ぶだろう」

「……それでは非常に着替えにくいのですが」

「良いから、私が一旦外に出ている間にさっさと済ませろ。良いな?」


 幽谷は難色を示した。首元を締めておく麻紐だけで打ち合わせの部分を留める留め具の無い外套の下で、肌を晒さないようにしながら脱ぐのが難しいのは重々承知している。が、天幕を出るとは言え、側に男がいる状況下で多少の警戒心くらい持って欲しい。
 脱げと言っても恥ずかしがる素振りの無かった幽谷に、頭痛を覚える。


「良いか、幽谷。外に出るとは言えども私という男が近くにいることに変わりは無い。異性に対する恥じらいと警戒を持て」

「しかし、こちらが見えない人物に警戒しても無意味では?」


 それでも警戒をしろと言っているのだ。
 諸葛亮は困惑顔の幽谷に溜息を禁じ得ない。


「……お前を諭すのは関羽以上に苛立つ」

「……申し訳ありません」

「私が言いたいことを理解してもいないのに謝るな」

「……すいま――――はい」


 また、溜息が漏れた。



‡‡‡




 外に出ると丁度周泰が報告に現れた。
 彼は天幕を見、諸葛亮を見下ろす。


「幽谷が中に?」

「ああ。水汲みに赴いて、動物にじゃれつかれ川に落下したそうだ。目のやりどころに困る姿で戻ってきたぞ」


 責めるように周泰を睨め上げると、彼は頭を下げた。


「周瑜のような露骨な人間でなければ、仲間であるからと警戒はしない故」

「……あいつで警戒を抱くのなら、ほとんどの人間は警戒されないだろうな」


 周泰は無言で首肯し同意を示す。周囲を見渡す素振りを見せた。隻眼を細めると諸葛亮に拱手する。


「幽谷のことを頼みます」

「何処へ行く」

「危険分子を抑えてきます」


 それが誰を示すのか、すぐに分かった。近くにいるのだろう。

 もし全裸の幽谷が諸葛亮の天幕の中にいると危険分子に知られれば、一番厄介だ。騒ぎ立てて天幕に乗り込みかねない。そうなった時、幽谷がどのような行動に移るか目に見えていた。
 嗚呼、面倒臭い。もっと別のことを考えていなければならぬのに、煩わしいことだ。

 周泰は幽谷に渡すようにと一枚の札を諸葛亮に渡し、足早に右へと歩き出した。

 周泰が立ち去って暫くした後、諸葛亮は中に声をかけた。構わないとの返答を受けて中に入る。
 幽谷は打ち合わせをしっかりと掴んで火の側に端座していた。服は干す場所が無かった為に木箱の上に置いてある。

 周泰から手渡された札を与えると、幽谷は諸葛亮に礼を言って腰を上げた。大股に服へ歩み寄って服の上で札を持つ手を左右に数回振る。
 すると、服は瞬く間に湯気が立ち、含んだ水分が蒸発していくではないか。

 諸葛亮はその様を興味深く見つめる。
 四霊とはなかなかに面白い存在だった。
 恒浪牙の話では、幽谷達は方術と認識しているが、実際似て非なる物らしい。故に彼は幽谷達の持つ札を、符とは言わずにそのまま札と言う。類が違うだけで効力は非常によく似ているので、別に方術と思っていても問題は無いという話だ。そもそも、徒人(ただびと)に違いを説明されたとしても分かる筈もない。恒浪牙自身も思い出したから話した程度で、この違いはどうでも良いらしい。

 乾いたかどうかを確認していた幽谷は眉間に皺を寄せて元の場所に戻した。


「乾いていないのか」

「少しだけです。自分の物でない札を使うと、威力は半分近くまで下がりますから。まだうっすらと湿っています」

「そうか」


 使用する人間でも威力は左右するのか。
 心の中で呟き、「ならばそのままそこに置いておけ」と命じた。


「しかし、ご迷惑では」

「今夜はここで寝ろ。その見苦しい姿を晒すな。それで騒がれる方が迷惑だ」


 突っ慳貪に言い、自らも火の側に座る。
 幽谷は怖ず怖ずと言った体(てい)でその向かい側に腰を下ろした。その際打ち合わせから片膝が出、臍の部分まで見えた。咄嗟に目を逸らす。打ち合わせを掴んではいるものの、些細な動作で見えてしまう。腹などいつも露出している部分であるのに、全裸だと知っているから見て気恥ずかしいく思えてしまう。

 諸葛亮は後ろの木箱から掛け布を取り出し、幽谷に手渡した。


「今日はもう寝ろ。明日も行軍は続く。早くに発つぞ」

「分かりました。……が、これは不要です」

「良い。黙って受け取っておけ。もう一枚はある」


 そう言い聞かせて、視線で促す。

 幽谷は暫く渋っていたものの、諸葛亮が妥協しないと分かると大人しく布を被って横になった。素肌に仕立ての悪い外套の感触は気持ち悪いだろうが、仕方がない。ここには手触りが良くて幽谷の身体を隠せる物は無い。掛け布も、ぎりぎり胴体を覆える程度の大きさだ。
 新野城を出る際必要な物は食料や水以外使い古した粗末な襤褸(ぼろ)まで出来るだけ集めた。その時の、唯一破けた掛け布を諸葛亮が自分の寝具にしたのだった。

 火を消し、幽谷が寝静まるの待って自分も横になる。寝たフリをして耳をそばだてた。



‡‡‡




 沈黙した幽谷に、諸葛亮は身を起こす。己にかけた掛け布を取って音も無く歩み寄る。
 胴体にかけた布の下にそれをかけ、寝返りで外套からはみ出た太腿を隠す。暗がりでも、すらりとした足は確認出来た。際疾い部分まで露出している。

 人間は寝る以上寝返りは必ず打つ。それは身体の血の巡りを保つ為に重要な行動であり、ごく自然な現象だった。だからこうなるのも仕方がない――――のだけれど。
 やはり、妙齢の女性の際疾い姿は目に悪い。
 嘆息を漏らしてはっとする。今ので起きてしまわないだろうかと幽谷の様子を窺った。

 が、彼女が起きる気配は無い。眠りは浅い方だと思っていただけに意外だった。
 胸を撫で降ろして元の場所に横になる。今宵は肌寒い。けども自分は幽谷よりも服を着込んでいる。身体を壊すことも無いだろう。

 目を伏せて暫くそのままでいると、睡魔は程無く諸葛亮にも食指を伸ばす。
 微睡み始めた意識は茫漠とぼやけていき、やがて全身から力を奪う。
 完全に意識が睡魔に抱き込まれる直前、背中に何かが触れたような気がしたが、それを見ることは出来なかった。



‡‡‡




 未だ日も登り切らぬ頃。
 幽谷は瞼を押し上げて身を起こした。
 背後の諸葛亮を見下ろして掛け布をかけ直してやる。

 諸葛亮が己の掛け布を幽谷に与えてくれたのにも気付いていた。諸葛亮が身を起こした時点で、彼女は目を覚ましていたのだ。けれど起きれば寝ろと言われるだろうからと寝たフリを貫き諸葛亮の動向を窺っていた。正直、騙されてくれるとは思わなかった。
 掛け布を幽谷にかけた後、自らも就寝した諸葛亮を観察し、完全に眠り込んだのを確認して寄り添って寝たのだった。

 肌寒い時、狐狸一族は身を寄せ合って眠る。大男ばかりだから寝返りで潰されないように周泰に抱き込んでもらうが、あれはとても暖かいし半年前に入ったばかりの自分も一族としてちゃんと認識してもらえているようで安心出来た。
 だから諸葛亮に寄り添って眠ったのだけれど、あまりぴったりと寄り添うのは駄目だろうと、二枚の掛け布を自分と諸葛亮にかけて背中だけくっつけた。少しは、寒くなくなっただろうか。

 幽谷は諸葛亮を起こさぬように離れ、外套を脱いだ。全裸になっててきぱきと服を着ていく。これで諸葛亮が起きれば叱りつけられるが、些細な物音を建てても彼に起きる気配は無かった。彼自身、身体も頭も休み無く使っているから疲労がたまっているのだろう。
 着替えを終えた彼女は諸葛亮の側に膝をつき、その寝顔を覗き込む。

 いつも涼しい顔だが、やはり寝顔も涼しげだ。
 整った眉目を眺めながら、幽谷は緩く瞬きする。

 そして、囁いた。


「ありがとうございました」


 拱手し、立ち上がる。音を立てぬように歩き天幕を後にした。



⇒後書き

3/68
prev top next
template by crocus