劉備


※注意



 長閑(のどか)だ。誰もいないし、何も無い。あるのは赤だけだ。

 真っ赤。何もかもが真っ赤。
 濃密な鉄の臭いしか無い、ほんの昨日までは平々凡々な何処にでもある村だった場所。
 朝方、この村は死んだ。

 死して沈黙し、別の意味の長閑な――――静かで穏やかな村になった。

 この有様を凄惨と人は言うのだろう。
 けれども私はその光景に何の感慨も浮かばなかった。
 感情を持つ程の思い入れはないのだ、この村に。
 両手を拘束する鉄の枷を鳴らし、私は血溜まりに足を落とした。ぺしゃり、飛び散る。

 嗚呼、静かだ。
 落ち着く。
 誰も私の暴言を吐かない。
 誰も私に暴力を振るわない。
 誰も私を十三支と蔑まない。
 誰も、誰も、誰も――――私を厭(いと)う村は死んだのだ。
 安堵に笑んだ私を、《彼》が見たらどう思うだろう。

 夢の中でだけ会える、名前も知らないあの真っ白な彼は。
 笑うだろうか。
 泣くだろうか。
 怒るだろうか。
 嫌われるのは、嫌だな。

 会いたいな。実物に。
 けれど彼が何処にいるのか、この世に存在しているのかすら分からない相手を捜す術は、私には分からない。
 さあ、これからどうしよう。


「……そうだわ」


 私……何で気付かなかったんだろう。
 村を出ていく前に、枷を外しておかないと。



‡‡‡




 あれから一年。
 私は呉、柴桑にいる。

 耳を切り落として人間に紛れて生活するのにももう慣れきって、バレるか危惧することもほとんど無くなった。人間は蔑んでこなければどうでも良い存在だ。勿論ここで軋轢(あつれき)無く暮らしていく為にそれなりに愛想は振りまくが、信用もすることは無い。
 他者を信用する必要性を、全然感じないから。

 稀(まれ)にこの土地に居ついているらしい同族の男から言い寄られることもあるが、信用していないから自分の正体を明かすことはしない。よしや悟られているとしても、だ。

 そんな風に淡泊な生活を送る私でも、ささやかだけど夢はある。
 まだ夢に見る白い同族の男の子に会いたいのだ。
 今まで私よりも背が低かった筈の彼は、先月の終わりに突如として成長した姿で現れた。
 私よりもうんと高い身長に、大人びた顔つき、何か堅い決意を秘めた金色の瞳――――先日の夜までは少年だったのが突然青年になって、心底驚いた。
 話すことも出来ない、ただただ対峙するだけの夢だけれど、そんな他愛ない夢に私の心は救われた。村で獣のように飼い殺しにされ、鬱憤の捌け口にされるだけの苦しい毎日の中で、何もしてこない、私に微笑んでくるだけの彼との一時が私にとっての安らぎだった。

 もしも彼が存在しているなら、いつか会いたい。会って何をするかは分からないけれど、それでも彼に会いたかった。


「○○。お早う」

「お早うございます、今日もご苦労様です」


 私の家の戸口横に立っていた近所に住む青年――――私に良く話しかけてくる人間の名前は覚えているが、基本的には私はあまり呼ばない――――に気安く挨拶され、私は頭を下げて愛想笑いをした。
 この人は、私を好色の目で見ている。前に良い魚が入ったとかで人の家に勝手に入って来たウザったい人だ。どうやら恋をする人間は何をしても許されるなんてふざけた思考を持っているらしい。

 同族の……周瑜、と言っただろうか、あいつよりもしつこくて気持ち悪い。

 白い彼以外の生き物に興味は無かった。
 話を続けようとしてくる青年に私は仕事に早く行かなければならないからと断って急いで私が働く宿屋へと向かった。

 最近頓(とみ)にしつこくなっているような気がする。戦の気運が高まっているらしいのに、まったくお目出度(めでた)い頭だ。今お城じゃ猫族が同盟を結びに来ているって噂もあるのに。
 私は嘆息し、宿屋へ向かった。

 私の仕事は主に宿屋の食堂の給仕だ。夕方まで働き、合間に足りなくなった食材を買い出しに行くこともある。宿屋の盛況振りは、まあまあと言ったところだ。泊まる客もそれなりに多いが、地域に愛されている食堂という認識の方が濃い。
 店に着いてすぐ、私は宿の主人に使いを頼まれた。どうやら仕入れで手違いがあったらしい。足りない分を新しく仕入れに行って欲しいとのことだった。

 見た目に反して力の強い私だから頼まれたんだろう。多分、相当な量になる筈だ。
 私は嫌な顔をせず、二つ返事で了承した。いつものことだもの。

 それを落とさないように持って道を急いだ。
 宿屋から食物を仕入れてくれる店は近い。急げばすぐに往復出来る距離だった。

 私は駆け足で店主に声をかけた。
 肌がこんがりと焼けたがたいの良い彼は、丁度手違いに気付いて届けようとしていたところだったらしい。丁度良かったと謝罪と共に喜ばれた。手違いのお詫びに一割程お金を返却された。


「ほら、これが足りない分だ。……でも、○○さんでも持って行くのは難しいかな」

「いえ、これくらいなら大丈夫です。麻袋は後程お返しに参りますね」

「暇な時で良いよ。それよりも主人に申し訳なかったと伝えておくれ」


 日の光に照らされる坊主頭を撫でながら、店主は笑う。
 私も苦笑して頷き、頭を下げた。

 足早に戻ろうとして、雑踏の中に見慣れた姿を見つけて辟易した。
 あの青年だ。つけたのか。親から結婚を急かされているらしいけれど、本当に、しつこい。
 私は露骨に顔を歪め人並みに隠れてその場を離れた。

 すると店主さんが彼に気付いたらしく、声をかける。最近知ったが、彼とは顔見知りのようだ。
 この隙に私は急いだ。

――――けれども。


 どんっ。


「あっ」


 私としたことが、誰かとぶつかってしまった。予想外のことで大量の食材が入った麻袋を取り落としてしまい、ふんばれずに尻餅をつく。


「……っ!」

「すみません、大丈夫でしたか」

「だ、大丈夫で――――」


――――す。
 最後の一文字だけが言えなかった。

 顔をしかめながら仰いだのは、白。見慣れて、そして求めていた白銀だ。

 一瞬、目の前が弾けたような感覚に襲われて私は眩暈がした。何とか腕に力を込めて倒れるまでは行かなかったけれど、それくらいの衝撃だった。


「あ、なた……」


 夢の彼だ。
 声も名前も知らない、ただ対峙して視線を交わすだけの白い猫族の青年。
 顎を落として愕然としていると、彼もまた同じように目を見開いて私を凝視していた。さらさらと錦糸のような艶めく銀髪が揺れる。嗚呼、なんて美しいのだろう。夢で見るより、とても。

 彼に魅取れていると、ふと白の彼は何かを言おうとして躊躇った。
 首を傾げた私を困ったように見つめて、


「夢……って言えば、通じるかな」


 そう、何かに怯えるように問いかけてきた。
 私が頷けば安堵したように、「良かった」相好を崩す。私へ手を伸ばそうとした彼は、ふと地面に落としてしまった食材がこぼれた麻袋に気付くと、私に手を差し出してきた。
 笑顔に圧されてその手を重ねた次の瞬間には力強く引き上げられる。

 私が服の土埃を払っている間に彼は麻袋に食材を入れ直して抱えた。返してもらおうと謝罪と一緒に手を伸ばしたのを避け、片手を差し出してくる。


「ぶつかってしまったお詫びに僕が運ぶよ」

「え? いえ、そんな、重いですし」

「重いからこそだよ」


 優しく微笑む彼に、胸がどきりと高鳴った。
 今目の前に夢に見た、会いたいと願っていた彼が確かにここにいる。手を握れば温かい体温が、しっかりと包んでくる。

 嬉しくて嬉しくて、死にそうだ。



‡‡‡




 宿屋に着くと彼は名乗らず、私の仕事が終わる時間だけを訊いて帰ってしまった。
 本当はもっと話したかったのだけれど、遠くにいた部下らしい人間に手を軽く挙げて歩いていく彼を見ると、邪魔は出来ないと私には珍しい遠慮が生まれた。

 宿屋の従業員は、周瑜さんが常連であることもあって猫族に特に偏見を持っていない人が多い。加えて私が異性と良い雰囲気だったらしいことが彼らの興味を引いたようだ。あれこれ詮索されて、挙げ句の果てには違う種族の恋愛でも応援するよなんて勝手に沸いた。別に、他人に応援されたくもないのだけれど。
 仕事を早く切り上げて良いと言われたけれど、正直それも嫌だった。

 だって、あいつは早い内から外で堂々と私を待っている。一緒に帰ろうと気味の悪い、下心が滲み出た顔で言ってくるのだ。
 早めに出たって良いことは無い。むしろそれだけ奴と長い時間攻防をしなければならない。
 私は私につきまとう青年のことを臭わせつつ、やんわりと辞退した。

――――けれど、いつも通り仕事を終えると、今日に限ってあの青年は宿屋の中に入って私へと近付いてきた。


「よお、○○。仕事はもう終わり? なら、家まで送るよ」

「いえ。私これから人と会わなくてはならないので」

「人? 誰?」

「……それをあなたに教える必要は無いと思うんですが」


 逃げようと身を退くと腕を掴まれる。嗚呼、嗚呼、気色悪い。
 眉間に皺を寄せて振り払おうとした、その時だ。


「○○、お待ちかねの彼が来たよ」


 主人が、青年を私から引き離しながら戸口を顎で示した。

 青年から離れて戸口を見やれば、白の彼が、肩で息をして立っている。
 私は主人に頭を下げて彼に駆け寄った。


「大丈夫ですか?」

「うん。走ってきただけだから」


 早く、ここに来たかったんだ。
 汗ばんだ笑顔に、胸が締め付けられる。

 彼は青年を足止めしてくれている主人に会釈し私の腕を引いて歩き出した。私に歩調を合わせて向かうのは、港だ。停泊する船を横目に歩き、人気の少ない場所で止まる。
 そこで、手が解放された。握られていた部分だけがつんと寒かった。

 私に向き直った彼は、夕日を受けて赤みを帯びている。夢の中では見れなかった姿に胸の鼓動は早くなる。嗚呼、どうすれば良いだろう。ただ会いたいだけで、会ったら何をするのか私は決めていなかった。どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 ……。

 ……ああ、そうだ。
 お礼を、言わないと。


「ありがとうございました」

「え?」

「夢であなたと会えるだけで、私は十分救われました。だから、お礼を」


 深々と頭を下げる。すると彼は頭を上げて欲しいと困ったように言った。

 それに従えば、両手が伸びてくる。抵抗もせず、私の身体は彼の腕の中へ。どきりと心臓が跳ね上がったけれど、初めて誰かに抱き締められる感覚は思いの外心地良かった。彼だからだろうか。
 暫く沈黙していた彼は、


「僕は、ずっと君を抱き締めてあげたかった」

「……私を?」

「夢の中の君はいつも寂しそうで、苦しそうで……声をかけたくても、手を伸ばしたくてもそれはずっと叶わなかった。僕はずっと、君を見つけたかった。見つけて、大丈夫だと言ってあげたかった」


 かつて猫の耳のあった場所を撫でられる。


「……やっと、君を抱き締めてあげられた」


 吐息がかかって髪が揺れる。
 私は彼の言葉を反芻(はんすう)し、唇を引き結んだ。おかしいな、どうして目が熱くて痛いんだろう。こんな感覚、初めてだ。

 彼は私から離れると、苦笑めいた微笑で私の目元を親指で拭った。嗚呼、私は初めて泣いているのだと知る。


「僕は劉備、君は?」

「私、は……○○です」

「○○……うん、覚えたよ」


 「初めまして」囁いて、私をまた抱き締める。
 自然と劉備さんの後ろの光景が視界に入り、私は目を瞠った。



 私の見ていた世界は、こんなに鮮やかだっただろうか。



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