夏侯惇





「やれやれ、また食べていないのかい。狐狸一族のお嬢さん」


 しっかり食べてくれないと、餓死してしまうよ。

 牢に入るなり小言を呈(てい)した男を、幽谷は静かに仰いだ。
 両手両足を縛られ身動きも出来ぬ彼女は隅にて端座する。男――――曹操軍所属軍師賈栩の一挙一動を注視し、間隙すら見逃すまいとした。

 そんな捕虜の研ぎ澄まされた慧眼を前に、賈栩は肩をすくめて彼女へと歩み寄る。足下に置かれた、両手を使わずとも食せるように配慮された食事を下げた。


「あまり、兵糧を無駄にして欲しくないのだがね。いい加減少しは食べてくれないかい」

「……」

「……返事は無し、か」


 火に巻かれた新野城で曹操軍に捕らわれてより、幽谷は一言たりとも言を発しようとはしなかった。まったき敵意を持って来る者来る者をその赤い隻眼で睥睨(へいげい)する。
 恐らくは、彼女であればその麻縄も容易く千切ってしまえるだろう。だのにそうせずにここに留まるのは、何か自分達に有益な情報でも仕入れようとしているのか。その、こめかみから突き出した獣の耳で。

 賈栩は幽谷の前に腰を下ろし、彼女の容姿を興味深げに眺める。
 この長身の娘に夏侯惇がご執心なのだ。確かに見目は凛然と美しいし、体型も世の男性を惹きつけるだろう。賈栩は何の欲も抱かないが、どうやら《あの》夏侯惇は露出の多い彼女に一目惚れか何かをしたらしかった。
 女を不得手とする堅物の武将を落とせるような娘とは到底思えないけれども。

 じっと凝視していれば、幽谷は不快そうに眉間の皺を深くした。


「……ああ、すまないね。狐狸一族のお嬢さんにあの夏侯惇がご執心になるとは、正直意外でね。彼の好みそうな女性とはまるで違う――――いや、武に優れているのなら、掠ってはいるのかな」


 深い谷間と腹、そして服の打ち合わせから覗く太腿を順に指差し、最後に獣の耳を差した。
 狐狸一族は神の一族と聞く。十三支とは正反対に、聖なる存在と伝えられている。今まで物語や伝承にしか見られなかった神秘の一族をこの目で見る日が来るとは思わなかった。
 賈栩や曹操は興味深いと思ったが、周りの反応は様々だ。

 夏侯淵は夏侯惇を誑(たぶら)かした女だ、十三支と変わらないと断じて蔑視し、李典は伝説の一族に興奮と歓喜を抱きつつも冷静に捕虜(てき)として接している。
 張遼は夏侯惇の気に障るぐらい誰よりも友好的に幽谷に接した。時折手製の衣服を贈ろうとしては夏侯惇に棄てられている。幽谷に与えられる料理を作るのも、張遼の役割だった。


「……」

「おや、気に障ったかい? すまなかったね」


 ぞんざいな謝罪をし、賈栩はふと幽谷の髪に蜘蛛が歩いているのを見つけた。頭頂へと登っていくそれを取ろうとして手を伸ばし――――。


「賈栩」


――――鋭い刃の如き声が、賈栩の背に突き刺さった。

 瞬間に感じたのは首筋に当たる冷たい感触。



‡‡‡




 賈栩という軍師の首筋に刃を当てたのは、幽谷を捕まえた人物だった。自然と身体が緊張し、奥歯を噛み締める。
 身体を冷やし、重たくしていくのは純粋な恐怖だ。
 それを表に出さぬよう無表情に徹しつつ、幽谷は刃の主――――夏侯惇を見上げた。


「彼女には触るなと言っておいた筈だが」

「髪に付いた蜘蛛を取るくらい、良いだろう。それとも、両手両足縛れて動けない状態の彼女を、これ以上不快な気持ちにさせたいのかい」


 仇敵を見るような形相で睨め下ろす夏侯惇に怖じた様子も無く、賈栩は飄々(ひょうひょう)とかわして腰を上げた。大きく夏侯惇を避けて牢を出て行った。
 その際、


「夏侯惇からも言っておいてくれ。そろそろ食事を摂らないと、本当に危ないよ」


 夏侯惇は隻眼を細めた。彼の左目は、幽谷とは違って真実潰れてしまっているのだろう。未だに視界に慣れないことがあるらしく、稀に左からの刺激への反応が遅れることがあった。
 彼が幽谷を見た瞬間、ひゅ、と息を吸った。

 表情の強ばった幽谷に瞳を揺らしたのも一瞬、夏侯惇は前に座って彼女の頬へと手を伸ばした。触れた瞬間、大仰に身体がびくつく。
 手付きは優しいが、幽谷には彼の目に宿る熱すぎる情欲が恐ろしい。視線を合わせないように顔を俯かせると、彼の手は止まった。その隙に顔を横に向けて拒絶する。

 冷たい石造りの壁に背中を力一杯押しつけていると、髪を撫でつけるようにして何かを取り払った。賈栩の言っていた蜘蛛を取ったのだろう。蜘蛛くらいで動揺しはしないのだが。
 掴んだ物を放り投げた夏侯惇はその手で幽谷のまた頬を撫で首筋へと下ろす。

 肩を縮めると、溜息。
 ややあって、


「……何か、食べたい物はあるか。あるならば、用意させるが」

「……ありません」

「このまま飢え死にするつもりか」

「する前に、逃げます」


 ぐらり。彼の隻眼が揺れる。


「ならば、また捕らえるまでだ」


 お前が逃げる限り、何度でも、何度でも。
 低く言われ、うなじに手が回り引き寄せられる。

 抵抗するも間に合わず、眼前に夏侯惇の顔で視界が埋め尽くされた。


「んう……!?」


 口付けを受けている。それを認識したのと、ざらりとした生き物のようなモノが口内に侵入してきたのはほぼ同時だった。
 呼吸すらも奪い、口腔内を蹂躙する夏侯惇に、幽谷は身を捩って抵抗した。

 すると唇を離したその僅かな合間に舌打ちし、首筋に顔を埋める。肌理の細かい肌に吸い付かれた。刺すような痛みに全身が粟立った。


「っ嫌……! ……っ、……《    》……っ」


 ひきつった拒絶の後に続いた人名に、夏侯惇の身体が微かに震える。悔しげに呻いたかと思えば肩口に噛みついた。
 彼が離れたのに安堵したのもつかの間、顔の両脇を両手の拳で殴りつけた。


「何故、俺ではない……!」

「……っ」

「何故、俺だけがお前を追う!? 何故お前は俺ではなく他の男に……!」


 憎らしげに怒鳴る夏侯惇は、幽谷の身体を抱き締める。噛みつかれるかと身構えたが、ただ幽谷を抱き締めるだけで、それ以上のことはしてこなかった。
 しかし、抱き締められているだけでも恐怖は増幅し、嫌な汗がだらだらと流れる。

 激しくも強引な彼の情欲に曝されている時は、恐ろしくて仕方がない。ぎりぎりまで、少しでも情報を集めようとの決意も崩れてしまいそうになる。

 どうして、この人は私の為にこんなになるの。
 記憶について、何か知っている?
 記憶を取り戻せば、彼のこの激情の理由も分かるのだろうか。

 けれど、記憶を取り戻した時、彼との関係はどうなる?

 ……怖い。
 その時が、怖い。
 彼のことだけは思い出したくない。
 思い出してしまえばたちまちに今の私の周りが崩れていくような気がする。

 この人のことだけは、思い出さない方が良いような気がする。
 それが、自分の為になるような気が。

 ……何故?

 分からない。

 ……分からない。


「……離、して」


 掠れた声を絞り出すと、夏侯惇は存外すんなりと幽谷を解放した。じっと見つめ、四霊である証左を隠す眼帯を撫でる。


「食事だけは摂れ。……頼む」


 囁き、彼は腰を上げた。背を向けて大股に、何処か逃げるようにして牢を出て行く。

 幽谷はその背を凝視し、扉が閉まると同時に右に倒れ込んだ。震える身体を丸めて奥歯を噛み締める――――……。



.

40/68
prev top next
template by crocus