賈栩





 賈栩を見た時、ああ好みだなこの男、と○○は淡泊にそんなことを思った。

 昔から一切興味は無かったけれど、これが多分一目惚れという奴だろう。
 そんな冷静で味気ない一目惚れがあるか、などと弟の友人は声を荒げそうだが、如何せん数年で三十路に入ろうかという年になるまで武一辺倒だった彼女である。一般的な恋愛が出来るとは到底思えないし、自身もそう自覚する。

 が、彼女でも異性の落とし方は多少なら思い付く。たまさかに人間達を観察するさなかで得たもので、どれも自分の性分には合わないけれども。

 ……とはいえ、猫族の周囲が落ち着いた今でも、兵の訓練等に追われて私的に賈栩と会うことは全く無く。

 それは、本当に偶然だった。


「ちょっと待てー!」


 弟とその友人を連れて散歩をしていた○○が暫し思案に耽っていたところ、ふと関定が声を張り上げて飛び出した。血の繋がらぬ弟、蘇双も関定と共に走り出す。
 その先には、関羽と賈栩が立っていた。

 何か、聞きつけたか?
 後頭部を掻きながら弟達を追うと、彼らは賈栩に猛抗議していた。


「世平叔父とは違う方向でダメだよね。ダメな大人というかもう、人としてかなり欠落してるよね。ダメ人間だよ」

「ダメ人間って……」

「ずいぶんな言い様だね」


 淡泊に言いつつ、賈栩は口角をつり上げる。しかし、何とも作られた感の否めない笑みである。
 そんな彼に、文句は集中する。大事にしてくれ、愛してくれって……お前達は我が儘な女かと心の中でツッコんだ。


「大事にねぇ。まぁ、なるべく死なないようにすればいいんだろ?」

「なるべくって言うな! このダメ大人! もうこうなったら、絶対オレたちのこと好きになってもらうからな!」

「一緒にいるうちに情が移って戦に出したくないって思うほどボクたちのこと可愛くなっちゃえ!」


 言い捨て、ばたばたと駆け出す二人に、関羽が手を伸ばす。

 ○○は顎を撫でつつ、ぼそりと。


「だから、我が儘な女かお前達は」

「……○○姉さん」

「安心しろ。あいつらは私が戦に出す」

「いえ……さっきから言いたかったんだけど、どうして賈栩にくっついてるの」


 しれっと。本当にしれっと、○○は賈栩に寄り添っている。
 関羽は口端をひきつらせ、考え込んだ風情の賈栩と○○を順に見やった。


「言わなかったか? 私は賈栩に一目惚れしたんだ。だからこいつを落とそうと思う」

「ごめんなさい。聞き間違いかしら。今○○姉さんの口から一目惚れなんて物騒な言葉が、」

「言った」

「……」


 関羽は額を押さえてふらりとよろめいた。

「とまあ、そういう訳だ」と淡々と告げる○○は賈栩の腕に己のそれを巻き付ける。

 と、


「情が移るか……。そういう風になってみたいけどね。……で、○○殿は何を?」

「私はお前のことが好きらしい。だから私なりのやり方で落とそうと思う」

「……は?」

「という訳で、蘇双達の代わりに散歩に付き合ってくれ。軍事について話し合いたいこともある」


 掴んだ腕を抱き締めるようにすれば、自然と○○の豊満な胸に埋まる。だが、賈栩も本人も何ら恥じらうことも無い。

 賈栩は困惑顔だ。関羽を振り返るが、彼女は片手で顔を覆ってうんうん唸っている。
 声をかけても無反応であった。



‡‡‡




 あれから、もう三年になるのか。
 ○○は一人、回廊の柱に寄りかかって酒を飲んでいた。過去の記憶と、満天の星空に浮かぶ満月を肴(さかな)に、冷たい夜気に冷えた身体を酒で温める。

 ○○の数少ない趣味だが、最近はご無沙汰だった。今日だけ、ほんの一杯をゆっくりと。

 理由は腹。そこに自分とは違う命が宿っている。

 妊娠については先週発覚したばかりだ。体調不良の様子から母に強引に産婆に会わされ開きたくもない股を開かされた。
 この結果に子供好きの母は大層喜んだ。孫の顔を見れるのだと感涙し産婆に宥められた。
 この話は父にも伝えられたが、○○はそこで歯止めをかけた。両親以外には自分から時期を見て話すから、今は仕事の方に集中させて欲しいと頼み、夫に話が行くことを阻止した。
 実際、軍を再編成したばかりで調整しなければならず、まだ初期段階の妊娠を理由に軍から外されては敵わない。せめて、自分の目で編成し直した軍の具合を確かめておきたかった。さほど時間はかけないつもりだった。

 落ち着けばちゃんと言う。そう思ってはいるものの――――夫の反応に、少々の懸念がある。
 夫となった賈栩は、人間の感情に非情に疎かった。今はすっかり猫族に絆され影響を受け見違えて人間らしくなっているけれど、彼が妻の妊娠に喜ぶのか定かではない。

 ……となると。


「ふむ、堕胎も一つの手だな」

「はあぁぁ!?」

「ん?」


 手にした盃(さかずき)を揺らしつつ、○○は振り返る。すると、そこには青ざめぶるぶると震える関定と、唖然とした蘇双、そして張飛。


「夜更かしをするんじゃない。子供はもう寝る時間だぞ」

「今のビックリ発言で一気に目が冴えた!!」

「姉さん、今堕胎って言った?」

「堕胎ってことは、まさか妊娠してんのっ?」


 独白を聞きつけた三人は一斉に詰め寄り、質(ただ)してくる。
 考え事に夢中になりすぎた。○○は小さく舌を打つ。数日振りの酒で注意力も低下したのもあるだろうが、あるまじき失態だ。

 蘇双の頭を撫で、目を細める。


「他には言うなよ。まだ軍の調整が終わっていない」

「賈栩にも?」

「ああ。賈栩だけじゃない。軍の調整が終わるまで両親と産婆以外に報せるつもりは毛頭無かったさ」


 肩をすくめ、盃に残った酒を庭の芝生へかける。興がさめてしまった。やる、と張飛に手渡す。

 彼らに口止めして寝るかと考えたが、関定が意外そうにこちらを凝視するのに、柳眉を潜めて嘆息した。


「……何だ」

「いや、まさか○○に子供が出来るとは」


 ……ああ、そう言えばこいつ、賈栩が男として機能するのかと言っていたことがあったな。
 いつかの会話を思い出し、○○は淡泊に告げる。


「ヤることはヤってるのだから当たり前だろう。まあ全部私が動いているんだが、あいつのも反応してるから出来ているんだ、ちゃんと男としての機能はあるぞ」

「いやそこまでは聞いてないから! どの男より強くても酒豪でも何でもそつなくこなせても一応曲がりなりには肉体的にも精神的にも女なんだからそういうことをさらっと平気な顔をして言うなよ! 蘇双、お前の姉貴完璧すぎて男女超越した結果恥じらいも持たなくなるくらい精神がっちがちってどうなの」


 こちらを指差して蘇双に問いかける関定に、○○はその指を掴んで逆方向に曲げてやった。途端、耳障りな悲鳴。


「……嫁ぎ遅れたのって、ボクの面倒を見てたからじゃない気がしてきたかも……」

「良かったな、嫁いだぞ」

「その相手が賈栩ってのもどうかと思ったけど。……って、賈栩最近人間っぽくなったけどさ、姉さんの妊娠喜ぶの?」


 蘇双は一言断って、○○の腹に恐る恐る手を伸ばし、軽く触れる。何かを恐れるように、すぐに離した。腹が膨れていれば、まだ分かりやすかっただろうが、生憎とそれはまだずっと先のことだ。

 張飛がその様子を感慨深く眺めながらぼそりと呟く。


「喜ぶんじゃね? だって自分の子供だぜ?」

「まあ……そうだけど。でも初めての懐妊でしょ? 賈栩、今でこそ姉さんのことは満更じゃないけど、自分の子供のこと、」

「そこまで悪し様に言われると、さすがに物言わせて欲しいね」


 不意に、会話に闖入(ちんにゅう)してきたのは件(くだん)の人物である。
「賈栩」呟いた妻の頭に手を置き、じろりと蘇双達を見下ろした。


「ああも絆されろ絆されろとしつこかった割に、こう言う時に疑うのは如何なものかな」


 二年前までは捨て駒にされたくない彼らにあれこれ手を尽くされていたからなあ。
 当時を思い出しつつ、互いに顔を見合わせる少年達を眺める。


「……いや、だって、なあ?」

「昔の賈栩があれだから……ね」


 嘆息。賈栩は○○をそっと抱き寄せた。手にしていたらしい寝衣を○○の身体に被せる。彼女よりもずっと大きなこの寝衣は、恐らくは賈栩の物だろう。


「言っておくが、閨(ねや)でのことは彼女が俺に主導されるのがお気に召さないらしいから好きにさせているだけであって、別に彼女に触れたくないと思っている訳でも、興味が無い訳でもないよ。自分でも自覚するくらいには、自分の妻に執着しているつもりなんだが」

「……いや、お前もそういうことをさらりと青少年の俺達に言うなよ。まだ普通に惚気られる方がずっとまし――――じゃ、ないか。お前らの惚気も淡泊すぎて怖い。淡泊な近況で事務的な気分になる怖い」


 それは二人の性格上仕方がない。
 賈栩は、肩をすくめた。


「淡泊な近況説明を惚気と取れるなら、多少なりとも理解は貰えているようだね」

「お前ら本当に夫婦!? お前ら見てると夫婦とか恋とか男女の色んなことが分からなくなる!!」

「奇遇だな、私も気の多いお前を見ていると恋愛が非常に軽薄なもののように思えてくる」

「お前よかまともな恋愛だと思う!!」


 頭を抱えて叫ぶ関定に張飛が苦笑する。

 蘇双は複雑そうな顔だ。先ほど彼が漏らした懸念が拭い去れないのだろう。探るような目で賈栩と○○を交互に見やる。


「……取り敢えず妊婦を連れて帰りたいのだが、もう良いかな」

「ああ。そうだな。んじゃあ、オレ達も帰るか。賈栩、○○を頼むな」


 蘇双と関定の襟首を掴み、張飛は無理矢理に歩かせる。
 片手を挙げた彼に、賈栩も片手を挙げ返し、○○を見下ろした。頭を撫で手を握る。ゆっくりと歩き出す。
 ○○は内心しまったと、注意力散漫にすぎる己を恥じた。ここで四人、しかも夫と弟に知られてしまうとは。酒を飲んだ罰が当たったか。

 部屋に至り、彼は労るように○○を寝台に横にならせた。無表情に○○の腹を見下ろし、「触っても?」

 頷けば、そっと腹を撫でた。蘇双と同じく、何かに怯えるように微かな力だ。その手に己のそれを重ねて撫でれば、甲に口付けを落とされた。

 ○○の目から見てもこの三年で賈栩は人間らしくなったと思う。それは猫族の影響だ。今ではもう、誰もが彼を仲間とし、時に頼る。
 賈栩もまた、猫族には思うところがあるようで、○○はそれが嬉しかった。

 彼は自嘲めいた笑みを浮かべ○○の上に覆い被さった。押し倒されることを好まない○○がむっとすると彼は笑って額に口付ける。身長差から彼はいつも、口よりも額、或いは頭頂に口付ける。口にするのは行為中か、寝ている時だ。


「……俺が、まさか妊娠を喜ぶとはね」


 昔の自分が見たらどう言うか。
 苦笑混じりに独白する賈栩の言葉に○○は全身から力が抜けていくのが分かった。……自覚しないところで、自分は疑念を抱いていたらしい。
 頬に手を当てると賈栩は目を伏せた。


「○○」

「何だ」

「……いや。産まれた後に言うことにするよ」


 腹を撫で、額と額を合わせる。
 今度は○○が目を伏せると、唇にそれが当てられた。

 腹が、じんわりと温かくなったような気がする。


「……賈栩」

「ん?」

「取り敢えず私の上に乗るな。気に食わん」

「……そう言うと思ったよ」


 仕方がない。
 彼は口角をつり上げ、隣に寝転がった。


「これで良いかな?」


 ○○は満足そうに頷いた。



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