張蘇双
※注意
彼女を見つけたのは蘇双だった。
洗濯物を濡らした驟雨(しゅうう)が通り過ぎ、独特の臭いが鼻を突く夕暮れ時。洛陽郊外に設けられた猫族の陣屋にまろびながら入ってきた彼女は、右腕を失い無惨な断面から血を滴らせながら虚ろに濁った黒目で蘇双を捉えた。
悲惨すぎる見てくれに蘇双は言葉を失い、青ざめる。
頭には中途半端に千切られた猫の耳。左右共にぶらぶらと危なげに揺れ、今にも地面に落ちてしまいそうだった。
猫族だ。しかも黒の瞳――――関羽と同じ混血。
よくよく見れば誰かに似ているような気がする。だが、不健康なそれでは誰だか判別はつけられなかった。
血と雨にしとどに濡れた衣は汚れ、細い身体にぴったりと張り付く。血の染み具合で判別がつかないが、どうやら左の太腿にも深い傷があるようだ。
およそ女性らしい身体ではなかった。それ程に酷い。女性に対する礼儀も何も無く、剰(あま)りにも惨たらしい姿に唖然とした。
駆け寄って声をかければ彼女小さく囁いた。
「ごめんなさい」
「え?」
ぐらり。身体が傾ぐ。
蘇双に凭(もた)れ掛かった彼女はぞっとするくらいに軽かった。腕の重さが無いから、それだけではない。本当にこれで生きているのか不思議なくらいだ。
彼はすぐに関羽の元へ連れて行き、彼女の手当てを乞う。関羽も、たまたま共にいた世平も、その惨たらしい姿には色を失った。すぐさま人手を呼び、大がかりな手当てに取りかかった。蘇双も、男であるから出来るだけのことだったが、世平の指示に従い迅速に動いた。
その中で、お腹の子は無事かと彼女のかけた問いから、妊娠していたことが発覚。幸い流れることは無かったが、この身体で出産は難しい。それに産婆でなければ確かなことは分からないが、腹の中で死んでいる可能性もある。そうなっていてもおかしくない程の衰弱なのだ。
きっと劣悪な環境で、劣悪な扱いを受けていたのだろう。想像するだけで関羽は涙し、世平も蘇双も彼女に同情を寄せた。
手当てのさなかに眠るように気を失った名も分からぬ彼女をそのまま関羽に看病を任せることとし、男衆で待遇を話し合うこととなった。勿論、関羽と同じ混血であり、無体な仕打ちを受けてきた彼女を放り出すつもりは誰もなかった。問題は赤子のことだ。
猫族の隠れ里であったなら老婆にお産のことを訊ねられただろう。しかしここは幽州ではない。猫族の女は関羽一人だけだ。しかも、お産を数度手伝った程度の経験しか無いし、ましてこんな危険な状態にある妊婦の世話など、年の功を頼みにする他無い。一歩間違えれば子供が一人死んでしまうのだから。
洛陽の人間に訊くのも無理。曹操に頼るなど以ての外。
さて……どうしたものか。
暫く、彼女のことを内密にしながら猫族は悩んだ。
‡‡‡
「あのう……」
「え? あ、はい」
洛陽の町で買い物をしていた関羽と蘇双は、不意に杖をついた老婆に呼び止められ足を止めた。彼女の方を見、戦慄する。
老婆は恐ろしい見てくれをしていた。
蘇双よりも小さく背は異常な弧を描いて湾曲。背中は何かの骨が不自然に浮き出ている。両手はどちらも三本しか残っていない。目は何かを突き刺して潰したのだろう傷痕ばかりな上、しわくちゃな顔は窶れ影を深く落とす。不揃いな歯は黄ばんでいた。身なりこそ小綺麗だが、野卑て恐ろしい形相の顔に、二人は戦いた。
それでも気丈に「何ですか?」と問いかけた関羽に、蘇双は心の中で拍手を送る。
「○○様をご存じでは?」
「○○様?」
「あなた様と同じ、混血の娘御にございます」
ぎょっとした。
咄嗟に身構えると、老婆は引き笑いをした。喜んでいるのだろうが……どうして目が見えないのに分かるのだろう。目が潰れているのに自分達を猫族、しかも関羽を混血と認めて、しっかりと見ていられるなんて不思議だ。
異様な老婆の動向を窺っていると、彼女はえずくような声を漏らした。泣いているのだと分かるまでに時間を要した。
「逃げおおせたのですな。ああ、良かった、良かった。本当に良かった」
「逃げ……もしかして、○○ってあの人じゃない? 関羽」
関羽と顔を見合わせる。
「逃げおおせたってどういうことですか? やっぱり、何処かの屋敷で酷い目に遭わされていたんですか?」
「どうか、○○様をお守り下さいまし。あのお方には何の罪も無い。あの男と同じ血に生まれてしまったというだけで自由を奪われてしまった。今度こそあの男から引き離さなければならぬ。でなくば……嗚呼、恐ろしいことよ」
両手をすり合わせ老婆は必死に関羽達に頼み込んだ。その必死さは彼女、○○のことを思ってのことだろうけれど、正直怖い。
「わ、分かりました。彼女のことはわたし達に任せて下さい」
「……嗚呼、なんとお優しい。良かった、良かった。これで○○様も幸せになられる筈よ。婆の苦労も報われる」
ぐにゃり、顔が歪む。……いや、笑っているのだ。
老婆が頭を下げるのに二人も会釈し、その場を離れた。
ややあって振り返ると、さほど離れた訳でもないのに老婆の姿はもう何処にも無かった。
‡‡‡
陣屋に戻ると、彼女が目を覚ましたと知らされそのまま彼女の休む天幕へ直行した。
中に入れば世平に背中を支えられ、白湯を飲まされている彼女の姿。
彼女は関羽達に気付くと、頭を下げた。……やはり、誰かに似ている。はて、誰だったか。
関羽が傍らに座り笑いかけた。
「気が付いて良かった。身体中痛いと思うけれど、何処か気分が悪いところは無い? 気持ちが悪いとか、お腹が痛いとか」
「大丈夫です。あなた方の温情にお助けいただき、心より感謝致します」
その場に平伏しようとしたのを世平と関羽が慌てて止める。白湯を取り上げ寝かせた。
「暫くはゆっくり休むと良いわ。これからはわたし達で守ってあげる。あなたを逃がしてくれたお婆さんにも頼まれたから。目が潰れたお婆さんよ」
途端、彼女は目を剥き、安堵したように微笑んだ。
「……嗚呼、やはりあの時わたくしを励ましてくれたのも、わたくしの手を引いてくれたのも、婆やだったのですね。今となっても、あの約束を守ってくれたのですね……恨んでくれても良いのに」
胸の上で片手を握り、はらはらと涙を流す。
その様を眺めながら、場違いにも綺麗だと蘇双は思う。
きっとこんな痩せぎすではなかったら、彼女は美しい女性だったろう。彼女を捕らえていた人物も、ひょっとするとその美貌に興味を引かれたのかもしれない。なんと哀れな娘か。
彼女にとって、老婆は余程大切な存在だったと見える。世話係だったのだろうか。あのような見てくれじゃ、あの老婆も良い扱いは受けていなかったように思う。似た者同士、支え合って生きてきたのか。
失礼な考えだが、その支えあってこの○○という娘は猫族のもとまで逃げてきたのだ。逃げて同族のもとまで辿り着く――――そんな奇跡を招いたのは、あの老婆だろう。そこは素直に凄いと思う。
今度会ったら、猫族に来ないか誘ってみようか。
老婆への感謝を繰り返す○○を見ながら蘇双はそう思った。
が、それ以降老婆が猫族の前に姿を現すことは、一度たりとて無かった。
‡‡‡
食事も摂れるようになり体力が戻ると、○○は傷が塞がりきってもいない身体で外へ出ようとした。
勿論皆こぞって止めるが、存外好奇心旺盛で能動的な○○は来た時とは打って変わってきらきらした目で陣屋というものを見ようと人目を盗んでは出ようとした。
それを見かねて、ほんの少しの間だけ、そして自分を付けるという条件付きで、蘇双が許可を出した。その時の喜びようと言ったら無い。まるで劉備がここにいるかのようだった。これでお腹の中に赤子を宿しているのだから、正直母親としてやっていけるのか非常に不安である。
「空はあんなに青いのですね。わたくし、初めて知りました!」
「……それは良かったね」
○○は本当に外の世界を知らない。岩も、草木も、空も、雲も、人も。何もかもが初めてだと言うような反応だった。元は美しい娘だろうに、中身がここまで子供だとは。
「あまりはしゃぐと転ぶ。流産するかもしれないよ」
「大丈夫ですよ」
その自信は何処から来る。
天真爛漫な笑顔を見、蘇双は呆れて吐息を漏らす。だが、何にも驚き、何にも好奇心を抱く彼女を見るのは嫌いではなかった。むしろ、胸がほっこりと温かくなる。
片腕を広げて空気を胸一杯に吸い込む○○は、ふと腕を下げて蘇双を呼んだ。
「数日お世話になっておりますが、あなた方はお訊ねになりませんね。何処の屋敷から逃げてきたのか。どうしてこの有様だったのか」
肩越しに振り返った彼女は悲しそうに微笑む。
「気にしているだろうけど、多分誰も訊かないと思うよ。想像だけでも十分ぞっとするし。むしろ訊きたくない」
「……」
○○の黒の瞳が一瞬だけ揺れる。何かを言い掛けて、躊躇うように口を閉じた。
不審に思うと、それを察した彼女はわざとらしく明るい声を上げて話をすり替えた。
「そう言えばわたくし、婆やに教えてもらったことでやりたいことがあったのです」
「……そう」
瞳が揺れた一瞬、彼女が何かに怯えたように見えたのは、気の所為だろうか。
眉間に皺を寄せて思案したのもつかの間、右腕に絡みついた温もりにぎょっとして首を巡らせた。
○○が、蘇双の腕に左腕を巻き付け密着してきていた。身長は蘇双より僅かに低い程度なので、顔が間近に迫る。恥ずかしくて振り払いたかったが、怪我人であるが故に直前で自身の中に抑止力が働いた。
「な、なに、」
「婆やが言っていたんです。仲の良い男女はこうやって触れ合うのですよね?」
……《仲の良い》の意味を履き違えている。
説明した方が良いかと口を開いた蘇双はしかし、静かになった彼女に声を発せなくなった。
興味深そうな顔は失せていた。
今、○○はとても安らいだ顔で笑んでいる。
ぽつりと、
「……人は、斯(か)くも温かくて優しい存在だったのですね」
導いてくれた婆やも、こんな風に温かかった。
目を伏せ蘇双の肩に頭を載せる。何かに思いを馳せる○○に蘇双は何も言えなくなった。
彼女はあの老婆以外に人とまともに触れ合ってこなかったのだろう。だから蘇双にとっては当たり前のことにこんなにも安堵している。
何処まで、哀れな娘だろう。
あの恐ろしい見てくれの老婆が彼女にとっての唯一の味方だったのは、せめてもの幸いだった。いなかったら、彼女はどうなっていたのか、想像もつかない。
蘇双は手を伸ばし、○○の頭を撫でた。栄養不足で、彼女の髪は触り心地が悪い。指に何度も引っかかってしまう。それでも撫でるだけでこちらも安らぐのは何故だろうか。
○○は痛いだろうに、心地良さそうに身を委ねた。
――――その中の、玉響(たまゆら)の錯覚である。
刹那によぎった人物の姿に、蘇双は思わず手を止めた。
「蘇双さん?」
「……何でもない」
手を下ろし、○○を右腕に絡めたまま陣屋に戻ろうと歩き出す。不思議そうにしながら、○○は従った。
……いや、まさか。
だが何だったんだ、今のは。
玉響のことだ。
瞬きよりも短い時、彼女が曹操に見えた。
そんなこと、人種的に考えても有り得ないというのに――――……。
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