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 それは朝のことであった。
 常仕を終えて仕事寮で源信とお茶を飲んでいたところに、彩雪は誰かに肩を叩かれた。

 この場にいるのは、源信と彩雪、そして澪と漣だけ。となれば自然と澪に絞られる。
「なあに?」――――ゆっくりと肩越しに振り向いて固まる。

 ぐに。
 頬に、何かが突き刺さった。少し痛かった。

 彩雪は当惑した。
 ええと……何事?
 視界の端には手が見える。それが澪の手だとは分かっている。けれど、どうして彼女の指が彩雪の頬に突き刺さっているのか、事態が上手く飲み込めない。
 悪戯のつもりなのだろうか。いやでも、澪を怒らせるようなことはしていない。

 改めて、今までのことを思い起こす。
 朝。いつも通りに出仕したら澪に膝枕することになって、仕事の説明が終わるまでその寝顔を眺めていた。
 昼。壱号と弐号が晴明の手伝いに行くからと、源信と澪達に同行した。ただの動物探しだったから澪と漣のおかげで滞り無く終わった。帰りに源信に干し芋を買い与えられた澪から、三分の一を貰った。漣にも同じく三分の一与えていた。
 そして今。干し芋効果で澪はさっきまで漣とご機嫌でじゃれていた。

 ……わたし、何もしてないよね?
 心当たりがまるで見つからない。
 助けを求めるように源信を見やると、彼は苦笑を浮かべていた。


「参号さんも、とうとうやられてしまいましたね」

「え? あの、どういうことですか?」

「その前に。澪。こちらにいらっしゃい」


 源信が手招きすると澪は手を離して源信の隣に漣と共に行儀良く座る。用意されていたお茶を持ってずずっと啜った。見様見真似でしているだけなので全く上手くいっていない。普通に飲めば良いのにと思うが、彼女にとってはそんな些細な真似も学習の一つなのだった。

 源信は澪の頭を撫でると、彩雪に謝罪した。


「どうも昨日、夕方に弐号さんと遊んでいたようで……今のような悪戯を教わったみたいなんです」

「……なるほど」


 弐号くん、また澪に下らないことを……。
 お調子者の黄色い鳥を思い出し、彩雪は苦く笑った。

 澪が無知で純粋に鵜呑みにしてしまうのを良いことに、しょうもないことを吹き込んでは晴明やライコウにしこたま叱られるくせに、全く懲りる様子が無い。
 溜息が漏れた。


「まあ、今回は笑って許せる程度なので、参号さんも怒らないであげて下さいね」

「はい。……っていうか悪いのは弐号くんなんですし」


 源信が頭を撫でると、目を瞑って小さく鳴く。彩雪と同じ歳程の少女であるけれど、そんな表現がしっくりくる。

 彩雪は目元を和ませた。
 けれどもふと、疑問が浮かんで源信を見上げる。


「もしかして源信さんもされたんですか?」


 源信はやおら首肯した。


「わたくしだけではなく、宮様も、源様もされてしまいました。特に源様は何度も引っかかってしまうから、澪にとっては格好の餌食ですね」

「……確かに」


 実直な彼のことだ、分かっていても振り返ってしまうに違いない。そして、苦々しい顔をして少し落ち込むのだ。
 そんな様子が容易に想像出来て、彩雪は笑声をこぼす。

 和泉も源信も、澪可愛さに付き合ってあげていそうだ。
 澪はさながら無邪気な幼児。純粋で裏表が無いから、小さな悪戯は許してあげたくなる。彩雪もそうだ。

 ……が、彼らはどうだろうか。


「壱号くんは仕方なく付き合ってあげそうだけど……晴明様は絶対に引っかかりませんよね?」

「でしょうね。……ただ、しつこくされれば嫌々付き合って下さると思いますよ。安倍様も結構、澪を甘やかしておられますからね」

「……そう言えばそうでしたね」


 源信が言うには、実際澪に菓子を一番買い与えているのは晴明らしい。源信とそう変わらないよと和泉は茶化していたが、正直仕事寮の誰もが同じくらい菓子を与えていると思う。ライコウだって、ままに頼子から貰ったと唐菓子(からくだもの)を与えていたし、壱号も自分の分を分け与えていたりする。彩雪も、よく澪と半分こにしていた。


「澪って……餌付けされてません?」

「彼女が一番好きなのが食べることなので、自然とそうなってしまうんですよ。勿論遊ぶことも出来るのですが、それよりも喜ぶので」

「……確かに」


 澪は笑うことが出来ない。笑うという行為は人間だけのものであり、獣には決して浮かべられない表情だ。
 だから澪も基本的には無表情だ。けれども喜怒哀楽は一見してよく分かる。
 菓子を貰った時の澪は、例えるならはちきれんばかりに尾を振る子犬だ。引力のある目も感情をよく映すのでとても分かりやすい。

 そんな彼女が可愛くて、ついつい菓子をあげてしまう気持ちも良く分かる。

 澪を見ると、彼女は源信の肩を軽く叩いた。
 ああ、またするつもりなのか。

 源信は苦笑をこぼし、澪の頬を見て人差し指を頬で受け止めた。

 すると、澪は目を輝かせるのだ。



‡‡‡




 他の仕事人達も戻ってくると澪は勢いづいた。
 ライコウに四度、和泉に一度しかけ、次の標的は壱号だ。ちなみに、四度も連続で引っかかったライコウは悄然と肩を落としている。本日彼は七度程餌食になっているらしい。確かに、それは落ち込む筈だ。


「……」

「壱号くん」

「……ボクはやらないぞ」

「ええやん。ほっぺた突かれるだけやし」


 壱号はきっと弐号を睨めつける。諸悪の根源が彼だと分かっているのだろう。
 澪は壱号の肩に手を置いたまま、期待を込めた無表情で見上げている。手を振り払わない辺り、壱号も優しい。

 和泉や源信も苦笑混じりに壱号を呼んだ。

 やがて――――壱号は大仰に吐息をこぼした。
 嫌そうな顔でゆっくりと振り返り、頬に彼女の指を食い込ませた。

 澪は、それはそれは喜んだ。壱号は……少々疲れたような顔をしていたけれども。意趣返しに額に手刀を落とし、彼女の黒髪をぐちゃぐちゃに掻き乱した。

 だが問題はこれからだ。


「……」

「……」

「……」


――――ああ、やっぱり行った。
 ぼさぼさの髪をそのままに彼女が小走りに向かったのは振り返れないように柱に背中を預けて座り込んでいた晴明のもとである。

 徐(おもむろ)に手を上げ、肩へと下ろす。


 が、晴明はそれを避けた。


「……やっぱり避けた」


 思わず呟くと、ぎろりと睨めつけられる。彩雪は肩をすくめた。

 和泉が取りなすように晴明を呼んだ。笑顔で付き合ってあげてよと促すも、晴明は更に顔を歪めりだけだった。
 確かに、矜持の高い晴明にしてみれば実に馬鹿げていて幼稚な、屈辱的な悪戯かもしれない。晴明の性格をそれなりには分かっているつもりの彩雪も、彼が引っかかりたくないのもまあ、分からないではない。

 だが――――この悪戯の楽しみを覚えてしまった澪はしつこい。
 また手を伸ばして、今度こそ晴明の肩を叩くのではなく掴んだ。逃げられない為の彼女なりの策だろう。晴明が逃げようとすればする程、爪が食い込む……かもしれない。澪だから、ムキになってつい爪を立ててしまうのもあながち有り得ないことでもなかった。それを考えると、頬を指で突かれることの方がましだとは思うけれど。


「晴明。早くしないと、解散出来ないよ」

「……」

「安倍様。わたくしも学び屋のことがございますので、どうか折れて下さると非常に助かるのですが」

「お前達はこれを止める気は無いのか」


 低く唸るような声で問いかけるが、この中で唯一被害を受けていない晴明は孤立無援である。


「止める必要があるのかい? 特に害も無いし、可愛いじゃないか」

「……ああ、そうだった。お前達は親馬鹿だったな」

「それ、いつも大好物の干し芋を買ってあげてる晴明にそっくりそのままお返しするよ」

「……」


 あ、押し黙った。
 憎らしげに和泉を睨めつけ、晴明は大仰に嘆息した。

 ややあって――――。


 ふに。


 頬に、澪の指が埋まる。
 その瞬間澪が目を輝かせ、和泉と弐号が小さく噴き出した。

 ぴくりと晴明のこめかみが痙攣する。扇を持ち、ゆっくりと弐号を示した。


「壱号」

「……了解」


 壱号は足首を解すように回し、大股に腹を抱えて笑う弐号へと接近。その丸い体躯に向かって足を後ろへ大きく引き――――。


「にぎゃああぁぁぁっ!!」


 容赦なく蹴り上げた。

 天高く飛んでいく弐号を見送り、彩雪は乾いた笑声を漏らした。自業自得という言葉が脳裏に浮かぶ。

 と、仕事寮を制覇して満足したらしい澪は漣に飛びかかりじゃれだした。

 ……暫くは続くよね、あれ。
 いつまで続くか分からないが、まあ飽きたら止めるだろう。

 その度に蹴飛ばされるであろう元凶に、彩雪は心の中で合掌する。たまたま目があった源信と苦笑を交わし澪達に駆け寄った。

 取り敢えず、壱号くんに乱された髪を直してあげなくちゃ。



⇒後書き+レス

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