夏侯淵
汚らわしい十三支の中でも、彼女は特異な存在だった。
昔から常に服の中に一匹の猛毒を持つ蛇、山楝蛇(やまかがし)を飼い、まるで血を分けた兄弟であるかのように接する。生まれた時からずっと一緒にいたらしく、二十歳を超えてもなおも弱らずに生き続けているのは少々異様だ。
人間にとっては不気味極まり無いが、十三支にとっては普通のこと。むしろ彼女の蛇を神のように思っている節がある。夢で未来を見ることが出来るという力が蛇に因(よ)るものと思い込んでいるようだ。
夏侯惇からその話を聞いた時には夏侯淵も嫌悪した。接触でもしようものなら呪われてしまいそうだ。
そんな女、きっと見た目も根暗な醜女(しこめ)に違い無いと、どんなに醜いか想像しては嘲笑っていた。
その自分が――――などと、誰が予想しただろう。
「おい、女」
洛陽は曹操の屋敷。
廊下を歩く関羽と、その隣の十三支の女を夏侯惇は呼び止めた。
夏侯淵はその後ろで関羽の隣に並んだ髪の長い女に眉を顰(ひそ)める。彼女が振り返ろうとした瞬間関羽が庇うように間に入って夏侯惇と対峙した為に顔は見えなかったが、見慣れない十三支だ。
「夏侯惇」
「そいつは曹操様の屋敷に入れるなと言った筈だ」
「曹操にはちゃんと許可を取ってる。あなたに咎められる謂われはないわ」
「何、」
夏侯惇が剣に手をやった瞬間、女が関羽の肩に真っ白で細い手を置いた。肩越しに振り返った関羽に首を左右に振って彼女の隣に立つ。
瞬間、駆け抜けた衝撃に夏侯淵は息すら忘れた。
女は、筆舌に尽くし難い美しい面立ちをしていた。黒の濃紺のみを基調とした衣服は根暗にも不吉にも感じられない。夜闇のような静かで落ち着いた雰囲気で凛とした美貌をより際立たせる。
彼女が十三支であることも忘れ、夏侯淵は暫し魅入った。
女は夏侯淵の様子に気付かず夏侯惇に拱手(きょうしゅ)して謝罪した。
「申し訳ございません。夏侯惇様。我らが長のお呼びとあらば、どうかお許し下さいまし」
「ふざけるな。貴様は剰(あま)りに不吉に過ぎる。曹操様に呪いでもかけられたら迷惑だ」
女はきょとんとした後目元を和ませてささやかな笑声を漏らした。
「何がおかしい」
「いえ。夏侯惇様が呪いの類を信じておられるとは思いませなんだ故。とても、お可愛らしいと」
からかっている風ではない。まったき本心であるらしかった。
夏侯惇は顎を落とした。次の瞬間顔を真っ赤にして女に手を伸ばし――――瞬時に身を引く。
何事かと思えば、彼女の服の下から一匹の山楝蛇が顔を出した。細い舌を出し夏侯惇を威嚇する。
女は山楝蛇を見下ろしてふわりと微笑んだ。
「お早うございます。お目覚めになられたのですね」
山楝蛇は答えるように彼女を仰いだ。一度あぎとを開き服の下へと戻っていく。
「寝ている時に騒ぐな、だそうです」
困ったように言う女に関羽も苦笑。相変わらずね、とでも言わんばかりだ。
「とにかく、夏侯惇。抗議なら曹操にしてちょうだい。……○○、劉備が待ちくたびれてしまうわ。行きましょう」
「はい。では夏侯惇様と……」
視線がこちらを向く。
夏侯淵は全身が燃えたぎるような感覚に身を震わせながら、何も言えずにいた。夏侯惇が不審そうな目でこちらを見ているのが分かるが、それどころではない。
女は「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」と穏やかに、丁寧に問いかけてくる。
鼓動の五月蠅い心臓に邪魔されて悪態も出てこない。
痺れを切らした関羽が女の夏侯淵を紹介すると、彼女は一つ頷き夏侯淵に微笑みかけた。
「私は、○○と申します。では、夏侯淵様。失礼致します」
これにも、夏侯淵は言葉を返せなかった。
関羽に手を引かれ、急ぎ足に劉備のいる部屋へ向かう彼女の後ろ姿を見送りながら、夏侯淵は静まらぬ胸を持て余す。夏侯惇が自分を呼んでいるが、本当にそれどころではなかった。
‡‡‡
どうしたことだろうか。
○○の笑顔が頭から離れない。
虎牢関の戦いから暫く。十三支は曹操軍を離れた。洛陽で何度まみえても会話らしい会話が出来なかった夏侯淵に、その都度優しい微笑みを向けていた○○と会うことは二度と無いだろう。
分かっているが……会いたい。汚らわしい、十三支の蛇女に会いたい。
まさかオレが十三支に惚れるなんて信じたくない。受け入れたくない。
だのに、どうしても殺せないのだ。
呂布の居座る徐州を攻める今、彼女に会えるのではないか、あわよくば彼女を連れて帰れるのではないかと期待してしまう自分を。
十三支なんて……今でもそう思っているのに○○だけは違う。純粋に好きで、すんなりと受け入れられてしまう。彼女は、十三支の中でも異色の存在であるのに。
どうしても彼女の姿を思い出すだけで高鳴る鼓動を抑えられなかった。
凶将に挑むこの大事な局面を自覚しながらも、やはり頭の中は○○のことだけだ。
‡‡‡
心臓が、身体が、悲鳴を上げている。
逃げなければ。
私が呂布に捕まったままでは、猫族の皆が呂布から逃げられない。
呂布は、私が逃げれば猫族を見張るる張遼を向かわせる筈だ。賊上がりの兵では汚されるからと。
縄抜けする為に親指を噛み千切った左手からは止め処無く血が流れている。だが、自分が捕まったことでどれだけ猫族が苦しんだか。それを思えばこんな痛みなど!
助けてくれた関羽が皆を率い、○○が到来を夢に見た曹操軍と共に呂布を討ってくれる筈。
だから枷にしかならぬ私は逃げる他無い。無力で情けないなんて思わない。自分の役目は果たした。未来の夢を見、何も余さず関羽に伝えた。その上で彼女らは動いてくれる。そして呂布を討ってくれる。
私は信じて逃げ続けなければならない!
「……あっ!」
転倒。
左手を下敷きにすることも無く、受け身も右手だけで取れた。山楝蛇も無事だ。感覚で分かる。倒れる瞬間、肩まで上がって難を逃れていた。
まだ逃げないと。もっともっと下邱から離れないと!
右手に力を込めて起き上がる。駆ける。
弱り切った身体はもう限界。されど悲鳴を上げる身体を無視し、○○は走り続けた。
が。
「○○さん」
不意に横から馬が視界に飛び込んでくる。行く手を阻むよう横に立つ馬に乗るのは、張遼だ。
どくり。心臓が跳ね上がる。
もう追いつかれるなんて!
○○は後退し別の方角を探すも、下馬した彼に一瞬で近付かれ腰を抱き寄せられる。彼は、柔らかな微笑みを浮かべてみせた。
「呂布様がお待ちです、参りましょう」
「っ嫌!!」
○○はもがく。戻ったら、逃げた意味が無い。
必死に暴れて拘束を逃れようとするが、張遼の腕はぴくりともしなかった。
歯噛みし、呻く。
張遼は抵抗を止めた○○に優しく語りかけ馬へと近付く。
そして――――素早く己の得物を振り上げた!
ガキンッ、と耳障りな鉄同士の衝突音に大きく身体を震わせた○○は、己に降りかかった影の主を視界に認め、金色の目を見開いた。
目の前で青年が単身、張遼に斬りかかっている。
どくりと、また心臓が大きく脈打つ。
‡‡‡
覚醒してすぐに背中に強烈な痛みを感じた。
目を開ければ高価そうな寝台に自分は俯せになっている。痛みの理由は存外すぐに思い出せた。
張遼の剣を受けたのだ。
夏侯淵を庇ってのことだった。咄嗟に間に飛び込み背中をざっくりと斬られたのを夏侯淵に抱き留められた。その後の記憶は無い。
あの方は無事かしら。
痛みを堪えながら起き上がり記憶を手繰る。
それを待っていたかのように、枕の影から山楝蛇がするりと現れて腕を上ってきた。案じるように頬に顔を寄せる。
片割れの姿に安堵して○○は小さく笑った。
山楝蛇は一度だけ口を開けて、服の中に入っていった。背中に移動し怪我に寄り添う。そうすると、早く治るのだ。
「良かった。呂布はもういないのですね。猫族も、夏侯淵様も、ご無事で……」
ほう、と吐息を漏らす。邪魔にならなかった。役に立てたことが、とても嬉しい。
そして何より単身で○○を助けようとしてくれた夏侯淵が無事でいてくれたことが嬉しかった。
――――遠い昔に夢に見た、未来の自分の夫。
今でもはっきりと記憶に残るその姿は夏侯淵と瓜二つだった。
彼を洛陽の街中で偶然見かけた時は本当に驚いた。曹操の屋敷で二度目に会った時も、平素に努めるのに必死だったくらい。
実際話してみるととても可愛らしくて、夢に関係無く彼を好きになれた。十三支と蔑む人間でも構わなかった。人間もいつか猫族のことを分かってくれると信じたから。
もう一度横になろうとした彼女は、ふと外から足音が聞こえるのに動きを止めた。こちらに近付いてくるそれは、猫族の誰かだろうか。
寝台に腰掛けて足音を待つと、扉の向こうに人影が映る。ややあって、扉がゆっくりと開かれた。
起こさぬようにと気遣い静かに部屋に入ってきたのは、猫族ではなく人間だ。
「まあ、夏侯淵様」
「!」
予想外の人物に思わず声を漏らせば彼はぎょっと振り向いて扉に背中を付けた。
○○は夏侯淵に拱手し、立ち上がろうとした。
が、夏侯淵は今度は血相を変えて怒鳴りつける。
「馬鹿かっ!! その傷で起きているな!」
慌てて○○に駆け寄って寝かせようとした。
その時、夏侯淵の手が少々乱暴だった為に傷に負担がかかってまう。前屈みになったのを夏侯淵が青ざめて受け止める。
「あ、ああ、悪い……っ」
「いえ。大丈夫ですから……そのようなお顔をなさらず」
勘違いしそうで、困ってしまうわ。
○○は自嘲に苦笑を浮かべ、夏侯淵の顔を両手で挟み込んだ。びくり、彼の身体が震える。
「夏侯淵様。お怪我は?」
「ぃ、や……し、してない」
「そうですか。……では、あの時の私の行動は無駄ではなかったのですね。あなたに怪我が無くて……本当に良うございました」
上擦った声は緊張の為。恐らくは○○が山楝蛇と共存する特異な十三支だからだろう。
夏侯淵に微笑みかけ、○○は身を離す。その際、頭をそっと撫でてやった。
すると、夏侯淵が○○の手を掴んだのである。
えっと思うも一瞬強い力で引かれ、○○の身体はまた夏侯淵にもたれ掛かった。
うなじを撫でられた、その直後。
「……っ○○……!」
「え――――んぅっ」
夏侯淵の必死そうな顔が視界を埋めた。
唇に感じた熱すぎるモノに、心臓が跳ね上がる。
腕から肩を掴み、何かをぶつけるように乱暴に舌をねじ込んでは強引に○○の舌を吸い上げ絡めてくる。
唐突な行為に○○は夏侯淵の胸を右手で押した。されど口付けが一層激しくなって抵抗を許さない。○○から、その力すらも奪う。
熱い。
口が熱い。
身体も熱い。
どうして、こんなことになっているの。
伏せ目がちになり、手にも力が籠もらなくなると、夏侯淵はようやっと口を放し首筋に顔を落とす。
ちくりとした痛みを感じて身を強ばらせると、息苦しさに滲んだ視界の端で、片割れが寝台を降りているのが朧に見えた。
咄嗟に手を伸ばそうとするが、その手を夏侯淵に握られる。
はっとしてももう遅く。
彼が顔を上げた瞬間、○○は再び唇を塞がれた。
嗚呼、駄目。
熱くて、熱くて、全身がとろけてしまいそう――――……。
思考も、熱に溶かされていく。
⇒後書き+レス
37/68
prev top nexttemplate by crocus
![](//img.mobilerz.net/sozai/897_w.gif)