関羽





 ……誰もいない。
 この小屋には誰もいない。

 誰も、誰も、誰も、誰も、誰も、誰も、誰も、誰も――――誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰もだれもだれもだれもダレモダレモダレモダ レ モ ダ  モ。

 気の遠くなるような長い時間をここで過ごした。たった一つ母親から与えられた名前だけが宝物の無機質な人生を悲観することも無く無駄にだらだらとひもじい暮らしを送っていく。

 それでも私は、待ち続けた。
 誰もいないこの場所から、誰かが自分を連れ出してくれることを。
 他者からすれば下らぬ夢想に過ぎない希望を、けれど私は信じていられた。

――――だって。
 毎日のように夢に見るの。
 危ない足取りの私の手を引いて前を歩く、猫の耳を持った少女を。


『わたしとあなたの仲でしょう。遠慮はしないでちょうだい』


 そう、優しく言ってくれる彼女がきっと私を外へ連れ出してくれる。解放してくれる。
 そんな確信が、私にはあった。

 だから、ずっと、ずっと、私は独り彼女を待ち続けているの。




‡‡‡




「○○、大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。私のことなら気にしないで」


 ふらつきながらも気丈に笑ってみせる○○に、関羽は眦を下げて謝った。
 前方を見やれば最後列と少し距離が開いている。
 これでも、良い方だ。

 ○○は苦笑し、関羽の頭をそっと撫でた。
 謝る必要があるのは○○の方。生まれてから二十数年、とある村の片隅に建てられた小屋に閉じ込められて運動などろくにしたことの無い彼女は、体力も無く、足腰も弱かった。杖を突いて歩けはするけれど走ることなんて以(もっ)ての外である。

 民と共に曹操軍から逃げるこの道途、○○は足手まといとなっていた。
 当初は彼女も馬に乗せようと劉備が計らってくれた。
 けども馬の数が足りず、○○が自ら遠慮して苦しい選択をしたのだった。ままに趙雲や張飛が負ぶってくれるが、今では彼らの疲労を思えばとても甘えられない。

 けれど、○○の身体も限界に近いのも、また事実だった。
 先を見据えた諸葛亮は一旦何処かに隠れさせ、後々迎えに行けば良いと提案した。ただでさえ新野の民を引き連れての逃避行、少しでも歩みを遅くさせぬようにしなければ曹操軍に追いつかれてしまう。それは誰もが分かっていることだった。

 それでもなお猫族が○○を絶対に見捨てようとしないのは、彼らが優しいということと、○○の生い立ちを知ってのことだった。

 ○○は、人間でありながら両目が金。猫族と同じ色をしていた。
 その為に両親の先祖に猫族――――否、十三支がいるのだと決めつけられ、手痛い迫害を受けた。
 殺すことも何かの災いを招くやもしれぬと危惧され、ようやっと離乳した○○は粗末な小屋に閉じ込められた。両親も、○○を守ろうとして無惨に殺された。

 ただただ飼い殺しにされるだけの○○を偶然見つけたのは、関羽と劉備だった。
 村の少年から○○のことを聞いた劉備と共に現れた関羽はまさに夢に見た自分の手を引く少女。
 彼女はその日だけ、劉備と共に格子越しに他愛無い話をしてくれた。いつも謂われの無い罵倒ばかりを受ける○○にとっては新鮮で、とても懐かしかった。

 初めて夢を見た六歳の頃からずっと、彼女がきっと自分を助けてくれるのだと信じていた。信じて長らく待ち続けていた。
 ようやっと、外へ行ける。
 ○○は歓喜した。

 出られたのはその日の夜だった。
 焦げ臭い臭いがしたかと思うと、小屋に火が放たれ侵入してきた黄色い頭巾の男達に引きずり出された。
 そのまま暑苦しい場所で乱暴されかけたのを、関羽が助けてくれた。悲しい顔をして男達を斬り殺し、走れない○○の手を引いて歩きながら仲間のもとへと向かった。

 合流した猫族は○○を不審な目で見つつも、劉備の鶴の一声で一緒に連れて行くこととした。

 猫族とはそれからの仲だ。今ではすっかり打ち解けて○○を仲間だと言ってくれる。

 ○○も関羽は勿論、猫族のことも大切だった。
 だからここで皆の足を引っ張ることに心が痛む。諸葛亮の提案には○○も同意した。本心では心細かったけれど、猫族なら必ず迎えに来てくれると信じていられる。それに待つのももう慣れているから、苦ではなかった。

 が、猫族はもし隠れた場所が曹操軍の斥候(せっこう)に見つかることを危惧し、頑なに諸葛亮の提案を受け入れはしなかった。何をされるでもなく捨て置かれるかもしれないが、猫族と同じ色の目を厭って殺されないとも限らない。それが猫族の主張だった。

 一番強く反対していたのは、やはり関羽だ。頑として受け入れようとしなかった。
 おまけに劉備も縦に振らないものだから、諸葛亮も折れざるを得なかった。

――――きっと今、それ見たことか、と呆れていることだろう。


「○○。もうすぐ日が暮れるわ。そうすれば休めるから。もう少し頑張りましょう」

「ええ」


 励ますように背中を撫でられ、○○は微笑で返す。

 関羽はとても優しい娘だ。一人では自分の身の回りのことも満足に出来ない○○の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる。とても有り難いことだった。
 そんな彼女はきっと、曹操軍に追いつかれたら○○を守る為に身を擲(なげう)って抗う。
 曹操はきっと、猫族で最も強い関羽を一番に狙う筈。○○を盾にして連れて行こうとするのは必定であった。

 ……やっぱり、私は、一旦猫族から離れるべきなのでしょう。
 隊列を見やり、○○は目を伏せた。



‡‡‡




 少ない食事を終えるなり、○○は劉備と、その隣に座す諸葛亮に向き直った。


「劉備様、諸葛亮様。よろしいでしょうか」

「何だい、○○。……もしかして、もう身体が限界なのかい? だったら、誰かに――――」

「――――ここから東に向かった森の奥に、誰も住んでいない小屋がある。そこならば曹操軍に見つかりはしないだろう」


 ○○の心中を察したかのように、諸葛亮は劉備の言葉を遮った。遅い、と視線で咎められる。それが決して責めるだけでないことを察し、深く頭を下げた。

 ○○と諸葛亮の言わんとしたことを感知した劉備や関羽は血相を変えて○○を呼ぶ。
 しかし、○○はそれらを黙殺して諸葛亮を見据える。


「では、私はそこでお待ちします」

「だ、駄目よそんなの! 危険だわっ」


 彼女の言に、関羽は厳しく反対した。これに他の猫族も同意する。

 が、諸葛亮の冷静な言葉に返すそれも無くなってしまう。


「だが、このところ思うように進めないのは○○が原因だ。それは、お前達も分かっている筈。のまま同行させれば曹操軍に追いつかれた時真っ先に殺されるだろう。人質にされる恐れだってある。その方が危険ではないか。……大軍勢の中一人では満足に動けない彼女を守りながら戦うのは無理だと、お前だって分かっているだろう」


 ただ一人、関羽は奥歯を噛み締めた。


「でも……!」

「……関羽。私が決めたことだから」


 宥めるように言い聞かせる。
 優しい関羽はそれでも首を縦に振らなかった。勿論、反論出来ないだけで猫族全体が○○の決断に賛成してくれている訳ではなかった。

 しかし、○○の所為で歩みが遅くなっているのもまた事実。だから何も言えないだけだ。

 こればかりは猫族の好意に甘える訳にはいかなかった。特に自分の世話を焼いてくれる関羽には、前から甘えすぎている傾向にある。
 関羽達に負担をかけない為だからと有無を言わさず腰を上げ、彼女は全員に頭を下げた。


「では、荷物をまとめて夜明けと共に向かいます」

「だけど○○、本当に良いの? もし曹操軍に見つかりでもしたら……」


 案じてくれている蘇双に笑いかけ、大丈夫だと頷いた。元より、曹操にとって自分は取るに足らない存在。特に何もしてはこないだろう。……諸葛亮の言うように、○○を人質に、なんて考えに至るやもしれぬが。


「曹操の狙いは私達だ。離れた場所に建つ小屋の様子までは確かめはすまい。○○の為を思うなら、一刻も早く目的地に着き、迎えに行けるよう整えるべきだ」


 劉備は諸葛亮と○○を交互に見、やおら嘆息した。


「……分かった。○○自身の意志なら、受け入れよう」

「劉備!」

「その代わり、新野の人達には負担をかけてしまうけれど、少し急ごう。少しでも早く○○を迎えに行けるように。……だから、また独りで待たせてしまうことになるけれど、○○。どうか、僕達を信じて待っていて」

「はい」


 ○○は劉備に拱手(きょうしゅ)した。微笑みかけ、その場を辞する。

 関羽が呼ぶが、彼女は決して応えようとはしなかった。



‡‡‡




 朝ぼらけ。
 新野の民も未だ眠り込んだ頃、○○は諸葛亮と劉備に見送られて彼らと別れた。
 杖を突きながら、諸葛亮に言われた道筋を辿る。

 これで、速度は上がる筈。
 曹操軍が追いつかぬことを願い、また彼らが早く○○を迎えに来ることを願い、○○は進んだ。


――――どれぐらい進んだだろうか。


 後ろから自分を呼ぶような声を聞いて○○は足を止めた。
 振り返って、瞠目する。


「……関羽?」


 長い髪を揺らしてこちらに走ってくるのは、紛うこと無く関羽だ。手荷物を携えているところを見ると――――。


「まさか、」


 向き直って関羽を迎えると、彼女は目の前に立って両手を腰に当てた。


「わたしも行くわ。劉備や諸葛亮にも同意は得ているから大丈夫」

「関羽……駄目よ。戻った方が良いわ。あなたは猫族の中で一番強い。いざという時にあなたがいなければ……」


 関羽は首を左右に振った。


「大丈夫。皆は強いわ。それに、○○との約束を絶対に破る筈がない。だから、わたしがあなたを守るわ」


 彼女は○○の手を握って前を歩き出した。こちらに笑いかけ、強引に、しかし○○の足に合わせて進み始めた。

 ……嗚呼、あなたは本当に優しい娘。
 ○○は滲み始めた視界の中関羽の背中を見つめ、口元を綻ばせた。


「……ありがとう」

「わたしとあなたの仲でしょう。遠慮はしないでちょうだい」


 振り返らぬまま、何てことも無い風に関羽は言う。
 ○○は目を瞠った。


――――嗚呼、この景色。この言葉。


 違う。
 違っていた。

 私が見ていた夢は、あの日のことじゃなかったのね。


 今、この時だったんだわ。


 ほろり、と。
 ○○はこぼれ落ちた涙を止めれず、そっと目を伏せた。



⇒後書き+レス

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