夏侯惇





 朝日が落ちる翡翠色の世界。
 緑を帯び朧がかった木々の隙間から、日の光が美しい紗幕のように差し込んでいる。
 苔がきらきらと輝いているのは、朝露の反射だ。青々とした木の葉が大粒の梅雨を落とし、苔の上で弾け飛ぶ。それらもまた、清らかな光を反射した。
 白んだ森の奥からひらりと青や黒に煌めく蝶が飛んでくる。離れた場所にある岩の下に生えた赤色の花に停まって花を閉じたり開いたりする。

 人間はいない。いや、この洗練された世界の中に人間など必要無い。朝日を受け淑やかで神々しい森は、しかし厳然と人間を拒絶していた。

 人の手の入らぬ自然の美を噛み締めるように、自然の拒絶を受け入れるように、幽谷は目を伏せ、胸を張って深呼吸を一つ。
 その後ろで、夏侯惇が恒浪牙に話しかけた。


「だいぶ山を越えてきたが、まだ着かないのか」

「ええ。村があった場所は、このずっとずっと奥です。ここからも一日程かけて森の奥にある二つの山を越えます。急な斜面を下った先に、森林に隠れています」


「ここはまだ、大丈夫のようですね」周囲を見渡しながら間延びした声音で言う。
 幽谷を産んだ女の思念が及ぶ範囲内ではないのだろう。彼の言う通り、清らかな自然が広がるばかりで、そのようなものは微かにも感じられない。

 ……まだかかるのか。
 自分が思う以上に時間がかかってしまっている。それは幽谷の身体を考慮して休憩を何度も挟んでいるからで、仕方がないとは言え弱った自分の身体がとても恨めしかった。
 胸に手を当てて細く吐息を漏らせば、耳聡く聞きつけた夏侯惇が案じて顔を覗き込んでくる。


「ここで休むか?」

「いえ。私ならば大丈夫です。まだ進めますので」


 背中を支えようとした手をやんわりと退け、幽谷は森の奥を見据えた。


「あまり時間をかけられません。参りましょう」

「……少しでも苦しくなれば、絶対に言え」

「分かっています」


 何度も繰り返し言われていることだった。
 気を遣ってくれているのは有り難いことなのだけれど、彼は関羽と同様過保護に過ぎる。
 さすがの幽谷でも長旅の中で迷惑をかけられないからその辺は無理はしないように心がけている。
 されど、もう少し、もう少し自分の言葉を信用してくれても良いだろうに、大丈夫だと言っても本当かと必ず疑ってくるのだった。

 夏侯惇に手を引かれ、恒浪牙を先頭に再び進み始める。人の往来が無くなって久しい森は、奥深くなればなる程草が鬱蒼と生い茂り、辛うじて進める狭く険しい獣道を進まざるを得ない。
 時折躓(つまず)くのを夏侯惇に助けられながら、幽谷は歩き続けた。

 身体の緊張を、感じながら。



‡‡‡




 予定通り、一日のうちに二つの山を越えることが出来た。

 が、二つ目の山に入った途端に空気は一変する。
 ずんと肩にのし掛かる不可視のモノが、恒浪牙の言っていた幽谷を産んだ女の思念なのだった。
 なんて重い憎悪だ。こんなにも、彼女は村を恨んだのか。
 ……本当の娘ではないのに。
 そのように、天仙から仕向けられていただけなのに。
 今でもこんなに濃厚に残るくらいの私怨を抱き、死んでいったのだろうか。

 そう思うと、胸が強く締め付けられた。

 村から少し離れた場所で恒浪牙が結界を張った空間の中ではその憎悪の圧力からは解放されたが、代わりに恒浪牙は寝ずに一夜を明かさねばならなかった。ほんの気の弛みを突いて、思念に結界は破壊されてしまうのだと言う。

 幽谷はそこまでしてくれる恒浪牙に心から感謝しながら、彼に言われた通り、布にくるまって眠ることとした。

――――けれど、寝入り端(ばな)、


『……子……、……しの、……わいい子』


 声が聞こえてきたのだ。それは本当に微かな声で、確かな言葉は聞こえてこない。
 幽谷は瞼を押し上げ、身を起こした。恒浪牙を見やり――――顎を落とす。

 彼は幽谷が眠る直前のそのままの体勢で眠っていた。恒浪牙ともあろう人物が睡魔に負けて、なんてことはあるまい。
 もしや誰かが――――。


『私の、可愛い……幽谷』

「っ!?」


 耳元!?
 幽谷は立ち上がって周囲を見渡した。突然間近で聞こえた声の主は、何処にもいない。気を張り詰めて注視するが、夜闇ばかり。

 幽谷が起きたにも拘(かか)わらず、恒浪牙も、寄り添うように眠る夏侯惇も目覚めなかった。

 声は、まだ続いている。しかもやはり耳元で囁かれていると勘違いしてしまうくらい、近くてはっきりとしていた。


『私の可愛い子、私の可愛い幽谷』

「この声、は、」


 あの時の声、だ。
 犀華に背中を押され、彼女の力で消えかけた幽谷が表に出る直前に聞いた、あの時に声をかけてくれた長い黒髪に青い瞳の女性――――……。

 異様に乾いた咽を震わせ、幽谷は声を絞り出した。


「あなた……なのですか。あの時に、私に『いってらっしゃい』と言って、送り出してくれたのは」

『私の可愛い子、私の可愛い幽谷。――――幽谷』


 この方向が、変わる。
 首を巡らせた幽谷は息を呑んだ。瞠目し、視線を向けた先に佇む姿を凝視する。

 緩く波打つ長い黒髪。
 青い瞳。
 右手首にはめられた、幽谷の物とよく似た翡翠の腕輪。


「――――」


 記憶と、重なる。


 自然と足は動き、幽谷は女性へと近付いていく。
 この人が……この人が私を産んだ人。私に生きてと刻んだ翡翠の腕輪を託した人。あの時、『いってらっしゃい』と言って見送ってくれた人。

 ……やっと、会えた。
 全身から力が抜けた。嗚呼、こんなに緊張していたのか、私。
 へたりとその場に座り込んだ幽谷は女性に深々と頭を下げた。

 女性は足を前に踏み出した。霊体だのに、こちらにゆっくりと歩いて近付いてくる。


『幽谷』


 彼女は幽谷の前に立つとしゃがみ込み細く白い腕を伸ばした。慈母の微笑みを浮かべ、柔らかな眼差しで幽谷を見つめる。

 自分を抱き締めるように身体を寄せてくる女性に、幽谷は弛緩した身体を委ねた。
 温かい。
 この霊体に触れた全身が、温かい。
 分かる筈がないのに、背中を撫でる手の感触が分かる。それも温かい。

 とても、優しいぬくもりだった。

 微かに、勝手に唇が動いた。何を言おうとしたのか己自身分かっている。だから、頭の中で駄目だと警告した。
 幽谷は……彼女の娘ではないのだ。ただ彼女の子宮に宿っただけで、血の繋がりなどありはしない。
 幽谷とこの女性は、親子ではないのだ。

 けれども。


「……あさ、ま」

『……』

「……、……かあ、さま」


 母様。
 そう、女性を呼んだ。

 女性は小さく、吐息だけで笑った。とても嬉しそうに、とても幸せそうに。

 そっと女性が身を離すと、間に入り込んだ冷たい空気がぬくもりを奪っていく。離れないで、と一瞬だけ思った。頭では駄目だと分かっているのに……彼女は母親であると、彼女を求めてしまう。
 女性は幽谷の頬を愛おしげに撫で、目を細めた。


 そして――――。


『私の愛おしい我が子、どうか、死ぬその時まで、幸せでいて下さい』


 額と額を合わせ、祈るように、穏やかに言った。


「母、さま」


 もう一度、呼ぶ。
 女性は――――母は幽谷から離れ、恒浪牙に向き直って一礼する。

 恒浪牙は沈黙したままだ。まだ眠っているらしい。

 母は夏侯惇にも頭を下げると、身を翻して歩き始めた。一度も振り返らずに、闇の中へと。立ち上がった幽谷が呼んでも彼女は振り返らなかった。

 数歩歩いて、幽谷は止まる。その場にくずおれ胸を押さえた。
 ……痛い。
 胸が痛い。痛くて痛くて仕方がない。


「……ありがとう、ございました」


 姿の見えなくなった母に向け、震えた声を絞り出す。胸の熱はせり上がり嗚咽と変わった。顔を上げると後ろから伸びた腕が幽谷をやんわりと抱き締める。
 振り返ればそれは夏侯惇で、薄く笑っていた。いつの間に目覚めていたのだろう……いや、そんなことはどうでも良い。

 幽谷は身を捩って夏侯惇に抱きついた。胸に顔を埋め、目の奥から溢れ出る熱い雫を静かに流した。

 夏侯惇はさも全てを見ていたかのようだ。
 ただただ黙って、静かに泣く幽谷を抱き締め頭を撫で続ける。

 背中に感じる夜気が、異様に冷たく感じられた。



‡‡‡




「さて、帰りましょうかー」


 間延びした声に従い、幽谷は腰を上げた。

 恒浪牙は、あの時目覚めていたらしかった。目覚めるなり『じゃあ帰りましょうか』にこやかに言い放ち帰り支度を始めてしまったのだ。

 結界を解いても、もうあの苦しい程の圧力は無く。母の思念が晴れたと、心の片隅で寂しいと感じた。何だか、ここにはもう母はいないような気がして。

 歩き出した恒浪牙を追おうと足を踏み出した幽谷は、不意に後ろから腕を掴まれ立ち止まった。夏侯惇だろうと振り返り、


 間近に彼の顔が迫っていたのに少し驚いた。


 唇を掠めた感触に瞠目する幽谷から夏侯惇はすぐに離れた。居住まいを正し、強く妻を見据える。腕は掴んだままだ。やや痛いくらいに握り締めていた。


「あの……夏侯惇殿?」

「帰る前に、この場で誓わせてくれ」

「誓う?」


 夏侯惇は一つ息を吸う。


「俺は――――お前に絶対に後悔をさせない」


 必ず、限られた時間を全て満たしてやる。
 堅い声音で宣言し、今度は幽谷の額に口付けた。


「そう、お前の母に誓う」

「夏侯惇、殿」


 真っ直ぐな眼差しに気圧された、その刹那のことである。



『いってらっしゃい、私の可愛い娘』



 母の声が、頭に響いた。
 ほぼ反射的に天を仰ぐと、一際強い風が幽谷の身体を撫でる。それが、早く行けと急かしているように思え、幽谷は寸陰目を伏せ夏侯惇の手を握り直した。ふわりと微笑み、首を僅かに傾けた。


「……帰りましょう。夏侯惇殿」

「ああ」


 夏侯惇は笑い返す。遠くで遅れた幽谷達を呼ぶ恒浪牙に片手を挙げて、幽谷の前を歩き出した。


「……行ってきます」


 彼女は振り返らぬまま、囁いた。

 優しい風が、頬を撫でた。



‡‡‡




 全てが偽りなのだと、頭の片隅で分かっていました。



――――けれど、それが何だというのでしょう。

 お腹の中で赤ちゃんが動く感覚に歓喜したのは私です。
 赤ちゃんを産んだ痛みを感じたのは私です。
 赤ちゃんを抱き締めたのは私です。

 偽りでも何でも構わない。
 確かに私の子供なのです。可愛い私の赤ちゃんなのです。

 よしやこの感情が仕向けられたものであるとしても、私が抱いたのだからこれは私の感情です。

 私の赤ちゃんは――――幽谷は、私の子供です。

 永遠に、幽谷の幸せを願い続け、彼女を害する者を憎むでしょう。
 私は、幽谷を産んだ母親なのですから。


 母が子供の幸せを願い、子供を守るのは、至極当たり前のことなのです。



 私の可愛い幽谷。
 あなたの愛おしい人達と、どうか、末永く幸せに――――……。



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