夏侯惇





 ここ数日、幽谷の様子がおかしい。
 何をしても上の空で、夏侯惇や恒浪牙と面を合わせると必ず最初に物言いたげな顔をする。躊躇いがあるのかすぐに隠してしまうのだけれど、夏侯惇はそれが気がかりだった。
 身体が弱まった彼女は、どうも周囲の人間に遠慮がちだ。我が儘を言えば迷惑になるとでも思っているのだろうが、むしろ何でも我慢されることの方が余程心配だった。

 恒浪牙も、ため込みすぎは身体に良くないと、往診に訪れる度幽谷を諭す。彼女は神妙に頷くが、それを受け入れたことは無かった。
 心労で倒れるのではないか……そう思うと気が気でない。

 折角、幽谷が自分の妻となったと言うのに……。
 祝儀を挙げたのはつい先月のことである。幽谷の身体を気遣い、短く、簡単なものに収めた。それでも夏侯惇にとっては十分だったし、関羽達も心からの祝辞を幽谷にかけた。

 夫婦になったのだから、詰まらない遠慮はして欲しくはなかった。それで体調を崩してしまうのなら尚更(なおさら)だ。
 だからと、夏侯惇は恒浪牙に付き添ってもらい幽谷を質した。勿論、体調の安定している時に。

 幽谷は最初、嘯(うそぶ)いた。が、思っていたよりは誤魔化さず、何度か答えるようにキツく言えば素直に打ち明けた。
 曰く。


「母の――――ああ、いえ……私を産んだ方のいた村に、行ってみたくて」


 実際聞いてみればそんなこと。拍子抜けした。
 その程度のこと、躊躇わずに言えば連れて行ったと叱るように言えば彼女は肩を落として謝罪した。

 ……が。恒浪牙は違っていたようで。
 難しい顔で顎を撫で、思案に耽り始めた。幽谷を母親から受け取ったのは彼だ。村は知っているだろう。
 その彼が渋面とは何か問題でもあるのか。幾ら待っても同意も何も言わない。


「恒浪牙? どうかしたのか」

「……いやぁ……あの村は今、非常に厄介なことになっているんですよねえ」


 苦笑し、眦を下げる。


「厄介なこと?」

「ええ、まあ……幽谷の母親が女冠(じょかん)としての資質を備えた存在であることは以前お話ししましたよね」

「……そう言えば、そうだったな」


 それだけの力を秘めていたからこそ、幽谷を産ませたのだったか。
 夏侯惇が頷くのに、恒浪牙は幽谷を見下ろした。


「思念というのはとても恐ろしいものです。死した後、母親の思念は村を憎悪し、その力を全て呪いに変えてしまいました。今ではもう村自体が死に絶え、近辺の山々も澱んでしまっている。……幽谷の身体の影響を考えますと、ね。母親の呪いなのだから、影響が無い可能性も勿論ありますけれども」

「お前の術ではどうにかならないのか」

「いや……しろと言われればしますけど。私、幽谷の母親苦手なんですよ〜。呪われた人間なので」


 両手を挙げて、恒浪牙は言う。
 確かに、彼は酷い呪いを幽谷の母親から受けていた。仙人の恒浪牙と言えども解除に時間のかかった程の強力なそれは、彼にとっては二度と受けたくないものなのだろう。
 夏侯惇は幽谷を見下ろした。すでに諦めた顔をしている。

 そのまま黙っていれば止めますとでも言いかねない。
 恒浪牙がしろと言われれば出来ると言っているのだから、幽谷が我慢をする必要は無い。


「恒浪牙。頼めるか」

「……ですよね」


 いや、そうなると分かってはいましたけど、私自身ため込むのは良くないと常々言っていましたけど。
 恒浪牙は後頭部を掻きながら嫌そうに言う。

 幽谷が口を開いたのを夏侯惇はすかさず手で制した。恒浪牙を強く見据え了承の言葉を待つ。

 やがて、


「……分かりました。ただし、幽谷と夏侯惇将軍だけですよ。これ以上人を増やすといざという時対応出来ませんからね。それに、刺激して面倒なことになりたくもないですし」


 仕方なさそうに言う彼に、幽谷は頭を下げて謝辞を述べた。少しだけ嬉しそうだ。

 妻の様子に安堵し、夏侯惇も恒浪牙に礼を述べた。

 二人の謝辞を受けた恒浪牙は肩をすくめる。曹操に許可を貰ってくると足早に部屋の外へ出て行った。

 ほうと、幽谷が吐息を漏らす。胸を押さえ俯いていたのを案じて顔を覗き込むと、彼女は取り繕うように笑った。


「気分が悪い訳ではありませんから……」

「どうした。急に気が進まなくなったか?」

「……いえ。気が進まなくなったのではなく……ただの、緊張……でしょうか」


 苦笑を滲ませる彼女は縋るように夏侯惇の手に少しだけ触れた。夏侯惇が握り返すと、胸に顔を寄せてくる。
 それ以後は何も言わなかった。無言で夏侯惇の心音を聞き続ける。

 夏侯惇は幽谷の背中に腕を回しそっと抱き寄せた。幽谷は逆らわない。むしろ、肩口に手を置いて自ら密着してくる。

 己が生まれる筈の無かった存在であると自覚があるからこその緊張だろう。それでも、自分を産んだ母親の育った村に行きたいと願う。
 その理由が知りたくて、夏侯惇は沈黙を破った。


「何故村に行こうと思ったのか、訊いても良いか?」

「……」


 幽谷は顔を上げ、肩に額を押しつけた。暫く深呼吸をして、


「確かめたい声があるのです。あの時聞いたあれが私を産んだ女性のものなのか。あの時の記憶がぼやけて褪(あ)せてしまう前に」

「そうか」


 夏侯惇にはよく分からない話が含まれている。だが、敢えてそのような言葉を選んだのならば、今は声の主が母親なのかを確かめたいから、その解釈だけで良い。
 夏侯惇は幽谷のこめかみに口付け、宥めるように背中を撫でてやった。



 三人が曹操や関羽に見送られ許昌を発ったのは、それから三日後のことである。

 目指すは冀州。かつて山間に存在した死の村。
 そこに、彼らは向かう。



‡‡‡




 ようやっと、赤ちゃんが産まれました。私と愛するあの人の、たった一人の娘です。
 その子は小さくて、小さくて――――けれど私の指を握る力はとても強くって、とても愛おしく思えます。

 ありがとう。

 ありがとう。

 ありがとう。

 何度仙界に御座(おわ)す天帝に礼を言ったでしょう。それでも、全然足りません。それだけの僥倖(ぎょうこう)を賜りました。

 四凶? いいえ、良いのです。
 四凶でもそうでなくとも、良いのです。
 この子は私の大事な赤ちゃん。心から願った愛おしい赤ちゃん。

 だから、何をしてでも守り抜きたかったのです。

 夫を殺しました。私を愛してくれたたった一人の伴侶をこの手に岩を握って、殺しました。何度も何度も殴って殺しました。私の可愛い赤ちゃんを守る為に。

 関係の無い旅の方を呪いました。偶然通りかかっただけのあの方に可愛い顔で眠るあの子を押しつけ、殺さないように呪いました。私の可愛い赤ちゃんを守る為に。

 そして――――。
 夫の傍で息絶えた私の心は、休まりませんでした。

 殺せと言った。
 村の奴らは殺せと言った。
 私の可愛い赤ちゃんを殺せと言った。

 私の可愛い赤ちゃんは、化け物ではない。
 四凶なんて言わないで。凶兆なんて決めつけないで。


 私は村の奴らを赦(ゆる)せませんでした。


 だから。

 私は。


 私は――――村の狂死を強く願ったのです。










































 ……私には最初から分かっていました。

 幽谷は私とあの人の間に出来た子供ではないと。
 私の、あの子を守ろうとする感情も、行動も、全てが誰かの暗示によるものだと。
 私は子が欲しいという切な願いを誰かに利用され、自分の意思で動いているように思わせられていただけなのだと。

 全てが偽りなのだと、頭の片隅で分かっていました。



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