夏侯淵





 夏侯淵の許嫁は、とかく身体が弱かった。
 子を産めるかも分からず、いつ病を罹患して命を落とすかも分からぬ――――更に武家で末の妹姫となれば、扱いにも困る姫だった。ぞんざいにも出来ぬ、かといってぞんざいに過ぎれば死んでしまう。

 姫――――○○が普段から底抜けに明るく振る舞うのは、厄介者扱い受けている現状への鬱屈を、彼女なりに振り払いたいからだった。
 音楽を好み、暇さえあれば甲斐甲斐しく世話をしてくれるたった一人の女官から貰った笛を吹き奏でた。その腕はあらゆる楽士にも勝った。

 夏侯淵も、その音色に魅了された人間の一人だ。


「○○、いるか」


 夏侯淵は分かり切った問いを口にしながら扉を開けた。
 その寝台に腰掛けた娘を見、安堵したように笑う。


「夏侯淵様」


 ○○は淡く微笑み、夏侯淵に向けて拱手(きょうしゅ)する。
 底抜けに明るいフリをする彼女の、本来の笑顔がこれだ。甘い菓子のような柔らかくふわふわとした上品な淡い微笑。夏侯淵も彼女の女官も、彼女の表情の中で一番可愛いと断じて憚らぬ極上の笑みだ。

 それを見せるのは先述した二人だけ。父にも母にも、兄姉にだって一度も見せたことは無い。

 大好きな笑みに迎え入れられた夏侯淵は上機嫌で扉を閉めて○○の隣に腰掛けた。


「今日は調子が良いんだな」

「はい。ですから、お姉さんが後で散歩をしようと言ってくれて」


 楽しみなのだろう、頬が僅かに上気して瞳が輝いている。
 『お姉さん』とは女官のことだ。実の兄姉が彼女のもとを訪れたことなど一度も無い。夏侯惇の計らいでこの許昌城下の屋敷に住まわせるようにしてからも、曹操に従う兄、そしてその父すら○○を気にかけない。夏侯淵は彼らに一度も○○の様子を訊ねられたことは無かった。ただ、○○に飽きてはいないか、そればかりだ。先に惚れた夏侯淵が飽きる訳があるまいに、顔を合わせる度に問うてくるのはとても五月蠅かった。

 そんな無情な親兄姉だから、彼女は寂しさを紛らわせる為に唯一、優しく、時には厳しく接してくれる女官を姉と慕っているのだった。

 家族から疎ましく思われても文句一つ言わず、むしろ幸せなフリをして自分を励まそうとする○○を夏侯淵はいじらしく思う。彼女の良さが分からない周囲こそ、不可解だった。
 夏侯惇だって、夏侯淵と共に兵法のことを学ぼうとする○○のことを褒めていた。つい最近始めた筈だのに、頭が良いから夏侯淵の方が度々教えられて助けられている。そんな情けないと思いつつも、夏侯淵の役に立てて心から喜ぶ彼女を見ていると愛おしくて仕方がなかった。

 あの時、偶然笛の音を聞かなければこんな幸せは得られなかったと思うと、彼女の父親にも感謝したいとすら思ってしまう。

 夏侯淵が○○を知るところとなったのは、たまたま、彼女が下邱の戦いで負傷した父の見舞いに許昌を訪れていた時のことである。
 夏侯淵は偶然彼の屋敷の側を通りかかり、父の為に○○が笛を奏でていたのを聞いた。
 ほんの一瞬聞いただけでいとも容易く虜となった彼は、見舞いと偽って屋敷を訪れ、彼の部屋で○○を見た。伏せられた睫毛は長く、笛に寄せたふっくらとした唇は紅を掃かずとも紅く、青白い肌との不調和が彼女の脆さを際立たせた。愛らしいのに、今まさに壊れてしまいそうな程に儚い姿は胸を突いた。
 笛を吹きながら夏侯淵に会釈した彼女は、演奏を終えてから拱手し笑いかけた。その目はとても優しく、日溜まりのような温かさがあった。
 父との話を邪魔をしないようにと粛々と部屋を辞した後も、夏侯淵は茫然と扉を見つめていた。

 夏侯淵は笛の音と儚げな姿に灯る温かさに、二度惚れたのだ。

 それから○○の父親に彼女について訊ね、勢いに任せて自分の嫁にと望んだ。

 ○○と出会ってから女遊びのぱたりと止んだ彼のこの突飛な行動に、夏侯惇が戸惑わない筈がない。何か変なものでも食べたか、などと妙な心配をされた。○○を見た途端、妙に納得されたけれども。

 ○○の父親にとっては体(てい)の良い厄介払いと同時に夏侯家とも繋がりが出来るとして、大層喜んだ。二つ返事でこれを了承し、○○を女官と共に徒歩で許昌へ来させた。病弱な娘を、だ。
 彼としては病弱だが長旅に耐えられる程の身体であると示したかったのだろう。○○も父親の意を汲んで顔色を悪くしながらも夏侯淵の前では気丈に振る舞い続けた。その日の夜に倒れたことも、彼女は頑なに隠した。夏侯淵が知ったのも、女官が父親に直談判していたのを偶然聞いたからだ。

 以来、○○の身体には夏侯淵なりに気を配った。腕の確かな薬売りが現れれば女官と共に薬を買い求めたし、○○の表情の変化を見逃すまいとした。

 他人の心中に聡い○○にそれが伝わったのか分からないが、今は彼女に心を許してもらえている。問えば正直に答えてくれる姿に、心から安堵出来た。
 来た当初ならば予定を壊して、体調を隠して、夏侯淵に合わせていたところだろう。それをせずに本当のことを、こんなにも楽しそうに話してくれることが、とても嬉しい。


「夏侯淵様も、よろしければ如何ですか?」

「あー……オレはこの後鍛錬だから、すぐに城に戻らないといけない」


 ごめんな、と最後に付け加えると、○○は残念そうに笑った。首を左右に振って、それでは別の機会に、と。


「本当、ごめんな」

「いいえ。いつもお疲れ様です。民を守る為に武を振るわれております夏侯淵様の許嫁になれたこと、私は心から誇りに思っています」


 ……。
 ……。
 ……無性に、抱き締めたい。
 両手を伸ばしかけた夏侯淵は苦虫を噛み潰した顔で立ち上がる。

 ○○は不思議そうに首を傾け、何かに気付いたようだ。ふわりと微笑んで、夏侯淵を呼び、両手を広げて見せた。


「どうぞ」

「……、な、」


 夏侯淵は顎を落とした。凝視していると、○○はにこやかに両手を上下に軽く揺らした。

 暫く、夏侯淵は一人葛藤する。まだ好きになってくれていないかもしれない○○を抱き締めるなど出来ないと、自制心が欲とせめぎ合う。

――――が。

 結局、沸き上がる衝動に耐えきれずに夏侯淵は○○を抱き締めてしまった。彼女の身体を気遣って力はあまり込めなかった。

 背中に触れたのは○○の手だ。嗚呼、触れた部分が異様に熱い。それだけじゃない。きっと自分の顔は真っ赤だ。女に対して慣れた筈の、この自分が。

 幾つもの服を着重ねて誤魔化された○○の身体は細い。ひとたび力加減を間違えてしまえばたちまちのうちに折れてしまうのではないかと不安に駆られる程、華奢だ。
 だからこそ、何をしてでも守りたいと思う。それくらい心から惚れ込んでいる。

 深呼吸をすると、○○の香りが鼻孔を擽(くすぐ)る。
 嗚呼、愛おしい。とても愛おしい。
 何が何でも欲しくて、心から望んで手に入った、小さな小さな花だ。

 堪能していると不意に○○が「そうだ」と思い立ったように夏侯淵を離した。

 名残惜しさを顔に出しながらそれに従うと彼女は少しだけ弾んだ口振りで、


「女が鍛錬場に入ることは禁じられているのでしょうか」

「……いや、それは無い、けど……」

「でしたら私、鍛錬場に行きたいです」


 「構いませんか?」こてんと首を傾け、期待するように輝いた目で夏侯淵を見上げてくる。
 純真無垢な許嫁の眼差しと願いが嬉しくて、夏侯淵は頬を上気させた。ぶんぶんと縦に首を振る。

 ○○は嬉しそうに、あの柔らかい笑みを浮かべた。


「嬉しい。夏侯淵様の鍛錬が拝見出来るのですね」


 夏侯淵は、彼女の笑みを直視していられずに視線を逸らし、また○○を抱き締めた。駄目だ、可愛すぎる。可愛すぎてこちらの心臓が保ちそうにない。

 運は天にあり。
 こんなにも惚れ込んでしまった以上、もう夏侯淵は○○を手放すことは出来ない。きっと、これからももっと、もっと好きになっていくに決まっている。
 まだ一年も経っていないのにこれじゃあ……これから先どうなるやら。
 けれども好きな人間をもっと好きになることは嫌ではない。むしろ幸せだ。

 好きだ。

 大好きだ。

 愛してる。

――――違う。
 そんな軽い言葉じゃ足りない。
 言い表せないくらい、○○に惚れ込んでいる。

 純真無垢な○○が可愛いのがいけないのだ――――そう、心の中で言い訳した。


「楽しみです。ずっと、拝見したいと思っていたんです」


 ふふ、とささやかに笑う○○に、夏侯淵は嘆息した。

 ……取り敢えず今日の鍛錬はいつも以上に気合い入れとかねえと。
 ○○の前で、格好悪い姿は死んでも見せたくない。



⇒後書き+レス

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