孫権





 さらさらと髪が揺れる。風に踊り、紗幕のような美しい煌めきを放つ漆黒の髪は、彼女の白い肌、真っ赤な唇に妖艶さを加味する。
 規則正しい歩調、そしてぴんと伸ばした背筋、知性と気品を漂わせ歩く姿はまさに黒百合。ただし、放つのは悪臭ではなく仄かに甘い、他者の心を心地よく擽(くすぐ)る芳香だ。黒百合に喩え(たと)ようとも、他の花に喩えようとも、彼女に欠点などあろう筈もない。

 彼女は粛然(しゅくぜん)と廊下を進み、とある部屋の前で足を止める。


「孫権様。尚香様が女官、○○にございます」

『……入れ』

「失礼致します」


 凛とした声を響かせ、彼女――――○○は扉を静かに開く。
 その場に片膝を立てて座り顔を床に向け、手にした箱を高く掲げた。


「尚香様より、孫権様への贈り物をお届けに参りました」

「……入れ」


 部屋の主孫権は少しだけ声を低くして、同じ言葉を繰り返した。
 ○○は俯いたまま頷き、尚香から受け取った贈り物を大事に抱えて部屋の中に入った。周囲に人がいないことを確認し、扉を静かに閉める。

 身体を反転させて机に向かう彼に恭しく頭を下げると、孫権は細く吐息を漏らす。○○を呼び、顔を上げると同時に視線で己の向かいの椅子を示す。
 ○○は無表情のまま瞬きで了承を示し彼の言葉に従った。

 孫権が書簡等を片付けた机上に荷物を置き、そこでようやっと相好を崩す。

 すると、孫権も僅かに肩が下がった。


「……やはり、そちらが良い」

「有り難きお言葉にございます。孫権様」


 ○○は仕事一切を完璧にこなす。が、ほとんど無表情に素早いので周囲には有能だが恐くて近付きがたい女官だった。実際、彼女が尚香専属の女官になってより今日(こんにち)に至るまで、友人と思しき人間は一人として見られなかった。

 けれども彼女は決して笑わない訳ではない。気を抜いたふとした瞬間に口元が綻ぶし、尚香との会話は心底から楽しんで、それが表情に出ている。ただ、公私をはっきりと分け過ぎているのだった。仕事に一切の妥協を許さない真面目な面を少しでも軟化させれば、話しやすい魅力的な女性なのだけれど。

 ○○は手で口元を隠し、鈴の音のような笑声を漏らす。

 孫権はほうと吐息を漏らして○○が持ってきた尚香からの贈り物に手を伸ばした。
 細工も何も無い質素な木箱を開ければ、真っ青な布に包まれた細長い物。布を開いた途端孫権は言葉を失った。

 剣だ。
 その装飾も、色も、長さも、太さも――――全てに見覚えがある。
 孫権は顎を落としてそれに見入った。愛でるように優しく撫でる。

 ○○は彼の反応など、尚香にこの話を聞いた時点ですでに予想していた。やっぱり、と心の中で独白し小さく笑う。


「……この、剣は」

「名高い名工に作っていただきました。孫策様が愛用されていた物に似せて」

「よく……似ているな」

「孫策様の愛用されていた剣、尚香様はよく覚えておいででした。私も驚きましたわ。少しも違わず、子細まで説明なされて……」


 目を細めて、○○は遠い目をする。その時のことを思い出して胸が熱くなった。
 尚香にとっても、孫策は掛け替えの無い兄だ。だから、あんなにも鮮明に覚えていたのだ。

 ○○が孫権に笑いかけると、彼もまた笑んだ。○○や尚香など、近しい者にしか分からないような微かな笑みだ。


「尚香が……そうか。感謝すると伝えてくれ」

「畏(かしこ)まりました」


 孫権は大事そうに剣を布に包み、箱の中に戻した。愛おしげな眼差しで箱を見下ろす。

 良かったですね、尚香様。
 主の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
 用は終わったと席を立つと、孫権は静かに問いかけた。


「○○。まだ仕事が残っているのか」

「いいえ。全てを終わらせた上でこちらに参りましたので」

「……そうか」

「……」

「……」


 孫権は何かを言いたそうだ。無表情だが、それは分かる。

 ○○は彼を見下ろしながらくすりと笑う。一国の主に対して無礼ではあるけれど、孫権に《近い》○○だからそれは許されている。
 暫く待ってみても何も言おうとしないので、孫権を呼んで顔を覗き込んだ。少しだけ仰け反った。


「孫権様。休憩なされては如何でしょう。私でよろしければ、お茶をご用意致しますが」


 優しく提案すれば、目に見えて彼はほっとした。

 ……本当に、可愛らしい方。
 ○○は笑みがなかなか消せなかった。
 拱手(きょうしゅ)して部屋を出ようとすると、扉に手をかける寸前に孫権に呼ばれた。


「はい」

「……いつもすまない。助かる」

「いいえ」


 何に謝っているのか、考えなくとも分かる。
 要らぬのにと苦笑めいた微笑を浮かべ、○○は扉を開けた。

 瞬間、顔から一切の表情が消えて無くなる。
 ○○はいつもの引き締まった顔で、颯爽と歩き出した。

 少しばかり急ぎ足なのは、孫権の心情を知ってのことである。



‡‡‡




「孫権、ちょっと話が――――っと」


 声もかけずに唐突に部屋に入った周瑜は、目の前の光景に瞠目した。


「周瑜様、お静かにお願い致します」

「ああ、アンタか……って、そこにいんのは孫権、だよな」

「ここは孫権様のお部屋でございますれば」


 無表情に出迎えた尚香の女官、○○が頭を下げて諫めてくる。彼女は寝台に端座していて、その腿には孫権の頭が載っている。健やかな寝息を立てる孫権の頭が。
 ……状況的には面白いが、何故○○に膝枕をされているのかが分からない。

 母音を伸ばし後頭部を掻いた周瑜は、寝台に近付いて孫権の寝顔を覗き込んだ。


「珍しいな、爆睡してるなんて」

「それ程にお疲れだったのでしょう」

「いや、疲れって言うよりは――――」


 ちらり、○○を見やる。
 相も変わらずの鉄の無表情だ。見目は綺麗だが付け入る隙の無いこの女官、周瑜も少々苦手だった。一度絡んだ際にこっぴどく毒を吐かれ、なおかつその後の小言も非常に長かったから。○○と面と向かうと、また毒を吐かれるのではないか、普段の振る舞いを叱られるのではないかと警戒していやが上にも身体が強ばってしまう。

 しかし、孫権が寝ている所為か、彼女は目だけは優しく周瑜に対して柔らかな態度で接してくる。

 ……まさか、な。
 孫権が安心して身体を預け爆睡出来る間柄なのかも、なんて有り得ない。
 そりゃあ、お堅い者同士お似合いだとは思うけれども。
 そんなんじゃあこの先オレが保たない。

 浮かんだ推測をすぐに却下した。


「暫くは起きなさそうだな。んじゃあ、孫権が起きたらオレが話があると言っておいてくれ。急ぎじゃないから、明日に回してくれても良いともな」

「畏まりました。ご苦労様です」

「……」


 ○○が自分に労いの言葉をかけるなんて。
 周瑜は天地がひっくり返るのではないかと不安に駆られ窓を見やった。……嗚呼、大丈夫だ。ごくごく普通の、見慣れた光景が広がっている。
 気の所為だ。たまたま機嫌が良かったのと、オレが仕事の話を持ってきたからに決まってる。機嫌が良い理由は考えない。考えたくない。

 周瑜も○○に労いの言葉を返した。そんな自分にも寒気が走った。
 逃げるように退出し、早足に部屋を離れる。暫くして柱に凭(もた)れ掛かり、長々と嘆息を漏らした。


「今日は、一体どうなってんだ……」



‡‡‡




「……驚かせてしまったかしら」


 逃げていった周瑜を見送った○○は、頬に手を添えてぽつりと呟いた。
 彼が自分のことを苦手に思っていることは分かっているので、少しだけからかってみたが、まさかあんな反応をされるとは。
 窓を確認した時は、その間抜け面に思わず笑いそうになってしまった。

 また、忘れた頃にからかってあげましょうか。
 悪戯心がちらりと顔を覗かせた。

 周瑜のことは別に嫌いではない。むしろ猫族と言うことで周囲からの風当たりも強く、無理をしていないか案じている。

 周瑜は今の孫権や尚香にとっては無くてはならない大切な存在だ。だから、彼のことも心配してしまう。
 最初の時だって心配から来る説教だったのだけれど……毒が強すぎたらしい。

 熟睡している孫権の頭をそうっと撫で、○○は小さく笑った。








――――周瑜は全く気付いていなかった。
 孫権の身体に隠れて見えない○○の片手を、彼がしっかりと握り締めていることに。


 放そうとすれば、逃がすまいと強く力を込めてくる。
 無意識の行動が可愛らしくて、愛おしくて、○○はとろけるような笑みで孫権の頬を優しく撫ぜた。



.

13/68
prev top next
template by crocus