張遼





 窓から朝日と共に小鳥達のさえずりが降ってくる。
 天に臨む青空に機嫌良く笑みながら関羽は隣室の引き戸を開けて寝台に向けて声をかけた。


「○○。朝よ。ご飯を食べないと遅れてしまうわよ」


 もぞり。
 寝台の隅で布の塊が蠢く。
 関羽は笑声を漏らして寝台に近付き、「それっ!」一息に布をはぎ取った。

 可愛らしい悲鳴の後、ころんと小さな生き物が寝台を転がる。身体を丸くするその姿はさながら猫だ。
 五歳程の幼い女童(めのわらわ)が、眠そうに目を半眼に据わらせて関羽を見上げた。

 愛くるしい彼女の様子に口元も自然と弛んでしまう。
 関羽は少女の頭を撫で、背中に手を入れて少しだけ強引に起き上がらせた。


「ほうら、○○。早くご飯を食べて準備しないと」

「……じゅんび?」

「張遼達と遊びに出かける約束だったでしょう?」


 関羽がそう言うと、寝ぼけ眼だった○○も一気に覚醒する。がばりと身を起こして脇目も振らずに部屋を飛び出していった。
 騒々しい足音と、彼女を叱る世平の声に、関羽はまた笑う。

 彼女が来てから、一層騒がしく、明るくなったように思う。元々暗かった訳では決してないし、世平との暮らしには不満は一つも無い。
 けれども共に住むようになって二ヶ月程、○○という無邪気な幼女が一人加わるだけでこんなにも華やぐとは思わなかった。

 ○○には親がいない。
 父親は生まれる前に病で亡くなっているし、母親もまた、二ヶ月前に父親と同じ病でこの世を去った。二人共病弱で、その体質は羅音にも引き継がれている。
 幼い○○は関羽によく懐いていた。だから、世平と関羽が彼女を引き取ることになっても本人は嫌がらなかったし、周囲にも異論は出なかった。

 天真爛漫だけれど、聞き分けの良い彼女は関羽達の家には何度も泊まっているから、暮らし始めても小松ような事態は全く起こらない。ただ、○○が泊まっていた部屋の調度品が、彼女の家の物に代わり、両親の形見が増えただけだ。
 悲しくて寂しい心中はままに関羽に吐露し、彼女なりに直向(ひたむ)きに生きようとする姿は健気なものだ。
 願わくばこれから先彼女に不幸が降りかからぬようにとは、猫族全体の願いであった。

 関羽が○○を追いかけると、今度は彼女が関羽を急かす。早く早くとまくし立てながら、行儀良く関羽を待っているのは母親の躾が行き届いているが故のことだ。
 側に座る世平も、○○の様子に苦笑を禁じえないでいる。
 少しだけ急いで関羽も席(むしろ)に座ると、彼女はすぐに箸を取った。急ぎながらもちゃんと咀嚼(そしゃく)して嚥下(えんか)する。口の中に何も残らなくなってから食べ物を含んでいった。
 急いでいるけれど、そこまで早くはない。

 関羽は世平と顔を見合わせて笑い合った。

 が、ふと世平は真顔になって関羽に耳打ちする。


「張遼は平気だろうが、呂布達には気を付けろよ」

「……ええ。分かっているわ」


 わたしも行くから。
 そう言うと、世平は○○を一瞥して小さく頷いた。



‡‡‡




 今回、張遼を遣わして近くの花畑に行かないかと誘ってきたのは呂布だった。最初は関羽のみだったが、張遼を気に入っている○○が自分も行きたいと強く申し出て、呂布が許しを出したのだった。

 関羽にとっては不安で一杯だ。○○は呂布にも気に入られている。もし関羽のように言い寄られて変な知識を植え付けられたり、残虐なことを好む彼女に無体な仕打ちを受けたりしたらと思うと気が気でなかった。
 だから、世平との相談の上、呂布達のことは関羽が引き受けて○○に近付かせず、○○を張遼に任せることとした。張遼には、ままに○○と遊んでもらっているから、関羽が目を離しても問題は無い。

 一方的に、強制的に花が咲いていく呂布との会話に応じながら、関羽はままに○○達の様子を眺めていた。

――――そんなことは露とも知らず。
 ○○は温暖な気候の下、自分が作った花冠を張遼の頭に載せる。


「劉備さまといっしょに作ってるから、わたしの花かんむり、とてもじょうずでしょ」

「はい。とても綺麗ですね」


 和やかな空気の中、○○ははにかんで笑う。

 張遼の髪はとても美しい。○○も、一目見た時から彼の髪の虜だった。
 まるで日の光を凝縮したような金糸の一本一本がとても綺麗で、とてもう羨ましい。
 張遼に対して○○の髪は真っ黒だ。何の面白味も無いし、見慣れたそれを別段綺麗だとも思わない。
 彼の髪を自分も欲しいと思うのは子供の羨望だった。

 けれども、○○はそれを自覚していながら構わずに張遼と遊ぶ。
 勝手気儘に生きれるのは子供時代だけ。幼いながらに分かっているから、○○は張遼について回るのだ。
 大人になれば自由は制限される。それを嫌だとは思わない。大人になれば守らなくてはならない色んな決まり事は、全て世の為に大切なことだと分かっている。だから子供でいられるうちは目一杯遊んで、我が儘をするつもりでいるのだ。


「今日は、風が少し強いようですね」

「そうだね。わた毛がいっぱい飛んでる」

「ああ、花弁も飛んでいますね。とても綺麗です」

「わたしの花かんむりとどっちが綺麗?」


 何とはなしに訊ねてみる。

 張遼は緩く瞬きして、こてんと首を傾けた。○○の大好きな金の髪がさらりと肩からこぼれ落ちる。


「……どちらでしょう。どちらも綺麗ですから、私には決められません」

「そっか。同じくらい綺麗なんだ。うれしい」

「それは良かったです」


 ○○が笑えば、張遼も柔和に微笑む。
 呂布から猫族の世話を任されているから、毎日のように会える。
 けども張遼と会えるひとときよりもこうして張遼と二人で遊ぶことの方がずっと嬉しくて、幸せで、大切な時間だった。

 ○○は未だ自覚するには及んでいないが子供なりに、女として本気で張遼のことが大好きだったのだ。

 遠くで呂布の感極まったような声が聞こえる。

 関羽が○○を危険な目に遭わせないように呂布の相手をしてくれていたのには気付いていた。呂布には絶対に近付いてはいけないと、子供全員に言い聞かせられていたから。

 ○○も呂布は怖い。怖いから、どうして張遼が彼女に従っているのかも分からない。だから、あまり長くいられないのも分かっている。こうして関羽が気を遣って張遼と遊ばせてくれるだけでも、とても嬉しかった。
 関羽だって呂布が怖い筈なのだ。けれど○○のことを分かっているから、呂布の誘いを受けてくれて、守ってくれる。
 張飛達からも関羽を助けてあげて欲しいと言われているから、○○に出来ることをしなくてはと使命感が○○の胸に灯る。ここではわたしが関羽お姉ちゃんを守らなくっちゃ。

 と、一人頷いた○○の頭に、不意に何かが載せられる。
 少し驚いてそれを手に取ると、それは花冠だ。○○の物とは花が違う。

 きょとんと首を傾けると、「お気に召しませんでしたか?」と張遼。
 張遼が作ってくれた物であるようだ。作ったことが無いと少し前に聞いていたのに、とても綺麗に出来ている。
 ○○はぶんぶんと首を左右に振った。


「ううん、すっごく綺麗っ。嬉しい!」

「そうですか、それはようございました」


 にこりと笑い、もう一つ、今度はもっと小さな物を差し出す。
 前に一度だけ教えた花の指輪だ。


「こちらもどうぞ」

「わあ、ありがとう! とてもうれしい」


 関羽に結ってもらった髪を揺らして張遼に笑いかければ安堵した風情で笑みを返される。

 張遼はいつでも笑顔を崩さない。○○は、彼の表情は笑顔ときょとんとした顔以外を知らなかった。
 呂布に仕えていて、辛いと思ったことは無いのだろうか。悲しいと思ったことは無いのだろうか。
 もしそうだとすれば、とても寂しいことだと彼女は思う。
 人間は沢山の感情あっての人間だ。辛い感情もあるけれど、それがあるからこそ、優しく出来るのだと母も関羽も言っていた。

 訊ねようと呼んだけれど、彼と目が合った瞬間その気は失せた。その質問が、とても失礼なものだと思い至ったからだ。


「どうかなさいましたか、○○さん」

「あ、ううん。あの……あのねっ」


 誤魔化さないと、と○○は拳を握る。
 一所懸命に考えて、声を張り上げた。


「あっ、あのね、わたし、大きくなったら張遼のおよめさんになりたいの!」


 ……言って、すぐに慌てた。
 両手を振って何かを言わなければと口を魚のように開閉させていると、張遼はいつもの柔らかな笑みで○○の頭をそっと撫でた。幼女らしいふくよかな頬に口を寄せ、そっと触れる。


「そうですね。では、その時○○さんが今と同じ気持ちでしたら、また仰って下さい」

「……うん」


 あやされているような感覚だけれど、頭を撫でる手つきは優しくて心地良かった。
 ○○はこくりと頷いて、俯く。

 貰った指輪を、己の指にはめた。

 すると、そこが胸と同じくらいに暖かくなったような気がした。



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