趙雲
あの夜から、趙雲は強引に○○に迫るようになった。
仕事の為に城を歩いていると不意に腕を引かれて腰を抱かれたり、壁に両手を付いた間に挟まれたり、普段の凛々しい彼の姿からは想像も出来なかった。
簡単には諦めない――――その言葉に込められた意図を身を以て知った○○は、数日のうちに困窮し果てた。異性、それも想いを寄せた人物に迫られて、平常心を保てる筈もない。毎度顔を真っ赤にして逃げた。
駄目だと分かっているのに、密着されると自分の中に潜む甘ったるくも熱い感情が身体を拘束しようとする。理性に逆らって、受け入れようとしてしまう。身分を考えろと叫ぶ理性に聞こえないフリをして、腕を伸ばそうとする。
駄目なのよ、本当に。
趙雲様は公孫賛様の信頼の篤い武将。私よりももっと身分の高い方を娶られる方が良いのよ。
何度も何度も自分に厳しく言い聞かせた。禁じれば禁じる程に反抗すると分かっていながら、そうする他無かった。
彼が姫を娶るまで、何とか拒み続けなければならない。
けれど果たせる自信が無い。
今日も、また――――。
「○○」
「っ!」
後方から駆け寄ってくる趙雲に、○○は反射的に逃げようとした。が、数歩走ったところで腕を掴まれて引き寄せられた。勢いの負けて後ろに――――趙雲の胸に倒れ込むと、腰に腕が回された。ひくりと咽がひきつる。
もがこうとすると耳元で囁かれた。彼の吐息は耳殻を刺激してぞわりと肌が粟立った。掠れた声が漏れて身体の熱が上昇していく。
「丁度良かった」
「あ、あの……放して、下さい!」
腕を剥がそうとするとより強く力が込められる。苦しくはないが、趙雲の身体に背中が押しつけられて羞恥が増した。嗚呼、なんて恥ずかしい。誰かに見られたら大変だ。早く放していただかなければ。
鼓動が五月蠅い。まるで耳の側に心臓があるかのようで、趙雲にも聞こえてしまっているかもしれない。
「お願いですから、趙雲様……」
「ならば、俺の頼み事を引き受けてくれるか?」
肩越しに振り返ろうとして止める。間近に彼の顔があったのだった。顔を見合わせてしまったら、何をされるか分からない。
「た、頼み事? 引き受けるなんて……」
「ならばもう暫くこのままでいるか?」
「わ、分かりました。分かりましたから……!」
本当に離れて下さい。
消え入るような声で嘆願する○○に、趙雲は小さく笑った。頭頂に口付け、悲鳴を上げた際に彼女を解放する。
○○は胸を押さえて趙雲から距離を取った。異常なまでの間を空けて真っ赤な顔で趙雲を睨めつける。
「そ、それで頼み事と言うのは……」
「今夜右北平近くの村で祭りがあるんだ。共に行こう」
「な、」
○○は顎を落とした。つかの間沈黙して一瞬で青ざめる。
再び逃げようとしたのを趙雲はすぐに捕まえた。
○○は全身が冷めていくような感覚に身を震わしながら、上手く行ったと言わんばかりに笑う趙雲を仰いだ。
どうしてこうもしつこいの、あなたは……。
駄目だと言っているのに。どうしても、諦めてくれない。
いつになったら分かってくれるのか。
○○の頬を撫でてくる武将に、心が軋んで痛みを訴えた。
‡‡‡
大勢の人間が狭い村の中を行き交う。余所からも見物に来ているのだろう。
賑やかな雑踏の中を、女官に無理矢理着飾られた○○は趙雲に手を引かれて歩く。近くの酔客(すいかく)の呵々大笑が鼓膜を殴りつけた。
反対方向へ歩く人波に足を取られても趙雲が抱き寄せて支えてくれた。恥ずかしいけれど、その優しさは有り難かった。一人で歩いていればきっと行きたい場所にも行けなかった筈だ。
はぐれてしまわぬよう、趙雲の手をしっかりと握り締める。宥めるように握り返す力が強まった。
「これは趙雲様。今宵はようこそおいで下さいました! どうぞ楽しんでいって下さいまし」
村長と思しき老人が赤ら顔で歩み寄ってくる。趙雲が足を止めて言葉を返す側で周囲の様子を見渡す○○を見つけるとにんまりと含みのある笑みを浮かべた。酔っているようで、やらしい目つきで交互に見てくる。
その目を見ていると昔を思い出してしまいそうで、○○は趙雲の後ろに隠れた。別の意味で早くなる鼓動に胸を撫でて自分を宥める。大丈夫、ここには私を襲うような輩はいない。
「婚約者様にもお楽しみいただけると思いますよ。どうぞごゆっくり」
「ああ、ありがとう」
婚約者ではない。
否定をしたかったけれど、まだ村長は○○をあの目で見ていた。声をかけたくない。
趙雲に従って歩き出した○○は肩を縮めた。
村長の声は大きかった。元々なのか、酔っている所為なのか分からないが、その大音声の為に趙雲を知る者達が口々に彼に挨拶をする。趙雲それに律儀に応えを返すものだから、自然と老若男女が彼女に近付いてきた。頬を上気させた妙齢の女性達も我先にと趙雲に近寄る。
困惑して周囲を見渡していると、不意に○○の腕が誰かに掴まれた。趙雲の手から強引に剥がされる。
○○と同じ年程の女だ。冷ややかに○○を睨めつけ、突き飛ばして趙雲から離す。
趙雲は引き剥がされたことには気付いているようだが、犯人が誰なのかは分からないようだ。戸惑うように人々を見渡しつつ○○を呼ぶ。手を伸ばそうとすると、妙齢の女の一人が嬉々としてそれを握って胸に寄せた。何だろう……その積極さは彼に似ている。
見る見る離されていく趙雲に○○は手を伸ばす。が、当然届く筈もない。
女の何人かがこちらを勝ち誇ったように振り返るのが見えた。
趙雲を慕って集まる者達の合間から趙雲の腕に抱きつく女の姿。
それに、つきりと、胸が痛んだ。行かないでと言える身分ではないと分かっている。だから唇を堅く引き結んで己を律する。
彼らはすぐに雑踏の奥へと消えた。
皆から良く慕われている。
公孫賛の下にいたから、彼もあのような寛恕(かんじょ)になったのかもしれない。
やはり、私には遠き場所の人。釣り合わない。
○○は細く吐息をこぼし、くるりと身を翻した。気まぐれに天を仰げば、満月に無数の星々。
いつもよりも明るく夜の大地を照らすその丸い月が、○○は嫌いだった。
私が母を追いて逃げた日も満月。
私が男に犯されたのもほとんど満月。
満月の日は暗くてもいつもよりも明るい。だから母は満月の日に逃げろと言ったし、男達も出歩いて女を物色した。
嫌な夜だわ。
周りはあんなにも楽しそうに浮かれているのに、私の心は沈んでいく。嫌な感覚が蘇りそうになる。
ふと、頭に先程の村長の赤ら顔が過ぎった。酔っている所為だと分かっていても、あのやらしい顔に悪寒が走る。思わず自分の身体を抱き締めた。
周囲を見渡せば、男ばかりだ。女が一人も見つからない。
気の所為だ。偶然だ。
たまたま女性がこの場にいないだけだ。趙雲についていってしまったのだ。大丈夫。ここに私を襲う男はいないんだ。だから、大丈夫、大丈夫。昔ではないのよ。
深呼吸を繰り返し、顔を上げる。
そして、目を剥いた。
‡‡‡
垣間見えた、一人の青年。商人と思われる身形の、そばかすに猫毛の青年だ。
見覚えが、ある。
未だ残る心の傷が、強烈な痛みを以て警告を飛ばした。逃げろ、気付かれる前にこの場から離れろ、と。
「○○!」
聞き慣れたその声が、合図だった。
ひきつった悲鳴を漏らして○○はその場から逃げ出した。人を掻き分け何処へともなく走る。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
奴隷だからと、酷いことをされ続けた。人として扱われなかった。……あの青年にも。
脳裏に再生される。拒絶しても止まらない。その時の感触、痛み、苦しみ、憎しみ。忘れたくとも忘れられない耐え難い苦痛が、胸を締め付けた。
どれくらい走っただろう。
気付けば周囲に、昼のように村を照らす明かりは無くて。森林の匂いが鼻を突いた。
腐葉土にへたりと座り込んだ彼女は己の身体を抱き締めたまま前のめりになって、喘ぐように口を開閉させる。
撫でられていない筈なのに撫でられているような気がする。無い筈の物が中に埋まっているような気がする。気が狂いそうだった。思い出したくないのに、私は忘れたいのに!!
嗚呼、こんな時に彼がいてくれたら。いて欲しい。来て欲しい。もう何もかもどうでも良い。苦しくて苦しくて仕方がない。
趙雲様に、傍にいて欲しい。
一人になりたくなかった。
あの、安心出来る笑顔が見たかった。
「○○!」
背中に何かが触れた瞬間金切り声を上げた。それを振り払い頭を抱えてその場に倒れ込む。
「嫌……嫌、来ないでっ」
「○○……?」
「もう無理……入らない、の……赤ちゃん、出来ないから……許して下さ、も……止めてっ! 嫌ぁっ!!」
「――――」
「たす、助け、て、趙雲様……っ! 一人に、っしな、で……っ!!」
錯乱して記憶と現実を混同させる○○は身体を身を守るように丸くする。嫌、嫌、と繰り返して全てを拒絶する。
そんな彼女を、声の主は少し乱暴に起こして抱きすくめた。
「大丈夫だ。お前を害する者はいない。いたとしても、俺が守ってやるから。ゆっくりと深呼吸をするんだ」
宥めるように、瘧(おこり)のように震える○○の背中を撫でる。
○○は相手が誰か考えるよりもまず、その言葉に従った。深呼吸を繰り返す。震えが治まるまで何度も何度も繰り返した。
そのうち、苛む映像も感覚も薄れていく。視界を満たす暗い青に全身から力を抜いた。
「ぁ……」
「落ち着いたか」
ゆっくりと顔を上げれば、恋しい人の柔和な笑顔。手を伸ばして頬に触れると手を重ねられた。
趙雲様、と。声も無く呟いて涙を流す。
私を襲わない男の人。私に優しく接してくれる男の人。私の――――愛おしい男の人。
「大丈夫だ、俺が守ってやる」
もう一度、その言葉を繰り返す。
駄目だと、身分を考えろと叱る声が頭の奥から聞こえる。
けれどもこの時彼女は過去の再発に精神的に疲れ果て、理性を保つ程の余裕が無かった。
大粒の涙を流し、抱き締める趙雲に無言で身を委ねる。
‡‡‡
我に返って青ざめた。己の発言が脳内をぐるぐると巡り、全身が冷えていく。
何てことを言ってしまったの、私。私、駄目だって分かっていたじゃない。なのに、あんな、こと。
慌てて身を離そうとするも趙雲はそれを許さなかった。
「は、放し、」
「駄目だ」
傍にいて欲しいと言っただろう。
違うとは、覚えているから言えなかった。恥ずかしさに俯き、囁く。
「て、撤回を、」
「駄目だ」
「っひ!?」
首筋を軽く噛まれ○○は身体をびくつかせる。肌に吸いつかれれば身体が石のように強ばった。錯乱状態での発言が助長させたのか、彼は肌に触れては痛いくらいに吸いついてくる。
恥ずかしい……!
「言っただろう、簡単には諦めないと」
「ですがっ、」
「生憎だが俺は好き合っている相手をいつまでも放置しておく程優しくはないんだ。素直に行動すれば良いと、助言してくれた者達もいるからな」
「は……な、なん、」
「子供は生まれずとも良い。お前が俺の傍で笑っていてくれるなら、それで……」
おかしい、何だか様子がおかしい。
○○は趙雲を呼んで振り返ろうとすると、彼は顎を掴んで強引に上げて口を塞いだ。
逃れる道は、無かった。
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