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幽谷の側には封統と甘寧が立った。周瑜は孫権のもとへ。彼らは、ここで一旦呉に戻るらしかった。
未だ邪に染まったままの劉備を、猫族は怖々と見つめている。恐れと困惑。関羽すら、泣きそうだ。昨夜の会話を思えば、当然のことだろう。
大切に守ると決めた者達からの、拒絶に近い反応。
それに、現在の劉備はさして気にした風も無かった。
「皆、話がある。これからのことを劉備様と話した」
「劉備と?」
「そうだよ。諸葛亮がさ、これからのことを決めなきゃいけないからって全然解放してくれないんだよ。ひどい話だね」
ま、でも君の顔を見て、嫌な気落ちなんて全部吹っ飛んだけどね。
今までの思慮は何処に行ってしまったのか。思考すら面倒そうな彼は、あくまで関羽中心だ。
関羽は眉間に皺を寄せ、俯いた。
「諸葛亮、早く済ませてよ。僕は早く彼女と二人っきりになりたいんだ」
「では、手短に。我々は、江夏に入ることにする」
「江夏? それって、劉キ様の城だろ」
「ああ。曹操軍からただ逃げるだけならば我々は江陵城を目指せばよかった。しかし、今回の戦いで恐らく曹操は本気で我々を討伐する気になっただろう」
幽谷が倒れた後にも続いたのかは分からないが、あの劉備に二度も殺戮(さつりく)を許している。なまなかな攻めではいけないと、当然判断するだろう。今まで以上に激しく、劉備を殺す勢いで、攻め寄せるに相違無い。
「江陵城に立てこもるより江夏で劉キ様と合流する方が良い」
「……で、そっから呉に同盟を持ちかける……ってか?」
「ええ。無事同盟が組めれば、あなた方のお力も加わる。鈴の甘寧殿」
「おっと……知ってたか」
「鈴の甘寧、周泰、蒋欽の話は、以前から聞き及んでいましたから。それに、あなたもそのことを分かっていて名乗られたのでしょう」
甘寧に頷き、平然と答える。
甘寧は肩をすくめた。されど特に気にした風も無く周瑜を見やる。
「しかし……オレは劉備の姿を見てる。オレから見ても面倒臭い厄介者を勧めはしねえぞ。こっちだって色々面倒事を抱えてるんだ。自分のケツも老けねえ弱ガキの世話を焼くつもりはねえ」
「だが、猫族と同盟を結ぶのは呉にとっても有益なはずです」
「有益か? 呉の人間も殺される危険を伴ってまで猫族の力が欲しいと、そのように考えると思うのか? 若造よ。それともオレはガキのケツ拭く要員だと認識されてんのか。止めろよ、面倒臭い」
今の時点では、甘寧はどちらでもない。最終的な決断は周瑜や孫権に託すのだから、明確に決めないでいるのだ。
それでいながら敢えて厳しく言う。
しかし諸葛亮は退かない。貶されて憮然としている劉備を手で制しつつ、猫族を見やって言葉を続ける。
「いずれにせよ、まずは江夏をめざす。呉へ同盟を申し込むのも、それからだ。よろしいですね、劉備様」
「その前に、そいつ殺して良い? さっきからムカつくんだけど」
諸葛亮を押し退けて甘寧に近付いてくるのに、関羽が彼を鋭く呼ぶ。
幽谷と封統が甘寧の前に出ようとしたのを甘寧が声で制した。
前に立って冷たく見下ろしてくる劉備に、甘寧はしらけた顔で後頭部を掻いた。
「簡単な挑発にすぐに引っかかる。だからガキだっつんだよ。ケツの汚ぇ甘ちゃんが。関羽にいつまで拭かせるつもりだ」
「そんなに死にたいなら殺してやるよ。今す――――」
「平伏せ雑魚が」
一瞬である。
瞬きのうちに劉備の姿が消える。
関羽がぎょっとして駆け寄るが、恒浪牙が前に立って止めた。
甘寧の、九本の尾がゆらゆらと揺らめく。
その足下に、劉備は俯せに倒れていた。
裸足で、その頭を踏みつける。
「金眼の力を取り戻した程度で何最強面してやがる。てめえなんぞここで殺してやっても良いんだぞ」
「殺すって……止めて、甘寧さん!」
「……関羽。オレはお前に発言を許していない」
ぎろり。関羽を睨めつけた瞬間関羽がその場に座り込む。恒浪牙が支えた。咽を押さえてはくはくと口を開閉するのに甘寧は厳しくも恐ろしい顔を消さなかった。
「覚悟? そんなもん何処にある。覚悟し切れてねえからこの有様なんだろうが。ちったぁ考えろ。てめえらは皆同じ劉備だ、考えられない頭じゃねえだろう。長とは力だけで一族を守れるもんじゃねえんだ。そろそろ、自分の手でケツを拭けや」
「……っ!」
甘寧は足を退かし、恒浪牙を呼んだ。
「ついでに言えば、てめえに関羽を手に入れる資格はねえ。関羽も今のまま劉備の側に居続けるなら――――」
甘寧は関羽に歩み寄り、そっと耳打ちした。
瞬間、真っ黒な瞳が大きく見開かれる。
恒浪牙は無表情に未だ倒れたままの劉備を見、溜息をついた。
後頭部を掻きながら近付き、あやすように頭をぽんぽん叩く。
「とまあ、これが族長の先輩の言葉だ。良かったな。欲しい言葉をもらえたじゃねえか」
劉備は地面に爪を立て、その爪で恒浪牙に襲いかかった。いとも容易く避けられたが。
恒浪牙は彼が立ち上がったのに手拭いを渡し、関羽の隣に立った。手を貸し、立ち上がらせる。劉備が近付こうとすると間に入って阻んだ。年頃の女の前で汚れた顔を晒すな。礼儀だろうが。叱りつけて顔を拭くように促す。
それを眺めていると、甘寧が隣に戻ってくる。
一旦話が途切れたのを見計らって、
「……それじゃ、オレたちはここでお別れだ」
周瑜が話を切り出した。
「もともと、こんなにつきあうつもりもなかったんだ。ま、アンタがいたからな……」
「え?」
関羽が周瑜を見やると、劉備が周瑜を睨めつける。嫉妬心と殺意がありありと浮かぶ鋭利なそれに、「そんな睨むなって」周瑜が真顔で返した。
それを、封統が孫権の前に立って遮る。
孫権に接近し、何かを耳打ちした。孫権が小さく頷くのを確認して、元の位置に戻る。
「気を付けろよ。曹操軍の間者がいるかも分からない」
「ああ。幽谷のこと、頼んだぞ。……また、近いうちに会えるだろう。それまで、元気でな!」
「幽谷のことは君に言われるまでもない。良いからさっさと行け」
ぞんざいに片手を振って二人を促す。
周瑜は肩をすくめ、幽谷にも「無理はするなよ」と声をかけて孫権と共に去っていった。
その後に横たわった沈黙は、とても気まずく、重たかった。
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