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水から引き上げられる急激な浮上の感覚は、二度目だ。
幽谷はゆっくりと目を開け、その人物を視界の中央に認めた。
あの時は兄だったのに、今自分を抱き上げているのは兄ではない。
彼はほっと安堵すると幽谷を抱き上げたまま水から上がる。地面に横たえ、胸の辺りを確かめるように撫でた。
「……完全に、癒えたな」
「しゅ……ゆ、」
「無理して喋るな。取り敢えずあっちが落ち着くまではここで寝てろ」
頬を撫でられ、諭すように微笑まれる。
幽谷は瞬きで了承を示し、瞼を下ろした。眠りはしないが、今まで眠っていた所為で日差しが鋭く突き刺さるのを遮りたかった。
周瑜は幽谷の顔に張り付いた髪を優しく指で退かした。
その感触を感じながら、自分が何故眠っていたのか、水に入っていたのか、記憶を手繰る。
答えは、存外すぐに出た。
劉備が、暴走したのだ。
それを止めようとして彼の前に飛び込み、その爪の刃を胸に受けた。狐狸一族であり、四霊である幽谷だったから、助かったのだ。
胸を突き刺された直後に、昏倒したのだったか。記憶がそこで途切れているから、きっとそう。
自分でも、あれはさすがに無茶なことだっと自覚している。
嗚呼、また孫権様に説教を受けてしまうだろうか。尚香様に知らされなければ良いのだけれど。
細く吐息を漏らした幽谷は、こちらに近付いてくる足音を聞きつけ瞼を押し上げた。過敏に感じる日光を手で遮り身を起こそうとすると周瑜に肩を押さえつけられ阻まれる。
「そのままで良い」
母の声だ。
目玉を巡らせその姿を認める。彼女は幽谷に穏和に笑いかけた。
「周瑜、傷は」
「完全に塞がった」
「そうか。じゃあ、もう暫くお前は猫族と行動を共にしろ。周泰は蒋欽達に連れ帰らせる。オレも、新野の民を連れて里に戻るつもりだ。護衛はお前と封統、そして婿に任せる」
「甘寧!」
周瑜が声を荒げるのに、甘寧は片手を挙げた。
「お前に口を挟む権限は無い。こいつはオレの一族だ。お前はお前の仕事をやれ。孫権も、見定める為に来たのだろう」
「だが、あの時の劉備の近くにこいつらを、」
「安心しろ。あれは馬鹿だが、馬鹿なだけに封統と幽谷は傷つけられねえよ。それに婿も、あれに後れを取ることは無い。それは三百年前に立証されてる」
甘寧は幽谷の側に膝を付くと、優しく額を撫でた。
途端、全身がぽうっと温かくなり、軽くなる。身を起こせば、いつもより少し好調なくらいだ。
幽谷は甘寧に拱手し、立ち上がった。
周瑜が慌てた風情で、支えようとするのを手で制し、しっかりと立ってみせる。
甘寧は表情を引き締め、猫族達の方を見やった。
人間達は、もういない。
「人間だけじゃなく猫族全体にも劉備の暴走を脚色をつけて見せつけた。結果人間達は劉備を恐れ、オレ達の保護の下安全地帯に逃れることを即決したばかりか、猫族の中にも劉備に対する恐怖心は芽生えた。これによって劉備は更に追い詰められることになるだろう。荒療治になるが、これくらい乗り越えられてもらわなければ困る」
「それは……」
それはあまりに無情ではないか。
そう思いはしたが、幽谷は口には出さなかった。劉備の中にある金眼の力は強く、幽谷にすらどうこう出来るものではない。
甘寧も脅威を感じ、そのような判断に思い至ったのだろう。嘗ての盟友である男の子孫であるからと自分達を遣わした彼女と、今の彼女は思考が切り替わっているように思えた。
「特に、あいつにとって関羽は毒だ。どうも、関羽が、劉備の暴走に関わっている嫌いがある」
「毒……ですか」
「あれが変わらないことには、劉備も変われそうにない」
「おい、そんな言い方は無いだろ」
「若造は黙ってろ。事態は、お前らが見てる以外でもヤバい方向に向かってんだ」
甘寧は腕を組み、猫族の方を見やった。
「……どうせ、孫権に後で話しておくべき事柄だったからな。劉備にも先に話しておくつもりだったが、今のあいつには話せん。だから、お前らに先に言っとくわ」
目を細め、甘寧は溜息を一つ。
「猫族は金眼を討ち果たした劉軍の子孫だ。金眼は三百年前、人間達の負の思念が滞留した龍脈から生まれた大妖の中でも最もおどろしき存在――――と、思われている」
「違うのか?」
甘寧は首肯する。一瞬だけ遠い目をして、天を仰いだ。
「嘗て、人間を愛し、愛した人間に狂わされ、邪に染まった天界の者がいた。そいつは龍脈に堕ち、永(なが)い時間の中より邪気にまみれ、金眼達と共に世に出現した。そいつは金眼と違い、とある場所に封じるだけで精一杯だった。そしてその封印も、永く保つものでもなかった」
周瑜が眉間に皺を寄せる。嫌な予感しかしない、と唇を歪めた。
幽谷も同じ印象を持った。そのような言い方では、もう封印が限界に来ていると言っているようなものではないか。
「母上。まさかとは思いますが、その封印が解けかけていると」
「いや、もう解けて何処かに潜んでやがる。そう報告があった。周瑜、これを聞いた上で孫権とよくよく考えろ」
もし劉備が金眼に負ければ、最悪この世に三体、三百年前の災厄をもたらす大妖が現れることになる。
甘寧の言葉に、疑問が生まれる。
……三体?
二体ではないのか?
「残り一体は?」
「そいつの所在が掴めてねえんだ。本当に出てくるかも分からねえ。だが……出現すれば金眼と合流して暴れ回るだろうことは間違い無い」
甘寧は首筋を撫でながらまた周瑜を呼んだ。
「曹操に下るのならばお前と孫家の人間はオレ達が保護し、守ってやる。猫族と同盟を結ぶつもりなら――――危ない賭に出なければならないと覚悟しておけよ」
「その代わり、金眼や、その大妖については動いてくれるんだろ?」
「ああ。劉備を追い詰めるだけ追い詰めて問題点見つけて放置ってのはさすがにする訳にはいかねえしな。一旦帰るが、近いうちまた猫族に合流するさ。劉備には口五月蠅くしとくつもりだ。関羽(どく)にもな」
毒……。
関羽は本当に毒なのだろうか。
幽谷は心の中で、疑問に思う。
確かに彼女は劉備に対して非常に過保護であり、依存している節も見受けられる。本当に支えられてはいないのではないか、と思えてしまうこともあった。
でも、だからって毒と言える程だろうか。
問いたげに甘寧を見つめていると、娘の内心を悟ったのか、甘寧は笑った。
「幽谷。珍しく顔に出てっぞ」
「……申し訳ありません」
「いいや、可愛いよ。……毒ってのはな、転じて薬にも成り得るものだ。関羽が良い方向に変われれば、後は楽に円滑に良い方向に持って行ける。劉備の精神は彼女の影響を強く受ける。それを利用すれば、容易いのさ」
変えるのが、難しいんだかな。
このことは関羽自身が気付かなければいけない。
甘寧は肩をすくめ、背を向けた。
「幽谷、周瑜。戻るぞ。そろそろ劉備が諸葛亮との話を終える。劉備は、曹操と対峙していた時の記憶は曖昧だ。そのつもりで接しろよ」
「はい」
幽谷は周瑜を視線で促し、歩き出す。
周瑜が渋面を作って隣に並ぶのに、構わず前方を見据えた。
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