甘寧は劉備に悠然と歩み寄り、頭に手を翳した。
 途端、彼は身体を大きく跳ね上がらせてその場に倒れる。
 関羽が駆け寄ると、関羽にも手を翳す。
 反射的に目を瞑るも、特に衝撃も痛みも無く、劉備のように気絶することも無かった。

 恐る恐る目を開けると頭を撫でられる。


「ただ、オレ達にとって都合の悪いことを忘れてもらっただけだ。劉備は、精神的に落ち着かせる為に眠らせてある」

「え、あ……」


 甘寧は李典に庇われる曹操に向き直った。
 瞬間――――その長身が揺らめく。瞬き一つの間に、その体躯は縮んだ。

 目の前にいるのは、関羽よりも小さな、小さな、少女だ。
 褐色の肌に赤い髪は甘寧と全く同じ。
 でも――――。

 頭に天に向かってぴんと立った狐のような耳、尾骨の辺りから生えたふわふわの尻尾が九本が、彼女が人間でないことを主張する。


「あ、あなたは……」


 思わず、問いかけた。
 少女は肩越しに振り返り、にぃっと口角をつり上げた。それは、甘寧の笑みと全く同じだ。
 ……この女の子が、あの甘寧……?
 とても、信じられない。あまりにも正反対の姿だ。

 まじまじと観察していると、甘寧の足下から伸びた影がぐねりと独りでに動いた。

 反射的に身構えればその中から真っ黒な手が現れ地面に触れる。力を込めて影の中からまた影が生まれた。

――――否。違う。


「……ったく、何で僕が十三支なんぞの為にこんなことを……」

「封、統……」


 ぎろり。影は――――封統は関羽を睨めつける。


「気安く呼ぶな。吐き気がする」


 冷たく吐き捨てるのは間違い無く封統だ。甘寧の隣に立ってぐるりと首を回す。首筋を撫でながら曹操と李典を見やり、隻眼を細めた。

 曹操が、いつになく目を見開いて封統を凝視していた。うっすらと笑みが浮かんでいるように見えるのは、関羽だけだろうか。

 封統は興味が無さそうに甘寧を見下ろした。


「で、どうすんの。長」

「相手の出方次第だな」

「長? 長って、甘寧は、」

「オレが狐狸一族の長だよ」


 片手を振ってあっさりと明かす。
 曹操と李典がぎょっと彼女を見るのに、封統が呆れた風情で溜息を漏らす。


「本当、あんたの考えてること分っかんないわ」

「それ周瑜達にもよく言われる。普通にしたいことをやってるだけなんだがなぁ」

「要は素であんたが訳分かんないってことか」

「お袋を虐めんなよ。随分と遅い反抗期か?」

「勝手に言ってろ」


 甘寧は笑声をこぼした。愛おしげに、面倒そうにしている封統を見上げ、目を細めた。
 かと思えば腕組みして曹操を呼んだ。


「で、どうする? 手を出すのなら、狐狸一族が総出で迎えてやるけど」


 解いた両手を広げてみせる甘寧に、曹操は眉間に皺を寄せる。関羽と封統を見やり、舌を打つ。

 李典は汗を滲ませた顔で曹操を振り返った。


「曹操様。先にお戻り下さい。不利です」


 俺が念の為に暫く残りますから。
 危険を承知で、李典は言った。自分の身よりも曹操の安全を優先する彼に、曹操は暫し沈黙し、徐(おもむろ)に頷いた。


「……分かった。お前もすぐに戻れ」

「分かってます。狐狸一族相手に下手なことはしませんよ。劉備だって、本当に寝ているかも怪しいところですしね」


 肩をすくめて、余裕を装う。それが曹操を安心させる為の気遣い、虚勢であるとは曹操自身も分かっているだろう。
 曹操達にとって大きな脅威である劉備と、存在すらも分からない伝説扱いであった筈の神の一族が敵として対峙しているとなれば、無茶は出来まい。自分が無茶をすれば、李典が命を懸けて主を守ろうとすることなど目に見えている。

 曹操は劉備を睨み身を翻した。大股に立ち去っていくのに、李典は安堵したように吐息を漏らした。
 そのままじりじりと後退して暫く、身体を反転させる。

 それを甘寧は呼び止めた。


「おいおい。何の為に術を弛めたと思ってる。このまま帰れると思うなよ。《利天》」


 関羽は一瞬聞き間違いかと思った。もしくは、甘寧が発音を間違えたか。
 今、彼女が発した人名は李典ではなかった。別の名前だったように思う。
 甘寧を呼ぼうと口を開くが、不意に背後に誰かが立ち容赦無い怒声に思わず悲鳴を上げた。


「おいクソババァ!! 何でテメェここにいやがんだゴラァ!!」


 関羽を押し退け――――存外優しかった――――甘寧にずかずかと歩み寄るのは、恒浪牙だ。いつもの姿ではなく、博望坡で劉備を止めた時の破落戸(ごろつき)のようなそれ。
 けれど物騒な得物はそのままで。

 憤懣(ふんまん)やるかたなしと言った風情の彼は、甘寧の肩を掴んで汚い言葉遣いで彼女を責め立てた。

 それを、甘寧はにこやかに受け流してしまう。


「婿、懐かしいなその格好。そっちの方が気持ち悪くないぞ!」

「死ねクソ野郎」

「クソチビ黙れ」


 封統は顎を反らしはっと鼻で一笑する。

 恒浪牙は舌打ちするものの、やはり怒りの矛先は甘寧。


「何っで里にいねえんだよ。行って誰もいねえでびっくりしたわ。この怒りを何処にぶつけていいか分からなくて余計腹立ったわ。ついでにたまたま来てやがった圭春(けいしゅん)如きに『うわー、ぼっち?』とか言われつつ憐れまれたわ!! 同情ついでに送られた俺の気持ち分かるか!?」

「分かんねえ!」

「だろうな!!」


 頭を抱えて恒浪牙はやり場のない怒りを呻きに乗せる。
 無事であるようで安心はしたけれど……。


「あの……こ、恒浪牙さん?」

「あ? 何――――」


 恒浪牙が関羽を振り返った、その直後である。
 彼は関羽と目が合った瞬間眼孔鋭く身を翻した。狼牙棒を前に持ち、玉響(たまゆら)の一閃を受け止める。

 李典である。


「……『恒浪牙』か。懐かしい名前だな」


 冷めた目で恒浪牙を見る彼は、先程までとは様子を異(こと)にしていた。李典がどんな人物かは知らないけれど、まるで人が変わったかのような、そんな印象を受けた。

 だが恒浪牙はその短い時間で何かを悟ったらしい。


「お前……!?」


 驚愕の声を上げた。
 李典はにやりと口を歪めて後ろへ跳躍。双剣を構えた。

 その姿にも恒浪牙は驚いた。


「その構え……何故お前がここにいる」

「忘れてねえようで嬉しいぜ。――――頭領」

「……利天」


 恒浪牙の声は震えていた。
 驚きで意識を揺さぶられている。

 利天。また、甘寧と同じ発音だ。
 何なの、一体……。

 周瑜を見やるが、彼もまた、困惑した風情で甘寧に視線で説明を求めていた。

 狐狸一族の長はただ、無表情に李典を見つめているだけである。
 関羽達は完全に蚊帳の外だった。



○●○

 圭春は麒麟の名前です。
 名前だけでも出したかったんです。


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