その軍旗を見た瞬間、老人は絶望した。

 もう何度、あのような旗に追われたことだろう。
 旗に書き込まれた姓は違うが、民にとっては同じ物。自分を追い詰める恐怖の旗だ。

 幼年、少年、青年、壮年――――老年に至っても戦乱は未だ途絶えない。人の欲望の果て無きを表すかのように、世は乱れ続けた。

 老人は、その場に座り込んだ。娘が孫を抱き上げて逃げて行く。元々、何かと反発の強かった娘には嫌われていた。可愛い孫が儂を呼んでいるが、あの子は話はしないだろう。
 だが、それで良かった。
 この長旅で、老いた身体は限界だった。走ったとてすぐに捕まって殺されてしまうだろう。

 もう良いのではないか。
 もう自分は十分すぎる程生きた。
 少年の頃、助けてくれた狐狸一族の大男のおかげだ。彼が助けてくれたから、自分は今日(こんにち)に至るまで生き延びるっことが出来たのだ。
 あの狐狸一族の娘さんに会うことが出来たのも、きっと天帝が死に逝く定めの儂に情けをかけてくれたからに相違無い。
 有り難いことだ、有り難いことだ。
 老人は両手を合わせ天へ向けて感謝を捧げる。

 有り難うございます、わたくしには勿体無い人生でした。ここまで生き延びられたこと、最期にお情けをかけて下さったこと、心より感謝申し上げます。
 軍は近付いてくる。最後尾の儂はここで終わる。
 それで、良いのだ――――。


「じいちゃん!!」

「……! なんと……」


 老人に抱きついて引っ張ってくるのは孫だ。娘に抱き上げられて逃げていた筈の孫ではないか。
 老人は目を剥いて孫を突き放した。逃げなさいと怒鳴りつけるも、追いかけてきた娘が引き剥がそうとするも、老人から抱きついて逃げようとしない。


「母ちゃん達よりもじいちゃんと一緒が良い! まだふーり様のお話聞きたい!!」

「何を言っているの! 死にたいの!?」


 曹操軍は近付いてくる。
 母親はそれを見て青ざめた。必死に剥がそうとする。父親は……何処にもいない。一人で逃げたようだ。あの男の器なら、そうなってもおかしくはないか。

 孫はしかし離れない。


「じいちゃんを見殺しにする母ちゃんと父ちゃんなんて嫌いだ!! じいちゃんは母ちゃんのこと大好きなのに、いっつもいっつもご飯少なくしてるじゃないか!! 知ってるんだぞ、外でじいちゃんの悪口ばっか言ってるの! じいちゃんの作った籠で金稼いでるくせに! 父ちゃんは働いてないじゃないか!」

「……っ」


 娘は顔を真っ赤にする。
 娘は、非常に高飛車な性格に育った。自由奔放で我が儘な母親に似てしまった。まだ娘が小さい頃に一方的に離縁して離れたが、それでも遅かったようだ。
 男を見る目も、無い。

 緊迫した今になってそれを後悔する。
 嗚呼、落ち着いていられるのは儂が今から死ぬからだ。だから孫達を逃さねばなるまい。
 娘は孫を剥がして頬を叩く。泣き出したのを強引に連れて行った。それで良いのだ。

 少年の頃、彼の両親は目の前で死んだ。
 今度は自分がここで死ぬ番だ。娘と孫が生きていてくれるのならばそれだけで良い。
 儂は十分に生きた。
 ここで死ぬのが寿命なのだと、受け入れようではないか。

 目を伏せた、その直後であった。


「大兄貴ー、この爺どうする?」


 状況に似付かわしくない、暢気な声が聞こえた。



‡‡‡




 開いた視界には頭に真っ赤な布を上腕に巻き付けた大男が三人。
 うち真ん中が最も背が高く、がたいが良い。曹操軍の方を向いているが、一見大岩の塊にしか思えない。
 彼よりも背の低い二人が老人を見下ろし、頬を掻いていた。

 驚くべきは、三人の耳だ。
 こめかみから突き出したそれは赤く、先に行けば段々と黒くなっていく。まるで、狐のそれである。
 獣の耳――――幽谷という、狐狸一族の娘と同じ耳。

 少年だった儂を助けて下さった狐狸一族の方と同じ耳ではないか!

 胸に沸き上がるそれは熱い。
 熱さは全身を巡り、涙腺が刺激される。つんとした痛みを感じた。
 一番背の高い大男は老人を振り返り、青い目を見開いた。


「これはまた……奇縁と言うべきものか」


 老人は、自分でも目玉がこぼれてしまうのではないかと思うくらい目を見開かずにはいられなかった。


「あ……あなた様は……っ!」


 声が震える。掠れる。
 痙攣する口を抑えんと顔を押さえながら、老人はその大男の顔を見上げた。

 頬に走る太い傷痕。
 大きな犬歯。
 首を覆う火傷の痕。

 ……間違い無かった。


「前は子鹿のようにぷるぷる震えておったが、今は老いてぶるぶる震えておるではないか。子鹿よ」


『今のお前は子鹿のようだな。子鹿、生きたいならばこの袋も持って行くが良い。なに、次会った時にでも返してくれれば良い』


 声も、同じだ。
 姿も同じ。
 大男はにっと口角をつり上げた。


「蒋欽(しょうきん)……様……っ!!」

「ほお。まだ耄碌(もうろく)しておらなんだか、子鹿」


 蒋欽は、にっかと笑って老人に向き直った。
 老人を肩に担ぎ上げる。


「さぁて、お袋の命令だ。新野の人間達を余すこと無く一カ所に集めて守れ!!」

「「「おう!!」」」


 嗚呼、そうだ。
 あの時もこうやって肩に担がれて、安全な場所まで連れて行ってくれたのだ、彼は。

 老人は涙を流した。涙を流し、嗚咽を漏らした。
 何という僥倖(ぎょうこう)だろうか。
 狐狸一族の娘だけでなく、助けて下さった本人にも会えるだなんて!!


「嗚呼……もう死んでも良い」

「おいおい、それは困るぞ。ここで誰かが死ぬと儂がお袋に怒られてしまうではないか」


 生かして下さるのか。
 また、わたくしを生かして下さるのか!
 嗚呼、嗚呼!
 なんと嬉しいことだろう。
 一度ならず二度までも助けて下さるか。

 嗚呼、なんという、夢のような僥倖だ。


 本当に……生きていて良かった。
 老人は、いつまでも感涙を流し続けた。


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