孫権と周瑜は愕然としていた。
 援軍を連れて戻ってきたところに、強い閃光に目を焼かれ瞼を閉じていたうちに劉備らしき影が大量の人間を殺していた。

 何が起こったのか、把握することを頭が拒絶する。


「これは、どうなってるんだ……? おい、あれはいったい何なんだよ!」


 周瑜の側で、諸葛亮が囁くような声で苦しげに劉備であると告げる。

 信じられなかった。
 周瑜も孫権も、温厚で寛恕(かんじょ)な姿しか見ていない。
 けれど聞こえる高らかな笑声は、今まで見てきた彼とはかけ離れた――――否、正反対の狂気が滲んでいる。

 劉備の近くには幽谷がいた。
 あのままでは幽谷も危ういかもしれない。
 咄嗟に甘寧と封統の姿を探すが、家族の危機を決して許さぬ筈の狐狸一族は何処にもいなかった。
 舌打ちして幽谷のもとへ向かおうとするが、


「諸葛亮! 戻ったのか!」


 青ざめた張飛が諸葛亮へ駆け寄る。誰の血か、その衣服はべったりと赤で汚れていた。


「張飛。ああ、劉キ様に援軍をお借りすることができた。だが……少々遅かったようだな」

「曹操軍に襲われて……人間が沢山殺されちまった。その上、劉備が……」

「ああ。そのようだな……、っ!!」


 と、劉備が曹操に襲いかかる。
 それを、幽谷が間に飛び込み劉備に向き直る。


「……っ幽谷!!」


 呻くような声に周瑜ははっと隣を見やった。
 今まで孫権の側に従順に控えていた周泰は珍しく、苦しげに血色悪く身体を曲げている。異常な程に汗を掻いている彼の様子に、いち早く気付いていた孫権が周泰の身体を支え顔色を窺う。諸葛亮がいる手前、声を上げて注目を引く訳にはいかなかった。


「おい、周泰! しっかりしろ! 大丈夫か!?」


 肩を揺する周瑜の手を、震える周泰の手が掴む。汗でぬるりとしたそれは爪を立て、己から剥がそうとする。
 周泰は周瑜を睨め上げ、幽谷へ手を伸ばした。
 その意図を汲んだ周瑜は頷き、彼の手を剥がして駆け出した。



‡‡‡




 曹操の前に立ち、《受け止める》。
 劉備の爪を、胸で。
 幽谷は目を細め、奥歯を噛み締めた。

 劉備は目を見開き、すぐに爪を抜いた。
 その場に崩れた幽谷を、誰よりも早く関羽が駆け寄って抱き起こす。ごぼりと溢れた血が口からこぼれた。
 痛みは無い。
 ただ感じるのは、胸から広がる異常な熱だけだ。


「幽谷! 幽谷!! 駄目、しっかりして!!」

「が、は……ぁっ」

「傷……傷を塞がないと……っ!!」


 関羽が己の服の袖を裂いて傷口に当てる。
 しかし爪が貫いたのは胸、心臓だ。
 どんなに傷を塞いでも、心臓に損傷があったら助けられない。


「どうして……どうして君が止めるんだ!?」


 関羽の手を握り、幽谷は起き上がる。関羽が動くなと制止するが、従わなかった。


「……っ皆が……封蘭が、怯えますよ」

「幽谷! 話しちゃ……!!」

「……それ、に……あなたが、《関羽様》を……悲しませてはいけません」

「……!!」


 劉備は血の気を失った。


「封蘭……関羽、様――――っ幽谷、まさか……!」

「守ると……お決めになった、のでしょう?」


 前に進むのなら、強くお在りなさい。
 言いながら、幽谷は強い困惑を覚えた。
 私はどうしてこんなことを言っているのだろう。
 封蘭とは誰なのだろう。
 どうして関羽様と、呼んでいるのだろう。
 どうして、彼に諭すような言葉をかけているのだろう。

 私は、彼らとはそれ程親密ではない筈なのに、言葉だけがすらすらと流れるように出てくる。

 まるで、自分ではない誰かが身体を勝手に動かしているかのようだ。
 動いているのに、自分の意志は何処にも無い。

 劉備は絶望に顔を染め、頭を抱えた。数歩後退し、幽谷の名を繰り返す。
 関羽は正気に戻りかけていると察したけれど、それどころではなかった。今はそれよりも、幽谷の命だ。
 まだ何かを話そうとして吐血した彼女の口をそれ以上喋らすまいとして袖で塞いだ。


「お願いだからじっとしていて! でないと本当に――――」

「その心配は無ーよ」

「え……?」


 ふ、と影が落ちる。
 顔を上げると、そこには褐色の肌の青年が。


「か、甘寧さん……?」

「よう。お疲れさん」


 にっかと笑い、彼は関羽の側にしゃがみ込む。



‡‡‡




「幽谷の心臓はちいと特別製でな。その程度の傷なら心臓は無事だろう。ただ、少しの間修復する為に仮死状態になるだろうが」


 甘寧は関羽から幽谷を取り上げると、優しく彼女の頭を撫で何事か囁いた。直後、びくんと身体を震わせる。
 ぐったりと気を失った彼女の身体を抱えたまま、甘寧は身を翻す。
 そこには丁度、駆けつけてきた周瑜が。

 周瑜がいると言うことは、諸葛亮が劉キからの援軍を連れて戻ってきたのだろう。しかし、遅かった。


「このままお前が抱えとけ。周泰はぐったりしていただろう」

「……ああ。いきなりな」

「あいつのことは赫蘭に任せておけば良い。それよりも、そろそろこの茶番にも飽いた」


 甘寧はにやにやしながら曹操に笑いかける。

 曹操も李典も、彼の存在には全く気付いていなかったのか。


「何処から……」

「最初から近くで観てたんだが、気付かなかったか?」

「最初から……って、甘寧さん、どうして何も、」

「劉備の暴走を観たかったから」


 悪びれもなく、彼は言う。
 関羽は甘寧に詰め寄った。彼が少しでも動いてくれたら、劉備が暴走することも無かったかもしれないのに!
 そう抗議しようとすると、甘寧はまた事も無げに暴露するのだ。


「ああ、そうそう。最初の状態じゃ幽谷に阻まれて劉備暴走しなかったかもしれなかったから、少し曹操軍に手を加えもしたな」

「な、なんてことを……!! あなた狐狸一族の人なんでしょう!?」


 失望した。
 みんな苦しんで、逃げまどって、劉備だってこんなことに……なのにこの人はそれをこんな風に笑って傍観していたと言うの!?。
 胸座を掴もうとすると、甘寧は関羽の手を弾く。そして曹操を見て笑声を立てるのだ。


「何がおかしい……?」

「いやな、あの時の坊主ももうここまでデカくなって、立派になったのかと思ってな」


 片手を挙げ、関羽を背後に追いやる。
 そして、


「お前の母親のこと、本当に残念だった。花でも供えてやりたかったよ。結局は最期まで曹嵩に囚われ陵辱された哀れな哀れな娘だった」


 直後、曹操は姿を消した。

 それは玉響のことだった。
 瞬くよりも速く彼は甘寧に襲いかかっていた。
 だが、それを容易く受け止められている。


 見えない壁に。


 曹操は驚き数歩後退した。

 李典が異常さに得物を構えて曹操を庇い立つ。
 甘寧は李典を見、一瞬目を細めた。けれども何も言わずに曹操に視線を戻す。


「曹操よ。お前達は誰を殺したんだ?」

「何を、」

「お前達は誰一人として殺せてはいないよ。この場で死者は一人として存在しない」


 関羽は目を剥いた。
 死者は一人として存在しない――――どういう、こと?
 周瑜を振り返るが、彼も怪訝そうだ。

 甘寧は関羽を肩越しに振り返り、にっと口角をつり上げた。

 そして――――。


「もう良いぜ、封統」


 ぱちん、と。
 何処かで指を鳴らす軽快な音。

 途端に景色は揺らめいた。布が風にはためくように歪み、波紋を広げるが如(ごと)景色を変えていく。


「あ……!」


 振り返った関羽は顎を落とした。

 甘寧の言う通りだ。
 曹操軍を除いて死者は一人もいない。

 だって。

 だって。

 だって――――。


 そこに、新野の民が一塊になって、屈強な大男達に守られているじゃないか。


 大男達は皆、幽谷とよく似た耳をこめかみに持ち、上腕に真っ赤な布を巻き付けていた。



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