※注意!



 暗い紫色の装束を身に纏うその男は、夏侯惇や張遼などとは佇まいも雰囲気も別格であるように思えた。
 幽谷は匕首を構えて劉備の前に立つ。

 「そ、曹操!?」関羽も、驚愕の声を上げて偃月刀を構えた。

 曹操――――この男が。
 どうしてだろうか。
 彼を見ていると、何か……苛立ちのような感覚を覚える。初対面だけれど、嫌悪感めいたものに顔を歪めた。

 曹操は幽谷を一瞥してつかの間思案し、関羽を見やった。
 無表情に、


「お前を迎えに来た」


 言い放つ。


「なっ……! 迎えに来たってどういうこと……?」

「曹操……き……きみは……」


 掠れ震えた声を絞り出し立ち上がろうとする猫族の長を、幽谷と関羽で支える。

 弱り切った姿を見、曹操は鼻で一笑した。


「哀れな姿だな、劉備。己の力に振り回されるか。貴様の様な男の元にこの娘を置いておくわけにはいかない」


 曹操は嘲り関羽に素早く迫ると強引に肩を抱き寄せて劉備から引き剥がした。体勢を崩して倒れかけたのを踏ん張って耐える。


「この娘がいるべき場所は、私の隣だ。さあ、関羽よ。私と共に来るのだ」


 何だ……この男。
 関羽を見る目が、異様である。
 関羽に顔を寄せ、狂気を含んだ甘い声で囁く。

 関羽は赤くなった顔をすぐに青ざめさせ抵抗するも、片腕で拘束されて上手く行かない。


「そ、曹操……君の……目的は……」

「苦しそうだな、劉備。呪われし十三支の長よ」


 貴様の汚れた血になど、用はない。
 冷たく言い捨てて関羽を抱えたまま劉備から離れる。


「私が欲しいのは、選ばれた血をもつ、我が同胞のみ……」

「選ばれた血……? な、何を言っているの?」

「さぁ、来るのだ! お前ともう一人、同胞を手に入れたあとで、ゆっくりと劉備を始末してやる」

「も、もう一人……?」


 幽谷は劉備を座らせ、匕首を構えて曹操に襲いかかる。

 されど――――。


「曹操様!!」

「!」


 飛来した石を匕首で弾き、劉備の前にまで退がる。
 曹操の隣に立ったのは、無造作に跳ねた髪をした痩せ形の若い少年である。腰の両脇に細身の剣を差している。初めて見る武将だ。
 彼の後ろには、従えてきた兵士達がずらりと並ぶ。


「ご無事ですか」

「李典か。夏侯惇は?」

「やはり怪我が響いているようです。代わりに俺が曹操様の護衛を」


 李典と言うらしいその少年は、曹操の抱き締める関羽を見て眉を顰めた。手にした槍を構え幽谷を相対する。


「十三支とは違う獣の耳を持った四霊の女……彼女ですね、夏侯惇殿がご執心なのは」

「ああ。それは任せるぞ」

「……無茶言わないで下さいよ。夏侯惇殿で手を焼く相手が俺に捕まえられる訳ないじゃないですか……って、しれっと十三支の長もいるし!」


 曹操様、自殺行為は慎んで下さいよ、本当に……。
 困り果てた風情で後頭部を掻き、幽谷を見やる。不快そうに顔をしかめた一瞬、瞳の色が変わったような気がした。気の所為だろうか。


「槍……じゃない方が良いか」


 李典は槍を地面に放り捨て、すっと剣を抜いた。双剣だ。番(つが)いのような装飾を施されたそれを構え、背筋を伸ばす。

 が、李典は幽谷ではなく劉備を見、目を丸くした。曹操の前に立って剣を胸の前にて交差させる。

 幽谷が劉備の様子を確かめる暇も無かった。


「う……ああああああああああっ!」


 苦痛の咆哮が、上がる。
 劉備から膨大した邪気が放たれるのと、視界が真っ白に染め上げられるのはほぼ同時だった。

 困惑の声を上げる李典と曹操、絶望に声を震わせ劉備へ制止をかける関羽。
 彼らの姿も、白い光に呑み込まれた。
 眼球を突き刺すような強烈な光に幽谷は目を伏せる。

 劉備を呼べば、後ろから誰かに頭を撫でられた。


「大丈夫だよ。幽谷も、僕が守ってあげるから」


 ぞわりとしたのは、悪寒だ。
 言葉だけならそれは温情に溢れたもの。
 けれど声を伴ったそれは……明らかに狂気と歪な欲望を孕んでいた。


「お――――」

「君はもう犠牲にならなくて良いんだ。僕が君と関羽を守ってあげる」


 直後、関羽達が悲鳴を上げる。
 光が収まり目を開けると、曹操軍兵士達がごっそりと消えていた。
 李典が唖然とし、曹操が憎悪のこもった目で劉備を睨みつけていた。

 劉備は――――隣だ。
 身体を舐めるような濃密な邪気の側に立ち、悪寒が止まらない。
 思わず数歩彼から距離を取ると、劉備は「どうしたの?」なんて、にこやかに問いかけてくる。

 以前よりも、邪気が強いように思えた。


「長……」

「そ、曹操様……っまさかこれが」


 戦慄に戦(おのの)く李典を、曹操が背に庇う。さしもの彼も関羽を放し剣を構えた。


「曹操様! お、俺が、」

「いや、お前は退がっていろ。早死にするぞ」


 曹操は剣の滲んだ顔で劉備と対峙する。

 劉備は幽谷に退がっているように《優しく》言うと、爪を伸ばして顎を軽く反らした。さらりと銀髪が肩から落ちる。


「……正体を現したか、悪魔よ」

「……やあ、曹操」


 久し振り。
 劉備は口角をつり上げ、あっと声を上げた。


「いいや、今の君の記憶なら……この姿で直接君に会うのは初めてだったかな。ふふ、はじめまして、だね。そして、サヨナラだ。君は僕を怒らせた。彼女を連れていこうだなんて冗談でも許せないよ。君にはもう、関羽は渡さない。《昔》と《今》は同じじゃないんだからね」

「今の私の記憶? 《昔》と《今》? 何を言っている……?」

「そう、覚えていない。覚えているのは僕だけなんだ。だから関羽も、全てを忘れてこうして僕の傍にいてくれている」


 劉備はそこで、高らかな笑声を上げるのだ。


「楽しい! 楽しい気分だよ、曹操! 君を、なぶり殺せるなんてね! 君には沢山迷惑をかけられたからね、記憶が無いって言うのは理由にはならないよ。さあ、最初はどの部位をもらおうかな?」

「りゅ、劉備、記憶が無いって……何を言っているの?」

「関羽。君は何も気にしなくて良いんだよ。僕が守ってあげるから。勿論、幽谷もね」

「わ、私……?」


 何故そこで自分も含まれるのか分からず、幽谷は眉間に皺を寄せて首を傾けた。

 劉備は幽谷を見、微笑む。

 彼が何かを言おうとした幽谷を遮るように、


「曹操様ー!」


 新手が現れた。
 李典が「来るな!」声を張り上げる。

 だが遅い。


「ぐあああああああ!」

「ああ!!」


 首が、飛んだ。

 一瞬のことだった。
 一瞬で、その爪が太い男の首を切断したのだ。

 関羽が口を塞ぎ悲痛に叫ぶ。

 李典が青ざめ双剣を取り落とした。

 この場で嗤(わら)っているのは、劉備だけだ。


「いいね。悲鳴に……血に……、犬のように死んでいく人間たち! ははは! 何人でも、かかってくればいいよ。手ごたえがないと面白くないからね。いい声で鳴いてみせてよ! 断末魔の叫びってやつをさ!」

「劉備!!」


 関羽が叫ぶように彼を呼ぶのに、劉備は止まらない。
 劉備はひとたび地を蹴ると踊るように駆け抜け、駆けつけてきた兵士達を確実にしとめていった。殺戮が愉しいのだ、高らかな笑声は明るく弾んでいる。
 銀髪が鮮血と共に踊る。
 それを美しいとは思えなかった。
 博望坡と同じ光景が、今目の前で繰り広げられている。


「こんな程度でやられる、脆弱な命! ああ、人間はなんて弱いんだろう……」


 駄目だ。
 このままでは駄目だ。


「……れば」

 ……ければ。
 守らなければ。
 私が――――私が、


 私 が 《劉備様》 を お 守 り せ ね ば な ら な い。


 兵士の胸を貫き心臓を抉り出した劉備は、その心臓を曹操の足下へ投げ捨てる。
 彼が殺さんと曹操に襲いかかったのを、幽谷は間に飛び込んだ。



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