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最悪の事態はすでに予測されていた。
「封統。手筈通りにやれよ」
甘寧は欠伸しながら背後に立つ娘に命じる。
封統は組んでいた腕を解き大仰に吐息を吐いた。何で自分が、そう言いたげだ。
彼女は猫族と人間を心から憎む。それ故に彼らの為になることなど本心ではしたくないのだろう。
分かった上で、甘寧は命令を重ねた。
ややあって、封統は肩をすくめて無言で歩き去っていく。
甘寧は一人、無表情に顎に手を添え目を細める。
「劉備……オレの最低限の目算を狂わせないでくれよ」
冷たく、吐き捨てる。
‡‡‡
「蘇双、今どのあたりだ?」
張飛に問われ、蘇双は少し考えた後「もうすぐ長坂に差し掛かるよ」と答えた。
長坂――――未だ、江陵城は遠い。
幽谷は人間達を振り返って目を細めた。
「ほんと先は長いなー。これじゃ、いつになったら江陵へつくんだか」
「そもそも曹操軍って本当に来んのかな?」
「忘れたの張飛? ボクたち曹操のところから逃げ出して、博望坡で夏侯惇を撃破して、あげく新野城では火計で曹操軍を嵌めたんだよ。そこまでやられて、曹操がボクたちのこと放っておくわけないだろ」
「確かに、そうよね……。夏侯惇だって、まだ幽谷のことを諦めていないわ」
関羽が新野城の時のことを思い出しているのか、表情を厳しくして幽谷を見上げる。
夏侯惇は私情で軍律を乱すような人間ではない。だから曹操軍の動きに合わせて行動する筈……趙雲はそう言っていた。ならばきっと、追っ手の中に混じっている。火計で傷を負っているだろうが、きっと。
予感めいたものに、鳥肌が立った。
思わず外套の下で腕をさすり――――幽谷ははっと耳をぴんと立てて身体ごと後ろを振り返った。
「どうかしたの、幽谷」
「……ん? ちょい待ち。みんな静かに」
「張飛?」
張飛は蘇双達に黙るように言い、耳を澄ませる。はっとして幽谷を鋭く呼んだ。
幽谷は表情を引き締めて頷く。
「……曹操軍が、来ました」
「これは……馬蹄の音!? ってことは騎馬部隊が近づいてるのか!?」
「そんな……!!」
援軍は……まだ来ていない。
間に合わなかったのだ。
幽谷は劉備達に拱手して最後尾へと向けて駆け出した。後ろで張飛達が呼んでいたが、止まらなかった。
後ろに行けば行く程、はっきりと視界に映る曹の軍旗。
土煙から浮かび上がる、帯を為す騎馬軍団。
錚々(そうそう)たる彼らは、幽谷が最後尾に到達した直後に鞘から刃を抜いた。
幽谷は叫ぶ。
「戻りなさい!!」
馬ならば幽谷の言葉に従う。
案の定、彼らは足を止めくるりときびすを返した。
だが兵士達は混乱しなかった。
冷静に下馬して押し寄せる。
――――博望坡の経験からだ。
幽谷は舌打ちしてならばと眼帯に手をかけた。引き千切って投げ捨てる。
幽谷の目を見た兵士達は、一様に驚き口々に叫んだ。四凶だ――――と。
それによって兵士達の進みが止まる。
幽谷は目を細めて外套から匕首を取り出し地を蹴った。
四凶と言うだけでは長く引きつけられない。
ならば今ここに迫る者達を――――皆殺しにするのだ。
皆殺しに躊躇いは無い。
失われた記憶の中だけれど、何となく、今と似たような状況があって、その時も沢山の人間を殺したような、そんな気がするのだ。
だから、大丈夫。
幽谷は出せる速度を出し、曹操軍の中を駆け抜けた。
元いた場所に戻った直後に、敵兵士それぞれのの周囲がうっすらと赤みを帯びた。
血が吹き出したのだ。脈に合わせて血の紗幕を作り出す彼らはどうと倒れ逝く。
びくんびくんと痙攣を繰り返す者、呻き救いを求める者――――。
彼らを見ていると、いやに全身が熱くなる。
何故だろうか。
気分が、昂揚している?
この殺戮を悦(よろこ)んでいる?
……いや、違う。
ならば何だ、この熱は。
……分からない。
けれどこの感覚は、何だか懐かしい。
当然の光景――――そうだ。
人が目の前で死んでいく。自分の手に掛かって死んでいく。
それは当たり前の光景だった。
そういう世界に、私はいた。
……思い出す?
もっと思い出せる?
どくり、どくりと心臓が高鳴っていく。
自然と呼吸も早くなっていった。
思い出せそう。
その感触に、幽谷は状況も忘れて囚われかけた。
完全に意識が持って行かれなかったのは、後ろから引かれた腕の痛みの所為だ。
「幽谷!!」
「……っ!」
痛い程に強く掴んで引き寄せたのは、青ざめた劉備だ。酷く慌てた風情で幽谷の殺した曹操軍の兵士達を見渡し、唇を震わせる。
「お戻り下さい。あなた方は、狐狸一族の血に賭けて必ずお守りします」
劉備はまた更に顔色を悪くする。
彼が何かを言うよりも早く、幽谷は彼の身体を押した。後ろから追いかけてきた関羽へと押しつけ更に追いかけてきた兵士達に向かおうとした。
「駄目だ幽谷!! 君は――――君はもう僕達の為に命を殺さなくて良いんだ!!」
「劉備!? どうしたの!?」
「……?」
劉備の様子が何処か変だ。
幽谷は足を止めて劉備を振り返った。
彼は、幽谷の何かに恐怖している。
何に?
「劉備……っ?」
「僕は……、もう幽谷に助けられる資格は――――」
「きゃああぁぁぁ!!」
耳をつんざく悲鳴。
はっと首を巡らせると、遙か前方に横合い回り込んでいたらしい曹操軍が民に襲いかかっていた。
幽谷は愕然とした。
……何故、気付かなかった?
不自然なまでに仰々しい襲撃だ。幽谷が見逃す筈がない。
けども実際、曹操軍は新野の民を手に掛けていく。
力無き者達の血が、宙を舞い、歪な模様を地面に作り出す。
何人も、何人も、殺されていく。
幽谷はそちらに向かおうとして、殺した兵士達の奥からも押し寄せる曹操軍に舌を打った。
別働隊とは距離が離れ過ぎている。ここを離れれば劉備と関羽が狙われる。新野の民と猫族――――母の命令に従うのならば、優先すべきは後者だ。ここを離れる訳にはいかない。
けれどあのまま新野の民が殺されるのを見ているだけで良いのか。
甘寧は――――封統は何処にいるのだろう。この異変を察知している筈だのに、姿が何処にも見受けられない。
何故!?
幽谷の中で混乱と焦燥が混ざり合い、感情を荒立てる。冷静にならなければと思えば思う程に平静でいられなかった。
「や、やめてー!!」
斬りかかってきた兵士を斬り捨てた直後に関羽が悲痛に叫ぶ。
「おかあさああああん!! うわあああああ!!!!!」
「いたい! いたいよおお!!」
「こんな……こんなこと……!」
劉備が顔を両手で押さえ、髪を巻き込んで引っかく。うっすらと涙が滲んでいる。
「守らなきゃ、いけないのに……。僕が、守らなきゃいけないのに……うっ……ぐっ……」
「劉備!?」
「あ、ああ……あああ……」
――――ざわり。
幽谷の背筋を悪寒が駆け抜けた。
兵士の頭を鷲掴みにして大きく放り投げ相手が怯んだ隙に関羽に支えられる劉備に駆け寄る。
彼の身体から僅かに立ち上る黒き気配に息を呑んだ。
金眼だ。
金眼に支配されかけている。
こんなところで暴走されたら……!
「大丈夫! 大丈夫だから! 負けないで、劉備!」
「ああ……、人の…叫び声が……! 血の…匂いが……あ、ああ…………! 頭が、おかしくなりそうだ!!」
「劉備! 劉備! しっかりして!!」
「……関羽殿、気絶させます。側を離れぬよう」
暴走されるよりは良い。暴走して苦しむのは、彼だ。
幽谷は彼の背後に回ってうなじに向かって手刀を落とそうとした。
その刹那である。
「見つけたぞ、関羽」
第三者の声がした。
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