旅路は果てが見えず。削られるのは希望、募るのは不安。
 最初こそ励まし合っていた人間も猫族も、今や疲労と不安、焦燥に顔色は悪かった。
 そんな彼らが、ちゃんと夜眠れているのか……眠れたとしても軽いものかもしれない。

 幽谷は身を寄せ合って目を伏せる彼らを見回っていた。
 休め休めと言われていたが、まだ彼ら程の疲労は溜まっていない。それに、母の命令を守らねばならない。
 後は関羽と劉備の姿を確認するだけだ。
 そう思っていたところ、


「っ!」

「幽谷」


 腕を引かれて抱き寄せられた。
 見上げると、褐色赤毛の青年。にっかと笑って目を細めた。


「は――――大兄上」

「ん。間違えなかったな。偉い偉い」


 ぽんぽんと頭を撫でられる。
 甘寧は幽谷を解放すると、含みのある笑みを浮かべ背を向けた。


「関羽と劉備の姿を確認したかったんだろ? 行こうぜ」

「あ、はい」


 甘寧が知っているらしい。
 幽谷は疑うことも無く素直に彼に従った。



‡‡‡




 ……。


「ちゃんと休まないとダメよ。明日も、たくさん歩かないといけないんだから」

「わかってる。わかってるけど……どうしても眠れないんだ」


 関羽と劉備の会話が聞こえる。
 ……が、この状況は一体どういうことなのか。
 幽谷は自分を後ろから抱き込んで樹木の幹に寄りかかり座る甘寧を怪訝に見上げた。

 二人がいるのは、茂みの中だ。
 甘寧も幽谷も、茂みの枝葉の隙間から関羽と劉備の様子を傍観している。
 どうして隠れなければならないのか、甚(はなは)だ疑問である。
 幽谷は小声で甘寧に問いかけた。


「あの……何故隠れる必要が? これでは盗み聞きになるのでは……」

「安心しろ。盗み聞きに来たんだよ、オレらは」

「いえそういうことではなくて……」


 どうして自分達がこそこそとしなければならないのかが訊きたいのだ。
 困惑して甘寧の表情を読み取ろうとしても無駄だ。甘寧の考えていることは長兄や周泰にしか分からないだろう。ちなみに他の兄は元より気にしていないので論外だ。

 幽谷が罪悪感にいたたまれなくなっている間にも、彼らの会話は続く。


「本当にこれでよかったのかな……。僕たちと一緒にいることで、こんなにも彼らに辛い思いをさせてしまっている……」

「劉備。でもそれは、みんなが自分で決めたのよ。劉備は言ったわ。わたしたち猫族は曹操軍に追われる身だって。ここにいる人たちは、それでも樊城に残るよりわたしたちと一緒に江陵城を目指すことを選んだ人たちなのよ。劉備が無理矢理つれて来たわけじゃないわ。そんなに気にやまないで……」

「うん……。後悔しても仕方なかったね。それよりも、どうしたらみんなで無事にたどり着けるかを考えるべきだ。僕たち猫族と共に行くことを選んでくれたんだ。……ちゃんと、守りたい」

「ええ、そうね……」


 枝葉の隙間から覗いているので、彼らの表情は判然としない。けれど、劉備はきっと思い詰めた顔をしているだろう。彼の声は、低く弱い。


「僕は今までみんなにたくさん守られてきた。子供で、無力で……。でも、今は違う。これからは、僕がみんなを守っていきたい……」

「劉備……」

「だけど……、……僕は、いつかまた同じ過ちを犯してしまうかもしれない」


 彼は明かす。
 まだ、金眼の力を、未だ制御し切れていないと。暴走の恐れがあることを。

 劉備は恐れている。
 再び邪に染まり大量の命を手に掛けてしまうことを。
 幽谷は劉備が官渡の戦いで、どんな姿で、どんな顔で、どんな殺戮をしたのかを知らない。
 けれども張世平を殺した場面で、諸葛亮の部屋で、博望坡の戦いで、そのおどろしき姿を見ていた。どれも、そこはかとない濃密で惨たらしい闇そのものを感じた。
 他人の恐怖もさることながら、その力を秘めて誰よりも常に身近に感じていた劉備は、きっとそれ以上の、様々な感情が渦巻いている筈だ。

 誰よりも力に怯えているのは、劉備。

 つかの間押し黙った劉備が惑乱したように声を張り上げた。


「できない! できないよ、僕には! 僕は、きっと……きっと、また……!」

「劉備! 劉備! しっかりして、劉備!」

「あ……か、関羽」

「大丈夫。大丈夫だから。わたしが、あなたを守るから……!」


 頭上で、舌打ち。
 顔を上げれば甘寧が笑みを消し、苛立ったように唇を曲げている。


「……そう。いつも、僕は君に守られるんだ……。でも、僕は……僕が、守りたかった……」


 猫族のみんなを、ついて来てくれた人間たちを……そして何より、大好きな君を……。
 その為に、力を取り戻そうとしたのだ、彼は。


「この体になって、僕はそれができるって、そう思ってた。何もできない小さな子供じゃない……。成長を取り戻して、これからは僕が……僕が、みんなを守るんだって。だけど、だけど……。はっきりとわかる。僕の体の中で金眼の呪いは確実に大きくなっている。きっと、いつか……僕は、僕は……みんなを……」

「そんなこと、絶対にないわ! 大丈夫。大丈夫だから」


 関羽は劉備に縋るように抱きつき、必死に彼を宥めた。……やはり、子供に対する風に見えてしまうのはそれが関羽自身の認識だからなのだろうか。


「劉備、何度も言うわ。あなたはひとりじゃない。わたしもいるから、一緒に頑張りましょう。わたしも止めてみせるから……。金眼の呪いに屈しないように、ふたりで。いつでも、一緒に。だから、安心して。劉備……」

「関羽……僕は…………」


 また、舌打ちだ。


「大兄上?」

「……いや。予想以下だったな。あれじゃあまだ長とも呼べねえし、金眼を抑えようなんざ夢の中で見てる夢のようなものだ。何もかもが甘すぎる。あいつも、あいつの周りも」


 言葉だけなら何度でも口に出来る容易いものだ。
 甘寧は興醒めしたように幽谷を解放し、二人が野営地に戻るのに合わせてその場を後にした。

 幽谷は慌てて追いかける。

 それから暫く、甘寧の機嫌は悪いままだった。



.

- 87 -


[*前] | [次#]

ページ:87/220

しおり