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「ただいま戻りました」
千年もの時を生きる天仙恒浪牙は、住み慣れた屋敷に入り草臥れた裾をさばいて最愛の伴侶の部屋を訪れた。
扉を開ければ椅子に座って刺繍に悪戦苦闘していた妻砂嵐が夫に気付き、慌てて立ち上がって刺繍を隠してしまった。
「あ、あの、華佗様っ」
「淡華? 今、何か後ろに隠さなかったかい?」
「いいえ! 何もっ、何も隠しておりませんわ!」
必死の体で隠し通す愛妻に、恒浪牙はきょとんとした顔を作ってそれ以上追求することはしなかった。何を隠し、それが何の為のものか分かっているけれども、それでも妻の想いが嬉しくて誤魔化されたフリをした。心中で、慌てる姿を愛でながら、彼女の前に腰掛ける。
砂嵐は隠した物を櫃の中に裁縫道具と一緒に隠し、お茶を淹れると立ち上がった。
「もう記憶操作は終えられたのですか?」
「ああ。泉沈に頼んで作ってもらった《違う今》の世界にはなったよ。泉沈は先に戻って天帝に報告してる筈だから、じきにこちらに戻ってくるだろう」
砂嵐はお茶の用意を進めながら、視線を上げて記憶を手繰る。
「ええと……幽谷や犀煉が猫族に関わっておらず、なおかつ華佗様が猫族に接触した場合の未来、でしたね。ですが、華佗様が関わる必要があったのでしょうか」
「念の為さ。記憶の操作は入念にしたつもりだけれど、何かの弾みで思い出してしまうとも限らない。それに、猫族の長は……またあの姿に戻ってしまった。幽谷のしたことは結局、無駄になってしまっていたんだ。幽谷の代わりに彼らの様子を見守っていなければならないだろう」
嘆息を漏らせば、砂嵐は眦を下げる。美しい青の瞳が揺らいだ。
「まあ……やはり、幽谷の器には、」
「ええ。してやられたよ。封印する際すでに彼女の器に金眼の力は少しも残っていなかった。つまり、本体はあの中にいなかったことになる。金眼は、保険として本体の核を劉備さんの中に残していたのだろう。幽谷の行動は、全くの無意味だったんだ。無駄死にだ」
私も、やはり消耗していたが故に最後まで気付けていなかった。
恒浪牙は物憂げに目を伏せた。
――――幽谷。
砂嵐が最後に作り上げた四霊の器に生まれた自我の名前だ。
彼女は当初生まれる筈が無く、犀煉や猫族との接触の果てに芽生えてしまった予想外の意識であった。
それでも四霊として、猫族の長を侵す大妖金眼を自身の力で封じんとその身を擲(なげう)ったのだ。
あの後すぐに、彼女の死に際の願いを受け、恒浪牙は猫族や、幽谷達四霊と接触した人間達全ての記憶を消し、別の記憶を植え付けた。
それだけでは不十分と、泉沈に願って別の未来を偽造した。その為に、猫族の、混血の少女にして幽谷の主人であった関羽と言う娘は、愛した筈の混血曹操を敵と思い彼から離れてしまった。曹操もまた、関羽が混血であることを忘れ、幼く不安定な恋心も失った。
四霊にまつわる全てが、無かったこととなった。
折角結ばれた混血の男女を引き裂き無に帰すことに、幽谷を愛した男達の感情を消してしまったことに、幽谷を家族と思ってくれていた者達の思いを無かったことにしたことに、胸が痛まなかった訳ではない。自分がそれ程優れた存在でも、偉い存在でもないと分かってもいる。
けれどそうでもしなければ、関羽も他の者達も、ほんの小さな隙間から忘れなければならない記憶を引きずり出してしまいそうだったのだ。
幽谷の願いを聞き入れた以上、彼女らが思い出さぬように手は尽くす。それが、無駄死にした彼女への、せめてもの餞(はなむけ)だった。
泉沈の提示した形に仕上がった世界を一通り確認してきたが、またすぐに様子を見に人の世に降りなければならないだろう。
一番恐ろしいのは、恒浪牙のいないところで劉備が残った金眼の力を呼び覚まし、幽谷のことを思い出してしまうことだ。再び金眼に囚われた彼が幽谷のことを他者に思い出させない訳がなかろう。
思い出せば一番辛い思いをするのは関羽だ。彼女はきっと、自分を責め苛むに違いない。それは、幽谷が最も忌避したこと。何としても回避せねばならなかった。
「またそのうち猫族のもとを訪れるよ。いつ帰れるか分からないけれどね」
「そうですか……ではせめて、ここにいる時はお傍に」
「ありがとう」
妻に笑いかけ、恒浪牙は立ち上がる。
背後から彼女を抱き締め。首筋に顔を埋めた。口付けを落とせば砂嵐は小さく身体を跳ねさせる。
「ぁ……ちょっと、華佗様!」
「申し訳ない。今は無性に君に触れていた――――」
「邪魔するぞ、砂嵐」
……。
まるで見計らったように、不作法に部屋に入ってきたのは薄い青に煌めく銀髪の美しい、艶美な女性であった。
砂嵐が小さく悲鳴を上げるのに恒浪牙は小さく舌を打つ。
「クソ蛇がぁぁ……っ!」
「か、華佗様……」
地を這うが如き声に、砂嵐は苦笑し湯飲みを三つ程追加する。
女性の後ろにも、男性と少年が続いていたのだ。
「妙幻……もう少し待とうと言ったのに……」
「下らぬ。砂嵐、茶を出せ」
「はい」
「出て行け。そこのクソアマ即刻出て行け!!」
「やれ、五月蠅い芥(ごみ)がおる。砂嵐、放置したとて臭いだけぞ。腐った生芥はさっさと捨てるが良い」
「誰が生芥だ、誰が!」
砂嵐の頬に口付け、恒浪牙はさっきまでの穏やかな声音など何処へやら、乱暴な言葉遣いで妙幻と呼ばれた女性に敵意を剥き出しにする。
妙幻は片手を振るだけで返し、部屋の中で飛び抜けて豪奢な椅子に腰掛けた。
それに続き、長い黒髪を床近くまで流した中性的な美貌の男性が恒浪牙に拱手(きょうしゅ)する。
「いやはや……申し訳ない。君が戻っていると言ってはいたのだけれど……ああ、赫平(かくへい)は君に話があるらしいから一緒に連れてきたよ」
「あ? ……って、赫平、珍しく疲れてるじゃねえか。どうした」
「疲れたと言うより……少々馬鹿馬鹿しくなっただけだ」
珍しく普通に人間の姿をとった赫平は、泉沈に背中を叩かれ恒浪牙の前へと歩み寄る。
恒浪牙は眉根を寄せて炎を自在に操る少年を見下ろした。
赫平は大仰に息を吐き出し、
「赫蘭の居場所が分かった」
「おやまあ。良かったじゃないか」
赫平はぎろりと恒浪牙を睨め上げる。
「……良いものか」
「は?」
犀煉の身体を出てからずっと捜してきた最愛の妻。鳳凰の凰、赫蘭。
四霊は不要になった世界で、唯一彼女だけが戻ってきていない。器が生まれた時からその生死も不明だった。
それが見つかって嬉しい筈の夫は、しかし浮かない顔で言葉を続けた。
「見つかったのは……呉と言う、人間達の国だ」
「ああ、孫策の国か。……いや、今は死んで孫権が君主なんだっけか。あそこには伯母上もいた筈だろう。――――ん?」
恒浪牙は、そこでひくりと口端をひきつらせた。
「……あー……道理で、赫平に見つけられねえ訳だ」
「分かったか」
「身内として謝っとくわ。悪い」
「いや、お前の所為ではない。あの方の気まぐれはもう……どうにもならぬ故な」
互いに眉間を押さえ、俯く。
側で泉沈が何とも言えない顔で、苦笑する砂嵐に目配せした。
砂嵐は頷くと、もう一つ湯飲みを追加した。
それに気が付いたのは、二人以外には妙幻のみである。
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