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 断崖に挟まれた険しい道を通過する乾いた風が身体を強かに打つ。
 幽谷は自分の前後を歩く人間達の様子を窺いながら、時折耳も澄ました。まだ猶予はあるだろうが曹操軍の行軍音が聞こえてこないか、この時から危惧していたのだ。

 諸葛亮の提案によって、猫族と人間達は更に南下し軍需物資の豊富な江陵城を目指す。
 だが、その道は長く、人間達の足取りに併せての行軍である為歩みは非常に遅い。道途で曹操軍に追いつかれることは必定だ。

 その時になれば、自分達が真っ先に曹操軍を迎え撃つ。兄だけではなく、他の家族もいるのだから、容易く退けられるだろう。
 ……夏侯惇と、鉢合わせしなければ良いが。
 幽谷は肩越しに後方を振り返った。
 当然だが、列の最後尾の向こうにも、曹の旗は見えない。

 きっと、彼はまた自分を狙ってくるだろう。
 彼は夏侯惇とは顔を合わせたくはなかった。あの激情を向けられるのが怖い。

 昔の私を知っているかも――――それも、封統によって否定された。
 張遼という男の記憶が違うと言うのならきっと夏侯惇も違う。
 もしかすると、違う《幽谷》の面影を私に見て、あんな風になっているのかもしれない。

 否定してやれば、止めてくれるだろうか。
 ……いや、耳を貸してはくれない。そんな気がする。
 彼自身もどうして幽谷にあそこまで拘るのか分かっていない様子だった。否定されてはいそうですかと簡単に納得出来るとも思えない。

 幽谷はほうと吐息を漏らした。

 その時である。

 背後から首に太くて硬い物が巻き付き、重みがかかった。踏ん張れずに思わず前屈みになると横合いから伸びた手が肩を掴んで支えてくれた。その時に、首に回ったものが知り合いの腕であることに気付く。
 視線をやれば彼は目深に被った外套の下から「大丈夫か」と。


「はい。すみません。お手数を」

「いや……周瑜」

「良いだろ。思考中断させるならこのくらいした方が良い。記憶について考え込んでるんなら尚更だ」


 ぎく。
 耳を擽(くすぐ)る言葉には非難の響きが含まれていた。
 博望坡の陣屋で言われたことを思い出し、また何かを言われる前にと幽谷は逃げようと周瑜の腕を掴んだ。
 だが、それを周瑜は見透かしたように首を絞めながら幽谷の腰に腕を回して密着してきた。苦しいと叩いて訴えると、首に巻き付いた腕は外れる。しかし腰をがっちりと抱かれていては逃げられそうにもない。
 暴れれば孫権にも危害を加えてしまいそうな、微妙な距離だ。それを計算してのことだろうから、本当に周瑜には腹が立つ。

 舌打ちすると、周瑜は小さく笑った。けれど笑みはすぐに消える。


「一人になると当たり前のように記憶のことばかり考えてるよな、アンタは」

「……そればかりではありません」

「あっちじゃあ考えない日は無かった……ってのは言い過ぎだろうけど、考えてばっかりだった。尚香からの証言も取ってあるんだからな」

「……」


 幽谷は沈黙して、視線を落とす。

 それに、周瑜は幼子に言い聞かせるように語る。


「あのな、幽谷。オレだってアンタが過去を気にする気持ちは察してるさ。けど、どんなに思い出そうとしても思い出せないものは仕方がない。時間の無駄だ。今は曹操軍に追われてる緊迫した状況なんだから、戻らない記憶のことに構うべきじゃないだろ」

「分かっています。……気を付けては、いますから」

「気を付けてそれだと、オレ達も困るんだよ」


 困る……のは、尚香のことがあるからだろうか。
 そう解釈した幽谷は周瑜を見上げようとして、孫権が周瑜の脇腹を殴りつけたのに動きを止めた。

 孫権は抗議する周瑜の手を無理矢理に剥がし、幽谷の腕を掴んでずんずんと大股に歩き始めた。
 周瑜から解放されたことに安堵は覚えたものの、幽谷は困惑した。物言わぬ主の兄に従う。怒っているような、焦っているような様子の彼は、周瑜から離れて人間達の中に紛れ込んでようやっと歩みを弛めた。

 しかし、幽谷の腕は掴んだままだ。


「……あの、」


 幽谷とほぼ同じ身長にある彼は、外套の下からじっと幽谷を見つめた。
 口数の少ない彼の深い色をした凪いだ瞳に強く見据えられ、幽谷は少しだけ気圧されて肩に力を込めた。自然肩が縮まる。

 彼が何かを言おうとした、その時、


「幽谷。ここにいたか」

「……諸葛亮殿」

「少し、頼みたいことがある。今良いか?」

「……」


 孫権は何も言わず、幽谷の肩を叩いて周瑜のもとへと戻っていった。

 彼が何を言おうとしたのか分からず終いだったが、諸葛亮の用事へと頭を切り替え、幽谷は彼に背を向けた。


「それで、ご用とは何でしょうか」

「封統と共に、この先に野営出来る場所が無いか捜してくれないか。じきにこの道は終わるが、それ以上はあまり進めないだろう。近辺に休める場所があるならば、そこで一夜を過ごす」

「分かりました」


 幽谷は諸葛亮に拱手し、彼と共に歩みを早める。
 先頭へと向かえば、右の方に劉備と関羽を見つけた。朗らかに会話する二人から少し離れて、周泰が蘇双や関定と歩いている。会話は……話しかけられて言葉少なに応じている、といった風情だ。

 ふと、何処からか子供の泣き声が聞こえる。兄弟が泣きながら喧嘩をしているようだ。兄ちゃんが悪いんだ、お前が遅いのが悪いんだ、そんな声が聞こえる。
 これから先、辛く険しい道程、子供達にはさぞ過酷だろう。こんな風に泣き出す子供も増える筈。
 何とか、耐え抜いて欲しいけれど……。
 そんなことを思いながら通過し、封統を見つけた幽谷は諸葛亮を見やり、はっと身体を反転させた。
 諸葛亮の身体が前のめりに倒れるのを支え、顔を覗き込む。


「え……」


 蒼白だった。

 幽谷は驚いて諸葛亮を側の岩に座らせる。
 前に片膝をついて様子を窺い声をかけた。


「諸葛亮殿、大丈夫ですか」


 ……さっきまでは、普通の顔色だった筈。
 それがどうして、こんなにも悪くなっているの?
 困惑しながら頬に手を当てると、諸葛亮はその手を掴んでそっと剥がした。立ち上がった彼に幽谷も立たされる。


「……大丈夫だ。問題は無い」

「しかし顔色が悪うございます。歩くのがお辛いならば馬に乗って……」

「要らぬ」


 歩き出す彼は何処か不安定な足取りながらも早足に劉備の方へ向かっていく。

 幽谷はそれについて行こうかとも考えたが、それを先手を打たれて一睨みで牽制されてしまった。
 仕方なく、封統の方へと向き直る。

―――――そこで、ふと気が付いた。


「あら……喧嘩は終わったのね」


 良かった。
 子供の泣き声が、止んでいた。



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