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 李典は、冷めた目で彼らを眺めていた。

 曹仁に新野の平定を一任した後、曹操は第五陣以外の兵士を引き連れて襄陽城へと向かった。そして、矢の如き速さでこれを陥落、劉表は即座に斬首となった。
 これは、李典の献策だった。

 一息をつく彼らから少しばかり離れた場所に、李典は立っている。策は彼のものであった筈だのに誰一人として彼の様子に気付くことは無い。
 当然だ。そのように、李典がしているのだから。ここに、李典はいないことになっている。だから誰も彼に視線を向けもしないのだ。


「まさか、李典の策を取って襄陽城から先に落とされるとは。すぐにでも、十三支どもを討ちに行くのかと思っていました」

「ふふ、事は慎重に運ばねばならないからな。追い詰めるだけなら簡単だ」


 口角を歪める曹操の、なんとおぞましいことか。
 曹操は新野を出る前、賈栩の報告を受けてから様子が一変した。何か、追い求めていたモノを見つけたような、そんな恐ろしく黒々しい執着が黒の瞳に見え隠れする。

 李典は曹操を尊敬している。夏侯惇の次くらいに。
 しかし、今の曹操に関しては、見ているとどうにも嫌悪が勝って仕方がなかった。いや、嫌悪感と言うよりは……危機感、か?

 腕を組んで曹操の様子を眺めていると、ふと兵士が駆け込んできた。


「曹操様! ご報告します! 十三支達が樊城を出た模様です!」


 胸の中で、ざわりと何かが蠢く。それが何を訴えているのか分かった李典は肩をすくめた。


「さて、今度はどこに向かったかな。十三支たちは民を連れていたはずだが、これはどうした?」


 兵士は背筋を伸ばしはきはきと答えた。
 曰く、民や荊州兵は十三支と共にいるらしい。


「馬鹿な。難民を連れて移動しようというのか。俺たち曹操軍に追われているというのに」

「そうですね。とても理解しがたいですが、なぜでしょう、猫族の皆さんならそうすると思います」

「ふん! 手向かうというのなら軍民関係なく討伐してやる!」


『……愚かな』


 不意に、頭の中で声が反響する。
 それは昔から聞き馴染んだ、保護者のような、師匠のような声だった。
 まあ、確かに李典も夏侯淵の発言は過激だとは思う。軍人はともかく、逃げて弱り果てた民まで刃を向けることもあるまい。むしろ、民だけは手厚く保護した上で荊州に戻らせ普段の生活に戻らせるべきだ。恩を売るのだ。

 民はただ、曹操軍の侵略に危機感を抱き逃げているかだけの可能性が高い。

 ……なんて、言ったって甘いとか言われて殴られるんだろうけれど。


「賈栩、襄陽城は任せた。手に入れた荊州兵の把握ならびに我が軍への編入を速やかに行うのだ」

「わかりました。曹操様は十三支たちを追われるのですか?」

「曹操様自らが!?」


 曹操は鼻で笑い首肯する。


「そうだ。私のこの手で奪い取ってくる……。夏侯惇、お前も来い。未だ狐狸一族の女を追いたいのだろう?」


 唖然としていた夏侯惇は、曹操の言葉に過剰な反応を見せた。
 夏侯惇も、今の曹操と似たような状態だ。狐狸一族の女に固執し、捕らえようと躍起だ。曹操よりは、まあまだマシだと思うけれど。

 二人の上司がそれぞれ女に夢中、なんて。
 ……あんたの上司の方がマシだよなぁ。
 李典は肩をすくめ、誰にも見つかること無くその場を後にした。

 廊下を歩きながら、後頭部を掻く。


「……まあ、夏侯惇殿には申し訳ないけど、あんたはその狐狸一族の女を利用するつもりなんだろう? 俺の為に」


 ややあって。
 足が止まる。

 舌打ち。


「……ああ、そうさ。俺にはそれしかお前を救う手段が見つからねえ」


 口調ががらりと変わる。粗暴な口振りと鋭い眼差しはさながら破落戸(ごろつき)だ。
 柱に寄りかかり嘆息する。


「あいつらには悪いがな。俺にも譲りたくねえことくらいはある。……安心しろ、俺は必ずお前を元の身体に戻してやる」


 目を伏せ、また開く。
 その時には落ち着いた、李典の様子に戻った。頬を掻き、歩き出す。


「あんたは生まれた時からいたし、別に構わないんだけど……問題は、《あいつ》だもんなぁ。今はあんたと俺で制御出来てるし、力もちょこっと拝借出来てるけど、このままいる訳にはいかねえよな」


 仕方がない。
 自分の為に人一人、しかも神の一族の女が犠牲にされる――――それに、胸が痛まない訳ではない。
 けれどもこのままでいればきっと自分は、自分ではなくなって完全に支配されるだろう。その時にはもう手遅れ。何百人も、何千人も――――白銀の悪魔以上の災厄を、もたらしてしまうのだ。
 今の俺は、死んで解決することも出来ない、生きた封印。

 この身に潜む《あれ》に支配を許す事態だけは回避しなければならない。……絶対に。


「でも会った時くらい、謝った方が良いか……」


 ぼそりと独白すると、不意に後方で李典を呼ぶ声が聞こえてきた。
 李典ははっとして《術》を解き、声の方へ駆け寄った。


「あ、ここにいます夏侯惇殿。もう終わったんですか」

「ああ。お前も十三支どもを追うことになる。急ぎ兵を整えろ」

「分かりました。……あ、夏侯惇殿も行かれるんですね」

「曹操様のご配慮でな」

「狐狸一族の女性、今度こそ捕らえられると良いですね。でも絶対に無理はしないで下さい」


 ……なんて、心にも無いことだ。
 李典は笑みを張り付けつつ、支度に取りかかると拱手した。

 夏侯惇に捕まれば《彼》はすぐにでもその女を奪って李典の為に使うだろう。

 そして、何事も無かったかのように、曹操軍の武将として普通に生きるのだ。



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