19
周瑜によって火傷を治療させられ、そのまま休めと部屋に押し込まれた翌日。
謁見の間に猫族達は集まった。
幽谷は諸葛亮の言葉を待ちつつ、周泰と甘寧に挟まれて柱の側に立つ。
諸葛亮は隣に立った封統を一瞥し、淡々と告げる。
「先程、報せが入った。襄陽城が曹操に攻め落とされた」
封統の予想通りだ。
途端、猫族達はざわめき出す。
「そんな! 襄陽城がすでに曹操の手に落ちてしまっただなんて!」
「劉表のじいちゃんは無事なのか!?」
諸葛亮は封統を呼んだ。
封統は面倒そうに欠伸を一つ。騒ぎ立てる張飛や関羽を冷たく睨めつけ、諸葛亮に向けて言葉を発した。
「死んでるよ。もう斬首された。生かしておく意味も無いしね」
「劉表様……」
関羽は青ざめた。
猫族は、未だ劉表の善意を疑っていない。優しい人間であると堅く信じていた。
このまま劉表の思惑など知らぬ方が幸せなのだろう。
「襄陽城に向かった趙雲は大丈夫なの……?」
「趙雲ならばきっと城の様子を見て引き返してくるだろう。どこかで合流出来るといいのだが」
諸葛亮は外を見やり、目を細めた。封統をまた呼ぶが、人間も猫族も嫌う彼女は肩をすくめて回答を拒絶。そのまま役目は終わったとばかりに幽谷達の方へと歩いてきた。
「ボクたちはこれからどうすればいいの? ここにずっといても、いずれ曹操軍に攻められるだけでしょ?」
視線を戻し、彼は首肯する。
「その通り。すぐにここを脱出せねばならない。これより南に軍需物資の豊富な江陵という城がある。ひとまずはそこへ向かおう」
問題が民をどうするか、だが……。
苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めた諸葛亮は、劉備に指示を仰いだ。
劉備は暫し思案して一つ頷く。諸葛亮を見据えて己が民に話をすると申し出た。
諸葛亮はそれを受け、難民は連れてはいけないと深く釘を刺した。彼の中では劉備が民を見捨てないと分かっているのだろうが、敢えてキツく言った。それだけ、新野の民を連れての逃避行は難しいと言うことなのだ。
劉備は眦を下げ、軍師に背を向けた。
その顔は、きっととても辛いものだろう。
劉備はとても優しすぎる。優しすぎるが故に己の罪に苦しみ、それでもなお猫族の為に思案を巡らせ必死に足掻いている。彼は、この乱世を生き抜くには甘すぎた。
けれども、そんな劉備だからこそ、猫族も忠誠を誓い彼を守ろうとする。
乱世でなければ、どんなに良かっただろう。
「幽谷、周泰」
「お供致します」
「……うん。ありがとう」
呼びかけの後に続くだろう言葉を待たずに周泰が言うと、劉備はほっとしたような、少しだけ嬉しそうな顔をした。
‡‡‡
城の前に集められた新野の民達は、各々顔を見合わせて不安に顔を曇らせる。曹操軍が攻めてきたのか――――口々に言う彼らは、新野城とよく似た様だった。
それを前にし、劉備は深呼吸を一つ。腹に力を込めて声を張り上げた。注目を集め落ち着かせた後で話を切り出す。
「これから皆さんに、辛い知らせを伝えなければなりません。どうか、落ち着いて聞いて下さい。襄陽城が……、曹操軍によって落とされました」
ざわめきが、大きくなった。
悲鳴らしき声も聞こえる。
「襄陽城が曹操軍に!? 馬鹿な! りゅ、劉表様はどうされたのだ!?」
「劉表様は……もう、」
「そんな! 劉表様が!? じゃあ、この国はどうなってしまうの!?」
不安が膨れ上がった彼らの中には泣き出す者もいる。
先行きに不安を感じ、子供を抱き締める母親。
劉表の死に両手を合わせて天を仰ぐ老人。
剣呑な雰囲気に心乱されて泣き叫ぶ子供――――。
痛々しい姿は、幽谷でも哀れに思う。
「荊州はもう劉表様が治めていた、皆さんの知る荊州ではなくなりました。荊州の都、襄陽を落とした曹操は順次地方の平定へと着手するでしょう。そして完全にこの国を自分のものとします」
「そんな……。俺たちは一体どうなる!? 曹操は恐ろしい人間なんだろ? そんな奴がこの国を治めるというのか!?」
「あ、あなたたちはこれからどうするの?」
問われ、劉備は目を伏せた。樊城を出て南下し江陵城を目指すと答えた。
それは民には過酷な道である。自分達の安全の為にも、彼らの負担を考えても、連れてはいけない。辛そうに、劉備は語る。
……しかし。
「ですが……、あなたがたが僕たちと共に行くことを望むのであれば、僕はそれを止めることは決してしません」
諸葛亮が息を呑んだ。目を剥き主を凝視した。
「過酷な旅になろうとも、それでも僕たちと共に来てくれるというのなら、僕はそれを受け入れます。……一緒に行きましょう!」
関羽や張飛など、猫族は感じ入ったように劉備を熱のこもった眼差しで見つめる。
が、諸葛亮は焦りの滲んだ顔で劉備に詰め寄った。この中で一番猫族の不利を理解しているのは彼だ。キツく劉備を諫める。
「何を言っているのですか、劉備様。難民を連れての逃亡など自殺行為も甚だしい。曹操軍は劉表様の兵をも取り込み、その数は六十万をも超えるでしょう。それらを相手に逃げねばならないのです」
「現実的じゃないな。なんでもかんでも守ろうとしたら、肝心なものが守れなくなるぞ」
周瑜も、諸葛亮に同意する。口調こそ軽佻だが、視線だけは厳しい。幽谷をちらと横目に見たのは、劉備に幽谷の置かれた状況を思い出させる為だ。
劉備は唇を引き結んだ。彼らの責めを甘んじ、それでも己の言葉を変えたりはしなかった。
「……それはわかってる。でも、どうしても僕は、ついて行きたいと言う人たちがいるなら、それは受け入れたい」
劉備は表情を引き締めた。民を振り返り新たな選択肢を提示する。
「もちろんここに残るのも自由です。ここに残り、曹操軍に下る手もある」
「で、でも、曹操軍に下るって大丈夫なのか?」
「曹操にとっては、荊州はもう手に入れた国。新野の時のような、侵略ではありません。民に手荒な真似はしないと思います……。特に荊州兵のみなさんは、曹操軍に下ればそのまま軍に組み込まれるでしょうから命は保障されます」
荊州兵は、困惑した。
曹操軍に組み込まれれば殺されることは無い。
けれど彼らにとっては、劉表の仇の為に戦わなければならなくなるということだ。
荊州兵達は互いを見合い、渋面を作った。
その中で一人の兵士が劉備に歩み寄る。
「で、ですが、俺たちがいなくなったらあなたたちは兵もなく江陵城まで逃げるのですか……?」
「あなた方にはよくしてもらいました。急に劉表様から、僕たちに同行するよう言われ、戸惑ったことでしょう。皆さんは僕たちと共に博望坡で戦ってくれた。今はこうして、新野を追われてしまったけれど、とても感謝しています」
どうか自分たちのことを第一に考えて下さい……。
劉備は薄く微笑み、彼らに頭を下げた。今までの感謝も込めて、深々と。
それを受け荊州兵達はつかの間沈黙する。
暫し間を置いて、少しだけ顎を引いた。
「……劉表様は俺たちに、荊州を頼むと、そう言ってあなたたちと共に新野へ向かわせました。なのに……、俺たちは曹操軍を防ぐことが出来なかった。結果、襄陽城は奪われ、劉表様は……」
さぞ、無念だろう。
荊州兵は歯を軋ませる程に強く奥歯を噛み締めた。呻くような声を漏らし、両手に拳を堅く握る。ややあって決然たる表情で劉備を真っ直ぐに見据えた。
「荊州も劉表様も守ることが出来なかった俺たちがそのまま生きながらえ、曹操軍として働くなど出来ません!」
「しかし、もう劉表様が治めていた荊州という国はありません。荊州はもう曹操のものなんです」
「ならば、俺たちはもう荊州の兵ではありません」
あなたたち猫族に、劉備様に付き従う兵――――俺たちは、劉備軍です!
高らかに、宣言する。
劉備は目を丸くした。
その金色の目が潤み始めた。
「あなたたちの兵としてつき従います! そしていつの日か、荊州を取り戻し劉表様の無念を晴らしたい……!」
「博望坡での戦い。感謝すべきは俺たちです。たった六千の俺たちが十万もの曹操軍に勝てたんです。きっとあなたがたとならば、曹操軍にも打ち勝ち、荊州を取り戻せる。そう思えるのです……!」
「……、みんな……。本当にそれでいいの?」
「はい!」
力強い首肯である。
劉備は唇を戦慄(わなな)かせた。それを押し殺さんときゅっと引き結び、微笑みを浮かべてみせる。
「わかった……。じゃあ、みんなで行こう。江陵城へ……!」
兵士達に笑いかける劉備。
その姿を、諸葛亮は少しだけ不服そうに、堅い表情で見つめていた。
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