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「やれやれ、まさに間一髪だったな」
船の上、外套の男は幽谷の肩を抱き寄せたまま縁に寄りかかって長々と吐息を漏らした。
彼は幽谷を連れて戻ってすぐに船を出航させた。恒浪牙が、と抗議したがそのまま行けと恒浪牙本人が言っていたのだと言われてしまえば口も閉じざるを得ない。彼は天仙だ。関羽達に心配されるような弱い存在でないことは彼女らも分かっている。
恒浪牙が無事であることを信じ、関羽達は逃れてきた人間達を乗せて荊州を発った。
夏侯惇から逃れられたにも関わらず、男に抱き寄せられている所為か幽谷は物凄く嫌そうだ。何度ももがいて抵抗しては失敗していた。
幽谷の帰還に安堵したのもつかの間、関羽は外套の男からなかなか解放されない彼女を心配し、劉備と共に歩み寄った。
「幽谷、大丈夫?」
「顔色は悪くはないようだけど……夏侯惇に何かされたのかい?」
劉備が額に手をやろうとすると、男が自分の方に引き寄せて避ける。また幽谷がもがく。
けれど、彼の視線は関羽の隣に立つ劉備に向けられていた。
劉備も視線を感じて少しだけ居心地悪そうに困り顔だ。
「僕の顔に何かついてる? そんなにじっと見て」
「…………いや、アンタが猫族の長かと思って。原点? ってやつじゃないけど、やっぱり自分の根源的な物は、少し感慨深いな。そういう柄じゃなかったんだけどな……」
後頭部を掻いて、ようやっと幽谷を解放する。すぐに男から逃れ、少し離れた場所に立つ無口な外套の青年の方へ逃げてしまう。頭を撫でられた。
幽谷がほっとしているのを見、関羽は彼に視線を戻す。
「どういうこと?」
「いや、だから……」
男はそこで外套を取り去る。
頭でふるりと揺れた《耳》に、関羽も劉備も目を剥いた。驚いていないのは幽谷と無口な青年だけだ。
「オレも猫族だってこと」
「ええー!」
「君は、猫族だったんだね」
「オレの名前は周瑜。見ての通り猫族だ。これからきっと長い付き合いになる。よろしくな。……で、」
男――――周瑜はそこで、視線を無造作に置かれた積み荷へと向ける。
「いつまでそこで黙ってるつもりなんだよ、封統。オレが幽谷抱き寄せてんの気に食わねえくせに」
「え?」
封統って誰?
周瑜の視線を追いかけて、積み荷を見る。……でも、人影は無い。
「いない、ようだけど……」
「いや、いる。猫族や人間にだけ見えないように術を使ってるだけでオレや幽谷にはしっかり見えてるよ」
周瑜がもう一度呼ぶと、不意に積み荷の周囲がぐにゃりと歪む。
驚く間も無く光景が歪みながら変化していき、収まった頃には積み荷に腰掛け足を組んだ漆黒の娘の姿があった。不機嫌そうな隻眼は黒。黒の頭巾の片側から覗く猫の耳も髪の色と同じ黒だ。
明るい日の下でこそくっきり浮かび上がる程の黒い姿に、関羽は瞬きを繰り返した。
わたしと同じ、混血……。
そう思うと、親近感が湧いてくる。けども相手は険しい表情で関羽と劉備を睨んでいる。それは十三支と蔑む人間達の目と良く似ていた。
娘は憮然とした顔で積み荷を降り、かつかつと幽谷のもとへ歩み寄り、唐突に頭をはたいた。
「あっ!」
「考え無しに危険に突っ込むんじゃない。我らが長から叱責を受けても庇わないから」
「申し訳ありません……姉上」
姉上?
関羽は目を瞠った。
姉、ということは彼女も狐狸一族なのか。見た目的に難しいような気もするけれど。
人間である周泰も狐狸一族だ。異なる種族でも長が迎え入れたりしたのだろう。
だったら――――。
関羽は封統に微笑みかけて歩み寄った。
「ねえ、封統。あなたもわたしと同じ――――」
「気安く話しかけんな十三支如きが」
「――――え……?」
一瞬、思考が止まる。
目の前の、自分と同じ混血の娘から、酷い言葉を返された。
関羽は停止し、封統を茫然と見つめた。
それが彼女の癪に障ったらしい。
「聞こえなかった? 気安く話しかけんなって言ってんの。僕が混血だからって何? 僕、十三支も人間も大嫌いなんだ。長の命令でなきゃ同じ場にもいたくない」
蔑視。
冷たい視線に射抜かれ、関羽は一歩後ろに後退する。
劉備が関羽の肩を抱くようにして支え、封統を悲しげに見た。
「君は……」
「狐狸一族の長には感謝しときなよ。殺すなって言われてなかったら今頃何人か殺してただろうね。十三支も、人間も」
「封統。この場でそれ以上は止めとけ」
周瑜がキツく咎める。
封統は舌打ちし、身を翻した。
「姉上」
「狐狸一族の長の命で、これから僕もお前達と行動することになる。それを、諸葛亮にも言う。幽谷お前は休んでろ。火の中に長時間いたんだ、お前が感じていなくても身体に負担はかかってる。周瑜、 僕が戻るまで無理に動かぬようこいつのこと見張ってろよ」
「……ああ」
周瑜は渋面を作って了承する。
そこで、無口な青年が動いた。歩き出した封統に続く。
拒絶するかとも思ったけれど、意外なことに封統は右に退いて青年を並ばせた。猫族も人間も大嫌いだと言っていたのに……。
それに、周瑜に対してもだ。
周瑜だって猫族。だのに彼に妹のことを任せるなんて。
彼女にとって、二人はそれ程には親しい存在なのかもしれない。
少しだけ、隣に並ぶ外套の青年が羨ましかった。
「封統……わたしと同じ、混血なのよね」
「さあな。あいつあれでも百年は生きてるらしいからな。何処の生まれかも分からないわ、一時期天仙のもとで暮らしてたって言うわ、周泰や幽谷とは違う術も使うわ……オレでもあいつのことはあんまり分からない。ただ、あいつの人間や猫族への憎みようは相当だぜ? あんまり刺激すんなよ」
「……」
「劉備?」
「……あ、ううん。何でもない。気にしないで」
劉備は封統が歩いていった方をじっと凝視していた。
まるで、友人と喧嘩したような、悲しげな顔だ。
顔を覗き込むと、劉備は取り繕うように笑ってかぶりを振った。
「それよりも幽谷、体調は本当に大丈夫? 今の封統の話だと、身体に負担がかかっているんだろう?」
「負担、と言われましても……自分では分からないのですが」
「とにかく、暫くは大人しくしてろ。封統は怒らせると怖いからな」
「……知っています」
周瑜に頭を撫でられ、苦々しく頷く。すげなく手を振り払った。
「……あ、わたしお茶を淹れてくるわ。少しでも落ち着けるように」
「いえ、お気遣いなく、」
「良いから甘えてろ。そして座ってろ」
幽谷を強引に引き、封統が座っていた積み荷に座らせる。
それを見届けて、関羽は小走りにお茶の用意に向かった。
途中諸葛亮と話す封統を見かけたが、諸葛亮と少しだけ親しげに見えた――――ような気がする。
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