無辺世界を漂う。
 周りは白ばかりで何も無い。

 ……本当に、何も無い空間だ。
 どうしてこの空間が存在して、どうしてその中に自分という存在が在るのか、分からない。
 いや、分からなくても良いのかもしれない。さしたる意味が無いのかもしれない。
 何も無かった筈の自分がここに存在するのなんて、些末な問題だ。
 漂うことにさしたる意味も無い。
 ならば、この世界に興味を持つことも無駄なことだ。

 そう……無駄。
 自分は無駄な存在なのだ。何をしても無駄。何を考えても無駄。

 そんなことは分かっているのに。

 どうしても、考えてしまう。
 どうしてなのだろうか。
 考えるのを止めれば綺麗に消えられる筈なのに。

 それが、何故出来ない?


『簡単なことだ』


――――不意に、声が聞こえた。
 これは初めてのことである。どれだけの時間この空間をたゆたっていたかは分からないけれど、こんな風に誰かの声がこの世界に響いたことは一度たりとて無かった。

 だからだろう。
 その声に興味を持った。
 誰だろうか、そんな久方振りの好奇心を抱き、声に意識を傾ける。

 声は、まだ続いている。


『お前が《己》に未練があるから、お前は思考を止められない。思考することも放棄すれば自分が消えてしまうと本能的に理解しているから、それに心底恐怖し、繋ぎ止めようとしているのだよ。意識しか存在しないお前に本能的、理性的と言うのはおかしいがな』


 くつくつと、咽の奥で笑う、恐らくは女性のものであろう濁声。
 どうして他者の声がこの空間で聞こえるのだろうかと不思議がっていると、声はこちらの思考が分かっているかのように、白の空間に響き渡る。


『そりゃあ、出来るさ。オレだもの』


 自信に満ち満ちた声音である。闊達(かったつ)な女性なのだろうとは、その声から想像出来た。
 彼女の声一つで真っ白な空間に生気が宿ったような気がする。それ程にこの声には健やかな力が込められていた。
 何て、力強い声なのだろう。とても惹き付けられる。
 それは自分に《生》が無いからだ。亡霊程未練がある訳ではないが、それでも生に満ち溢れた者に引き寄せられてしまうのは仕方のないことだった。
 浅ましい己に、辟易する。


『自己嫌悪に浸るのは後にしてくれ。時間の無駄だ。何でも出来るオレが、どうしてこの無の世界に意識を飛ばしているか、聞いてもらおうか。……なに、あまり長い話にはしないさ』


 こちらに戻ってきたくはないか?
 まるで試すような口振りに、無い筈の胸が擽られるような感覚がした。




‡‡‡




 それは、水の中から掬い上げられたかのような、強引な急浮上だった。
 無かった筈の触覚は背中と膝裏に少し硬い棒のような物を感じ、誰かに抱きかかえられているのが分かった。

 薄く目を開ける、
 嗚呼、視覚だ。
 嗚呼、嗚呼……匂いも感じる、音も聞こえる。
 今、自分は身体を得ている。

 視界の中央にあるのは、男の顔だ。この鼻を突くような磯の匂いも彼からしている。

 女性……ではない。
 けれども、どうしてだろうか。
 この人の目はとても優しくて、安心する。
 この緑と赤の目にも、何となく、覚えがあるような――――。


――――いや。
 《彼》の双眸は、こんなにも薄く、透き通っていただろうか?


「あなた、は……」


 舌足らずな声になってしまった。自分はこんな声をしていたのだっけか。
 ……思い出せない。
 何一つ思い出せない。
 自分は今まで何をしていたのだろう。
 白の空間でたった独り――――いいや、もっと前だ。ずっと前? ……ずっと、なのかも分からない。

 私は誰だったのだろう。
 白の空間以前のことは、何も思い出せない。

 過去が分からなければ、《自分》が、分からない。

 私は、今までどのように存在していたのだろうか?


「……」


 男はこちらを見下ろしたまま何も言わない。
 彼の双眸は、記憶を擽ってくる。それでも相違があるようで、これといって思い出せることは無かった。


「あの……?」


 もう一度話しかけてみる。
 瞬き。
 今度も応えてくれないのだろうか――――そう思った時、皮の薄い唇が動いたのだ。


「……幽谷か」


 確かめるような、抑揚に欠けた声音。

 男の言ったのは恐らくは人名だ。それは自分を指しているのかもしれない。
 幽谷――――その言葉を反芻(はんすう)し、頭の中でも噛み砕く。

 幽谷、幽谷、幽谷、幽谷、幽谷……。
 馴染み深い言葉である。何処かで聞いたことがある。はて……何処で聞いたのだったか。


「幽谷……幽谷……?」

「……お前は、幽谷ではないのか」

「私は、幽谷……?」


 私の名前は幽谷。

 ……。

 ……。

 ……。

 ……。

 ……ああ、そうだ。
 私は、《幽谷》だ。
 それが私の名前なのだ。

 それだけは、はっきりと分かった。


「私は……幽谷です」


 自分の何もかもが分からないのに、名前だけははっきりと断言出来る。自分は幽谷なのであると、その名前に誇りを持てる。
 何故だろうか。


『幽谷』


 ……そう、《彼女》が呼んだからだ。
 では、《彼女》とは誰か。それは分からない。
 大切な人であったことは分かるのに、名前も姿も、このノイズがかった声がどんな声であったかも、何もかも思い出せない。


「……」


 男は一瞬目を伏せて、動き出す。幽谷を抱きかかえたまま何処かへと歩いていく。


「何処へ向かうのですか」

「我らの母、そしてお前の母になる方のもとへ」


 お前はこれから、俺達の家族となる。
 歓迎すると、至って平坦な声音で告げられた。

 家族。
 その単語を呟く。
 ……何故か、胸が異様に熱くなった。



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