12





 ここで、少々時を遡る。
 幽谷が関羽を逃した直後の船着き場。

 ごうごうと燃え盛る城を目の前にし、劉備は奥歯を噛み締めるしか無かった。
 関羽と幽谷は未だ戻らない。この大火の中、子供達を未だ捜しているのだと思うと、無力な自分が情け無く、口惜しく感じられる。


「すごい炎だ……。こんな中を、彼女達は行ったなんて」


 関羽の後に続いた恒浪牙も、無事では済まないかもしれない。

 よろり。
 側で諸葛亮が前屈みになって口を押さえる。その手はがたがたと大袈裟なくらいに震えていた。

 彼の異変に、関定が駆け寄って背中に手を置いた。


「どうしたんだよ、諸葛亮? 随分具合悪いみたいだぜ」

「いや……、何でもない」


 劉備も諸葛亮を気遣うが、内心彼のことよりも関羽と幽谷のことが気がかりだった。
 二人共、劉備にとって大事な存在なのだ。
 幽谷は劉備のことは勿論、猫族のことも、曹操軍のことも覚えていない。劉備以外の猫族や人間達も然(しか)りだ。劉備も、覚醒するまで幽谷のことを全く覚えていなかった。

 恒浪牙達によるものだ。
 四凶、四霊の言い伝えだけを世に残し、幽谷や封蘭、犀煉のことまでも存在を抹消させられてしまった。

 劉備だけが、昔の、その身を犠牲にして劉備を金眼から助けようとし、結局は無駄死にしてしまった姉のように慕った尊い女性を覚えている。
 幽谷は、自分が殺したようなものだ。
 僕の為に金眼を封印する器になろうとしてくれたのに、金眼は未だ僕の中に在る――――それが、申し訳なくて、苦しくて、悔しくて。

 今更後悔したってもう遅い。幽谷はもうかつての幽谷でない。昔の幽谷はすでに死に絶えてしまったのだ。今側にいて劉備を守ってくれているのは、新しく生まれ変わった別人。
 赤の他人、なのだ。

 けれども、幽谷が傷つくのは、関羽が傷つき苦しむのと同じくらい嫌だ。
 関羽と幽谷、それぞれに向ける感情の色は違えど、どちらも劉備にとってかけがえのない大切な存在であったことには変わり無かった。

 だから諸葛亮には申し訳ないけれど、彼よりも二人の安否が気になってしまうのだ。


「諸葛亮、やっぱり何と言われようが僕も行くよ。彼女らだけ危険な目に遭わせるなんて出来ない」


 諸葛亮は深呼吸を一つ。居住まいを正して、青白い顔を劉備に向けた。


「わかりました。ではこの場で私を殺して下さい」


 冷淡に、乞う。

 劉備は目を剥いた。顎を落とし諸葛亮を凝視する。


「殺していただけないのなら、自分で命を絶ちます」

「諸葛亮! なぜそんなことを言うんだ!」

「劉備様、あなたの死は臣下の死と同じ。あなたが危険を冒すというのであれば、私が命を絶つのは当然です。あなたがあの燃え盛る城に戻るということは、そういうことなのです。それを自覚して下さい」


 冷酷に言い聞かせる。
 劉備は血色の悪い諸葛亮を見つめ、肩を落とした。
 彼にとって、命は何よりも重い枷だ。そのようなことを言われれば雁字搦(がんじがら)めになって何も出来なくなってしまう。

 泣きそうに顔を歪めて城を見やった。



 その時だ。



「いたぞ! 十三支たちだ――!!」

「そ、曹操軍が来たー!」


 悲鳴にぎょっと首を巡らせる。

 ……大軍が、間近に迫っている。
 劉備はひゅっと息を呑んだ。あの時の、殺戮に愉悦を感じ歓喜していた忌まわしい自分の姿が思い出され、水を被ったように総身が冷え切った。

 整然と列を為し、こちらへと接近してくる曹操軍に諸葛亮は舌を打った。


「劉備様、船にお乗り下さい。関定、劉備様をお連れしろ。残りの者も船に乗れ、出発するぞ」


 これに抗議の声を上げたのは、子供が取り残された母親二人だ。
 子供のことで必死に縋りつく二人に、劉備は苦しげに諸葛亮へ出発を拒んだ。

 されど――――無慈悲な雨が、彼らに降り注ぐ。
 掛け声と共に無数の矢が、曹操軍より放たれた。
 それらは猫族、そして劉備を狙う。


「劉備様! あぶない!!」

「!」


 劉備を捉えた矢から守らんと、諸葛亮が庇い立つ。
 関定が剣を構えるも遅く――――。


「はあぁっ!」


――――天から落ちた影によって矢は弾かれた。



‡‡‡




 それは本当に影としか言いようが無かった。
 黒い装束に身を包んだその小柄な影は、頭巾の片側から猫の耳を覗かせている。もう片方は無いようだ。

 何もかもが真っ黒な姿は、この明るい昼間には異様に映り、むしろくっきりと浮かび上がっている。


「ったく……あの馬鹿娘。こっちが頭悩ませてんのも知らずに……」


 ぶつぶつと苛立たしげに文句を垂れつつ、双剣を手にして片手を振るう。

 何事か呟いた刹那、右手の川の水面が大きく揺らめき、盛り上がった。
 あっと声を上げたその直後にはそれ天へと高く突き出し形を持つ。

 ぐねりと身をくねらせるそれは、龍だ。

 水龍があぎとを開閉させ、唖然とする曹操軍を睨めつける。己の獲物を品定めるように、目に当たる部分に浮かんだ赤い光を揺らめかせた。


「やれ」


 影が無情に命じる。
 龍は口を一度大きく開くと、身を一瞬引いて――――曹操軍へと突進する!

 悲鳴が上がるのと水龍が弓兵を飲み込むのはほぼ同時だ。

 まるで鼠を丸飲みにした蛇。
 沢山の兵士を飲み込み身体を丸く膨らました水龍の中で、兵士達は咽を押さえてもがき苦しみ、やがて動かなくなる。
 その様を間近で、まざまざと見せつけられ、他の兵士達が戦かぬ筈か無い。

 水龍が曹操軍を見渡すと彼らは武器を放り捨てて方々に逃げ出した。

 唯一、賈栩だけが興味深そうに水龍を見上げているだけだ。
 影がまた片手を振って水龍を消すと、ぼとぼとと溺死した死体が地面に落ちる。
 賈栩の視線がそれらに向けられることは無かった。


「これはまた、さすがは狐狸一族というべきか……見事なものだね」


 そう、単調に言う軍師に影は舌打ちする。
 劉備達を振り返って船を指差して一言「乗れ」と。

 その顔に、劉備も、諸葛亮も目を剥いた。


「お前は……泉沈か?」

「え?」


 劉備がぎょっと諸葛亮を見る。けども諸葛亮は愕然と影の姿をまじまじと見ていて彼の視線には気付かない。

 泉沈と呼ばれた影は目元を震わせ不機嫌そうに顔を歪めた。


「良いからさっさと乗れっつってんだよ屑共が」


 口汚く吐き捨てる。
 劉備が彼女に歩み寄ろうとすると、敵意と殺気で鋭く尖った睨みを向けられ足が竦む。


「君も……なのか」

「おい十三支。汚ぇ声を聞かせるな、耳が腐る。ただでさえ同じ空気吸ってんのも気に食わねえっつーのに」


 心底忌々しく影は城を見やる。すっと隻眼を細めた。


「幽谷じゃないのか……」

「お――い! みんなお待たせ――!! 早く逃げようぜ!」


 影の声に重なるように、張飛の明るい大音声が聞こえてくる。

 影は諸葛亮を一瞥し、双剣を宙に消して城の方へと歩き出した。どうしてだろう。張飛達の脇を通り過ぎても彼らは彼女に視線すら向けなかった。
 誰かに声をかけられることも無く、城の中へと入っていった。


 三人は、まだ姿を見せない。



.

- 75 -


[*前] | [次#]

ページ:75/220

しおり