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「病み男はお呼びじゃねえんだよ!!」


 苛立たしさの混じった怒声と共に、夏侯惇の足下が抉られる。
 夏侯惇は背筋をひやりとしたモノが伝い落ちる。幽谷が取り落としそうになったのを立て直して向き直ると、狼牙棒を地面に叩きつけた青年が一人、不機嫌を隠そうともせずに夏侯惇の睨めつけていた。

 舌打ちし、よくよく磨かれた石造りの床に深々とめり込んだ狼牙棒を引き抜いて肩に乗せた青年は、夏侯惇に大股に歩み寄ってくる。


「その娘は家内のいとこに当たるんでな、てめえに渡す訳にはいかねえ。その小綺麗な顔を崩されたくねえなら、さっさと置いていけ。お坊ちゃん」


 青年は狼牙棒をくるりと回し、近くの柱を破壊した。軽々と振っただけだ。だのに、狼牙棒の無数の針が並ぶ紡錘状の先が触れた瞬間、しっかりとした柱は粉々に砕け散ってしまったのである。

 それは脅しだ。幽谷を返さねば、次に粉砕するのはお前だと、不機嫌に夏侯惇を脅かしている。
 脅迫を分かっていながら、彼の剛力に夏侯惇は薄く口を開き、驚嘆の吐息を漏らさずにはいられなかった。


「死にたくなけりゃさっさと幽谷を返せ。クソガキ」

「……断る、と言ったら?」


 声が震える。
 本能は、分かっている。彼は自分よりも遙かに強い。隙のあるようで、全く見えないその佇まいのみから察せられる程、夏侯惇は足元にも及ばないだろう。
 だが、だからといって幽谷をこのまま渡せない。

 青年は舌打ちした。


「じゃあしゃあねえ。……実力行使だ」


 最後の言葉は間近だった。
 はっと身を捩るよりも早く腕の中から幽谷が取り上げられる。
 取り返そうと腕を伸ばすも無駄である。

 青年は幽谷を片腕に抱き寄せて夏侯惇から距離を取った。狼牙棒を床に突き刺し苦悶に顔を歪める幽谷の額に手を添える。仄かな光が額と大きな手の間に生じると、途端に幽谷の表情は和らいだ。ゆっくりと瞼を押し上げ、掠れた声を漏らす。


「大丈夫か、幽谷」

「……はい」


 そっと離せば、よろめきながらも倒れずに姿勢を正す。額に手を当てて首を左右に振った。
 青年は周囲を見渡して何かを捜す素振りを見せ、目を細めた。また、舌打ち。幽谷を押しやって早く関羽を追いかけるように指示した。

 夏侯惇は即座に剣を構え青年に肉迫せんと足を踏み出した。

――――が。


「!」


 足元を矢が掠める。
 立ち止まって矢の飛来した方向を見やると、そこにはいつの間にか外套に身を隠した人物が弓を構えている。その後ろから背の高い、同じく外套で姿を隠した人物が現れ幽谷に駆け寄って怒声を浴びせた。


「早く戻るぞ!!」

「え、あ……」


 幽谷は強引に腕を引かれて体勢を崩し背高の人物に倒れかかった。
 すぐに離れ周囲を見渡し何かを捜し、眉根を寄せる。口が僅かに動いた。
 素直に逃げようとしない幽谷に焦れ、背高の人物は幽谷を肩に担いだ。その勢いで服のめくれかけた尻を押さえた。幽谷が抗議すると同時に、弓を持った人物が隣に並んで無言で見上げる。

 「そんなこといちいち気にしてる場合か!」背高の人物が怒鳴った。


「おいアンタ、ここは任せるぜ」

「ああ。その為にお前ら捕まえたんだ、役に立たなかったら殺す」

「分かってるって。アンタも遅れるなよ!」

「良いからさっさと行け邪魔だ」


 ぞんざいに片手を振り、青年は狼牙棒を構える。


「残念だったな」

「……」

「分かりやすく機嫌悪くなったな……。女一人でそこまで感情動かすなよ。色々仕損じるぞ。……俺が言えた義理じゃねえけどよ」


 地を蹴って、夏侯惇に肉迫する。
 夏侯惇も力の差を感じつつ彼を迎え撃たんと剣を振るった。



‡‡‡




「周瑜殿、担がれずとも走れます。下ろして下さい」

「良いからお前は黙ってろ!!」


 本当に平気なのだが、焦っている周瑜は怒鳴って幽谷を黙らせる。
 城の火は随分と燃え広がっているようだ。所々木製の床が抜け落ちている箇所もある。周瑜達が急ぐのも、その所為だろう。

 周泰がいれば、火を操って通路を確保することぐらい容易かっただろうが、生憎(あいにく)彼はすでに新野を発っている。

 城の様子に片目を眇めつつ、関羽を先に逃せたことにほっとしていると、不意に隣を走る孫権が声をかけた。


「幽谷、体調はもう良いのか」

「……はい。恒浪牙殿に治していただけたようです」


 簪を見た瞬間に襲った激しい頭痛は、恒浪牙が額に振れた途端嘘のように消え去った。恒浪牙が何か術を施してくれたのだろう。
 原因の簪が何処にも見当たらなかったのは気にはなったが、今のところ不調は無く、このまま劉備達の護衛に戻っても問題は無い。

 そう言うと、孫権は沈黙した。


「孫権様?」

「……このことは尚香に話させてもらおう」

「は?」


 いきなり、そんなことを言う。
 困惑して首を傾けると、周瑜が不意に跳躍した。穴があったのだ。

 城自体が崩れ始めるのも時間の問題。
 夏侯惇を足止めする為に残った恒浪牙は大丈夫だろうか。

 夏侯惇も、あのまま残れば命は――――。


「周瑜!」


 孫権の鋭い声に幽谷の思考は中断される。

 右の柱がすれすれに倒れ込み火花が襲いかかる。
 頬を掠め、幽谷は小さく身動いだ。


「もう少しだ!」


 周瑜が言い、速度をぐんと上げる。



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