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 関羽の声が聞こえた直後に、夏侯惇の怒声が鼓膜を震わせる。
 幽谷はどくりと心臓が跳ね上がる感覚に足を止めた。

 夏侯惇が、いる。

 熱気に煽られて流れる汗の感触が、咽がひりつく痛みが、一層強く感じられるのは緊張で感覚が過敏になっているからか。
 一歩後ろに退がった足を叱りつけて、幽谷は駆け出した。
 この状況で関羽を見捨てて逃げることは許されない。猫族を助けずに、何の為に遣わされたのか。


「関羽殿!」


 関羽達の声が聞こえた広間に入り、子供達を下ろす。外套の下から飛ヒョウを取り出し、関羽と鍔迫り合いをしていた夏侯惇へ投擲(とうてき)した。
 関羽は夏侯惇に押されよろめきながら退がる。それに、幽谷も匕首を手に駆け寄った。


「幽谷……!」

「ご無事ですか」

「ええ……でも、」


 眦を下げ、夏侯惇を見やる。
 彼は関羽が言う暇も与えずに幽谷へ躍り掛かった。

 関羽を子供達の方へ押しやって匕首で受け止める。


「まさかそちらから来るとはな。……好都合だ」


 険しい顔で、荒ぶる激情を抑え込んだ顔で、夏侯惇は幽谷に迫る。強く擦れる得物同士が耳障りな悲鳴を上げた。
 幽谷は並外れた膂力(りょりょく)を以てこれを押し退ける。

 夏侯惇はしつこく幽谷に肉迫し、強烈な剣撃を見舞った。一撃一撃が重く、そして素早い。
 武人としてかなりの力量の彼に幽谷も負けじと応戦した。恐怖で竦(すく)みそうになる足は強く踏み締め、或いは夏侯惇に向けて振りかぶり、紛れさせた。


「関羽殿、ここは私が!」

「でも幽谷! 夏侯惇は、」

「ですから、私が引きつけている間にその子供達を安全な場所へ!!」


 関羽に声をかけるも、あまり余裕は無い。
 この熱気と精神の乱れによって普段通りに動けていないと、幽谷は自覚していた。夏侯惇を倒すつもりはない。ただ、関羽が無事に逃げおおせるまで時間を稼ぐだけだ。彼女達が去ってくれれば、自分も頃合を見て逃げ出す。

 それを伝えたいのだが、苛烈さを増した夏侯惇の攻撃がそれ以上の会話を阻む。関羽達の様子を窺う余裕も無くなってしまった。
 夏侯惇に床に転がった燃える木片を素手で掴み投げつけて僅かな隙を作り、脇腹を蹴りつける。


「早く! でなければ私も逃げられません。時間を稼ぐだけです。子供達が脱出出来ればすぐに離脱します」

「……っ、……本当ね? 本当に、ちゃんとすぐに逃げるのね?」

「はい」


 ですから、お早く。
 振り返らずに急かせば、「必ずよ!」と、関羽は子供達を促して駆け出した。足音が遠ざかっていく。
 ひとまずは、これで大丈夫か。

 後は、夏侯惇。
 脇腹に容赦無い蹴りを受けた夏侯惇はもう持ち直している。剣を構えて再び幽谷に斬りかかった。

 勢いに、一瞬だけ怯む。
 けれども理性よりも早く身体が反射的に動き、匕首で一閃をいなす。
 外套からまた別の匕首を取り出して首めがけて突き出す。

 避けられた。
 舌打ちして床を蹴りつけ空中にて後転しつつ着地する。
 寸陰の間も置かずして襲い来る夏侯惇の突きを身体を回転させて回避し背後に回り込んで肘をうなじに落とす。これもまた危なげに避けられる。
 跳躍して距離を取れば、夏侯惇は追いかけはせずに剣を構え直して体勢を戻した。
 周囲の様子を見渡し舌打ちする。


「これ以上は危険か……だが、」


 この好機は逃せん。
 裂帛の叫びを上げ夏侯惇は猛進してくる。
 それを迎え撃とうと幽谷は大きく一歩足を踏み出して横に大きく薙いだ。自分では、夏侯惇の動きを捉え、素早く動けていた筈だった。

 しかし、夏侯惇は左に転がって避け、素早く体勢を立て直し幽谷の匕首を持つ腕を掴む。捻り上げて取り落とさせた。


「く……っ」


 間近に迫った彼に全身が強ばった。頭の中で、喧(やかま)しいくらいに警鐘が鳴り響く。
 もう片方の匕首で突いても軽々と避けられ、それも手刀で落とされた。

 外套に手を差し込めば暗器に触れる前に掴まれ両手を一纏めにされる。もがこうとすれば刃を首筋に当てられた。
 幽谷は夏侯惇を睨めつけて恐怖を押し隠す。こんなにも間近に接近されて、心臓が破裂しそうだ。こんなに暑いのに、身体の芯はすっと冷え込んでいる。

 身体を強ばらせる幽谷の顔を見、夏侯惇は隻眼を細めた。


「……そんなにも、俺が怖いか」

「……っ」


 片手で拘束された腕を引かれ、顔が間近に寄ってくる。鼻先が触れ合うか否かの危うい至近距離だ。
 その目を見たくなくて視線を逸らせば夏侯惇は忌々しそうに舌を打つ。
 顔を傾け、更に近付こうとし――――。


 カラン、と夏侯惇の腰から何かが落ちた。


 意識がそちらに向いた一瞬を突き幽谷は首が切れるのも厭わずに身動ぎして膝で夏侯惇の腰を蹴り上げた。
 拘束を強引に解いて彼から逃れ、床に落ちた匕首を拾い上げる。腰を低くして身構え、夏侯惇から落下した物を見やる。


 簪(かんざし)だ。とても簡素な造り、の――――。


「……っ!?」


 赤い珠が散りばめられた中に一点蒼い珠を認めた瞬間、幽谷は突如強烈な頭痛に襲われる。太い槍でこめかみを一気に貫かれたような、強い衝撃だった。
 突然の激痛に頭を押さえてその場に座り込み、呻く。


「幽谷っ?」


 夏侯惇が、傍らに座って背中に触れる。突然の事態に彼もまた困惑しているようだった。

 けれど、幽谷は夏侯惇どころではない。頭を貫く激痛に悶える。
 激痛の中、何かが流れ込もうとしているような気がした。けれども何かが拒むようにそれを押し返し、その圧力がまた痛みを強めている。
 夏侯惇から逃げることも忘れ、激痛に身体を丸めた。



‡‡‡




「一体、何がどうなってる……?」


 幽谷の背中を支え、仰向けにする。額に手を当てても熱いのは当然だ。夏侯惇も、この燃え盛る城の中戦い、汗を掻くくらいに体温は上がっている。
 彼女の身に何が起こっているか、分からない。
 だがこれは――――丁度良いのではないか?

 苦しみ、抵抗することも無い幽谷の身体を抱き上げ、夏侯惇はほうと吐息を漏らした。


「……出るか」


 賈栩達はすでに脱出しているだろう。逃げるなら船だろうと言っていたから、今頃船着き場へ向かっているかもしれない。
 自分もそちらに向かおうと、歩き出した。


 その刹那だ。


 背後で殺気が膨れ上がる。



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