新野の民は、全員が説得に応じた訳ではなかった。
 やはり強い抵抗が心底に根付き、説得は響かなかったのだ。
 だが、もう時間は割けぬ。曹操軍の先頭も、うっすらと地平線に浮かび上がってきている。これ以上の猶予は無かった。

 猫族達も続々と避難の為に関定の誘導に従って移動を始めた。

 周泰は新野の民の護衛としてすでに発っている。その中に幽谷も加わる筈であったが、新野の民が幽谷を猫族以上に警戒していた為に劉備の護衛についた。

 残る民に構わずに避難を進める諸葛亮に、しかし納得していない関羽は待ったをかける。


「待って諸葛亮! まだ残ってる人間たちはどうするの!?」

「無論置いていく。あの者たちが自分で選んだことだ。これ以上付き合うつもりはない」

「そんな……」

「……でも!」


 食い下がろうとするのは劉備もだ。
 優しすぎる主を、軍師はキツく諫めた。


「劉備様、さぁ早く逃げますよ。あなたが逃げなければ、猫族は誰も逃げません。ここで全員曹操軍に殺されますか? それに、あなたの護衛の為に残った幽谷も必然的に夏侯惇と会うことになる。周泰から幽谷のことを頼むと言われているあなたが、幽谷を夏侯惇に差し出すおつもりか」


 劉備は言葉を詰まらせる。どうしてか、幽谷のことの方が彼には効いたようだ。苦しげに幽谷を見、目を伏せる。

 幽谷は表情から彼の心中が読めずに、首を傾げた。
 気の所為だろうけれど、どうも博望坡の戦いから彼の幽谷への接し方が少し変わっている。前よりも親しげに接しているような……。
 探るように劉備を見つめていると、ふと後ろに立っていた恒浪牙が肩を掴んで軽く引き寄せた。


「今は雑念に気を取られている場合ではありませんよ。あなたは夏侯惇将軍を避けることを優先的に考えなさい。もう、曹操軍は間近です」


 諭すような声音に幽谷は小さく頷いた。
 夏侯惇には、会いたくない。また心当たりも無くあの激情を向けられると思うと、芯から冷えていくような心地だ。
 彼の形相が脳裏をよぎり、ぶるりと身を震わした。

 だが、残った以上は劉備や猫族の護衛にしっかりと努めなければ。
 思考を切り替えるように、幽谷は緩くかぶりを振った。

 と、広間に佇む新野の民に諸葛亮が声をかける。


「新野の民よ、曹操軍がここに攻めてくる。私たちは、頃合を見て火を放つつもりだ。我々について来ないのは、お前たちの勝手。しかし、ここにいれば火に包まれるぞ。早々に立ち去った方がいい」

「火を放つだと!?」


 新野の民は色を失った。
 彼らもまた、取り乱して互いに顔を見合わせる。

 そんな彼らに、劉備はまた説得しようとするが、諸葛亮が急かして広間を出た。
 曹操軍が間近に迫っている事実に、関羽ももう諦めて意識を切り替えたようだ。関羽も新野の民を気にしつつも劉備を促した。これに、恒浪牙も加われば、劉備も諦める他無い。

 劉備は得心しかねるような顔で、しかし神妙に頷いた。



‡‡‡




 船着き場に着くと、猫族を誘導していた関定がこちらに気付いて大きく片手を振った。


「劉備様ー! 船の準備は出来てます。さあ、早く乗って下さい」


 劉備は関定に近付き、やんわりと微笑んだ。


「ありがとう、関定。だけど、僕は一番最後の船で行く。先にみんなを乗せてくれないか」

「そ、そんな! 劉備様を置いて先になんて行けません!」

「そうです、劉備様。先ほどと同じで、あなたが乗らなければ猫族は誰も乗りませんよ」


 しかし、劉備は頑として譲らない。


「みんな、船は一度に全員は乗れない。順に乗ってい行かないと。でも、僕はまだ残ってる人を待っていたいんだ。張飛や蘇双。それに、もしかしたら城に残っていた人々も気てくれるかもしれない」

「劉備」

「だからお願いだ。僕より先にみんな行ってほしい。君たちが先に船に乗ってくれると僕はとても安心するし、助かるんだ」


 強く、されど穏やかに。
 長は猫族を諭す。
 真っ先に反対した猫族の男性は劉備の心中に一瞬眦を下げ、すぐに頭を下げて猫族の皆を促した。

 全く譲らない猫族の長に。諸葛亮もこめかみを押さえる。だがそれ以上反対はせず、猫族達に指示を出し始めた。
 劉備が残るならば、幽谷も残らねばなるまい。彼に歩み寄って彼の一歩後ろに控えると、劉備は肩越しに振り返って幽谷も船に乗るように促した。


「このままいると夏侯惇と遭遇してしまう可能性が高いよ。君も早く船に」

「いいえ。護衛を任されております故に。お側を離れる訳には参りません」


 船に乗れば夏侯惇に会わずに済む。それは確かに有り難いことではある。
 けれどもそもそも幽谷と周泰が猫族と行動を共にしているのは、猫族を守る為だ。ここで長たる劉備を守らずに己の身を優先すれば、母の命に背くことにもなる。

 拱手してその場から動かずにると、恒浪牙が「お兄さんに似て真面目ですねえ」と呆れたように呟いた。


「私も残ります。夏侯惇が現れたら、あっちの姿で軍を壊滅――――じゃなかった、それなりに乱して注意を逸らしますから、あなたはここから動かないようにお願いしますよ」

「壊滅……」

「やだなあ関羽さん、あんなの老人の戯言です。本気で取っちゃいけません。張飛さん達が戻ったら、すぐに発って下さい。それ以降は、何が遭っても人間は待てません。それで良いですね、諸葛亮殿」


 諸葛亮は渋面で頷く。今の状況は彼にしてみれば不如意な展開なのだろう。凪いだ表情にも苛立ちが露わだ。

 恒浪牙が笑いかけると、劉備は安堵したように相好を崩した。


「ありがとうございます、恒浪牙殿、諸葛亮」



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